第81話 渦潮
ジョナサンはパチン、と指を鳴らした。
すると途端に、海賊たちを固めて拘束していたフジツボが、波に溶ける砂の山のように、さぁっと消えていく。
体の自由を取り戻した海賊たちは、我先にとその場を逃げ出し這々の体で自分の船へと逃げ帰った。
メアリーはその様子を見て、クスリと笑う。
「大丈夫だよ。ジョナサンたちのことは殺さないから。沈めるのは嫌いな人たちだけ。私、本当にデビーちゃんみたいでしょ? わがまま一つで誰でも殺せるの」
「やめとけよ。似合ってねーぞ。デビーの真似にしちゃあ、様になってねえ」
ジョナサンは、じっとメアリーの目を見た。混乱して怯えている暗い目だ。デビーならもっと楽しそうに気に入らないものを踏みにじるに違いない。
メアリーには、どうしたらいいかわからないのだ。ただ、身を守るために必死で威嚇している。
デビーならそんなことはしない。ただ悠然と構えているだけだ。それだけで全てが彼女の前にひれ伏すのだから。
「やめとくのはお前だジョナサン。お前にゃ海賊王なんて無理に決まってる」
たった一人、逃げずにその場に残った村長は、じっと渋い顔でジョナサンを睨んでいる。
「いいや、俺はやる。よく考えてみてくれよ。海賊王エドワードをぶっ殺した大悪党って、この俺なんだぜ? 殺したからには責任持って、一切合切もらっていくべきだと思わねえか?」
「笑わせるんじゃねえ、なーにが大悪党だハナタレ小僧め。かっぱらい一つやったことないくせになに言ってやがる」
逃げて行った海賊たちの悲鳴がすっかり遠ざかり、あたりはしんと静まりかえる。
やはり、この頑固ジジイは簡単に意見を曲げたりはしないようだ。
ジョナサンは様子を伺いながら、探り探り会話を続ける。
「なあ、俺の知り合いの神父があんた達と一緒の船に乗ってたはずなんだが、どこ行った?」
「あいつなら、船の牢に入れてある。事あるごとに邪魔してきてキリがねえからな」
ジョナサンはここに来る間の船で、ずっと言葉を選んでいた。村長にもメアリーにも、伝えなければいけないことは山ほどあったから。
しかし、いざこの場に来てしまえば、考えていたことなんて半分も出てこない。
「お前になにができるっていうんだ?」
村長は、吐き捨てるようにジョナサンに投げかける。
「お前はただの、ちょっと魚を獲るのがうまい小僧だ。大きな船も持っていなければ、屈強な手下を従えているわけでもない。お前が今日までやってこられたのは、デビー・ジョーンズの加護があってのことだ。そのデビー・ジョーンズも封印された。お前は無力だ。俺の相棒が苦労して築き上げた海賊の世を、お前のようなひよっこが背負えるはずがない」
「そうだな。だが、俺は色々見て回って、なりたい姿ってのがなんとなく掴めて来た気がするんだ。そのためにちょっとだけ頑張るのが、そんなにダメか?」
「それで海賊王とは大きく出たな」
少し離れたところで、エルモがメアリーのところまで行こうとゆっくりと歩を進めている。
ジョナサンはヒヤヒヤしながら、村長がそれに気づかないことを祈った。
エルモは廃材を踏みつけたり、水溜りに足を突っ込んだりして物音を立てないよう、そろりそろりとメアリーの方へ歩いていく。
注意をこちらに引きつけるべく、ジョナサンはなるべく村長の神経を逆なですることにした。
「エドワードもかわいそうになあ! あんたの夢のためにその人生を費やした。デビー・ジョーンズ・ロッカーで会えたらお礼言っとけよ?」
「俺の夢? ヤツがかわいそうだと?」
「そうだ、あんたが「俺の相棒はすごい海賊だ」って言うから、エドワードが頑張って合わせてくれてたんだよ。そっちは行きたい場所じゃなかったのに、あんたの定めた航路を忠実に守り続けた。あんたのせいだ。あんたが夢を見たから、あんたの相棒はどこにも行けなくなった」
「お前になにがわかる!」
体が震えるほどの殺気に、ジョナサンは思わず怯んだ。
叱られたことは何度もあるが、これほどの威圧感を発しているところは初めて見る。
「お前はまだ海の残酷さを知らないから、そんなことが言えるんだ」
「確かにあんたの言ってることは全部正しいさ。でも、あんただって本当は、もっと海で暮らしたかったはずだぜ?」
ふと、幼い頃を思い出した。
父親が出て行ってすぐ、ジョナサンはなにかと気にかけて面倒を見てくれていた村長に聞いたのだ。「お父さんはどこへ行ったの?」と。
それ以来、村長はジョナサンに、海にまつわるいろんな話を聞かせた。
それまでは、ただの巨大な水たまりでしかなかった広大な海原は、話を聞くうちにジョナサンの中で別の意味を持つようになった。
この海を越えていくと、どこか別の場所にたどり着く。そのイメージは、孤独な身の上となったジョナサンの心を少しだけ自由にした。
目の前にいる老人を見る。記憶にある姿より、小さくなったように思う。
「ガキの俺に海の話をしてるあんたは、本当に楽しそうだったよ」
「黙れ」
「なあ、それで良かったのか?」
「黙れって言ってんだ」
「居たかった場所から離れたままで年月が過ぎるのって、寂しくないか?」
「お前はそれを、お前の相棒に向かって言えるか?」
「クラフトに? なんでだよ」
ぴくり、とメアリーの肩が跳ねた。じぃっとジョナサンの方へ、目線が注がれる。
「あの坊ちゃんは望んで海に出た。だがあの始末だ。理想ばかりを追っているとそういうことになるんだよ。人にはそれぞれ、居るべき場所、適した場所ってものがあるんだ」
ずんと、腹の底に重石が入ったように気分が重くなる。
「もし時間が戻るのなら、お前はあの子に「海なんかへ行かず、自分の家でじっとしているべきだ」って言うと思わねえか?」
「言わねえよ」
不思議とすんなり言葉が出た。
「なぜだ? ここにいないってことは、あの坊やは助からなかったんだろう?」
メアリーの目が大きく見開かれた。唇が震える。
ごろごろと空の上で不穏な音がとどろいた。
彼女の心に呼応しているのだ。
「違うもん」
意固地な声に呼応するように、ピシャッと空が裂けるような稲妻が走った。
「ジョナサン、違うよね? クラフト、生きてるよね?」
空を見上げるまでもない。大嵐の気配が海に満ちている。
「まだ怪我が治ってなくて、お医者さんのところにいるだけだよね?」
メアリーは自分の体を抱きしめるように、身を縮こまらせている。
まるで自分の奥に潜む怪物を抑え込もうとしているようだ。
「それとも、私のこと嫌いになっちゃった? だから迎えに来てくれないの?」
必死になって、クラフトがここにいない「死んだ」以外の理由を探している。
もう足音など気にしている場合ではない、と言わんばかりに、エルモはメアリーの元へ駆け寄った。
村長が、腰のピストルに手を伸ばす。だが、ジョナサンが大慌てで銃の軌道に割って入ると、苦虫を噛み潰したような顔で銃の持ち手から手を離した。
エルモはしっかりとメアリーを抱きしめて、背中を手のひらでさする。
「よしよし、怖かったね。もう大丈夫だよ」
泣き声とも悲鳴とも取れない、今にも狂いそうな声で、メアリーがしゃくりあげている。
「私のせいで! 私のせいで刺されたから! だから私のこと嫌いになったんでしょ? だからここにいないんでしょ!?」
「違うんだメアリー」
できることなら、もっと落ち着いたところでゆっくり話したかった。
「クラフトは最後まで、お前のことが大好きだったよ。そうに決まってる」
ウゥゥ、と獣が唸るように、メアリーの口から嗚咽が漏れる。
「泣くんじゃないメアリー」
つっけんどんに村長が言った。
「よくあることなんだ。受け入れろ」
「クラフトに、かわいいって言って欲しかったのに……」
「なんだ、お前さん、あの坊やが好きだったのか」
「やめて」
「どうせお前には必要なかったんだ。海賊が色気付いても、ろくなことにならねえよ」
「うるさい!」
メアリーが金切り声をあげて叫ぶと、空の上で張り詰めていた緊張感が一気に爆ぜた。雲の上で巨大なたらいの底が抜けたかのようだ。雨も雷も、際限なくどうどうと襲いかかってくる。
「いや、うぅ……、あ、だめ、止まらない! ジョナサン! エルモ! 逃げて! 二人のことは殺したくないの!」
ごう、と凄まじく強い流水の音とともに、足場がぐらりと揺れた。
情けない悲鳴をあげて、さっき逃げて行った海賊たちがどたどたよたよたと戻って来た。
「俺たちゃもうおしまいだ!」
「渦潮だ! みんなここで死ぬんだ!」
滝のような大雨が、海賊たちが長年かけて溜め込んだ金銀財宝を押し流していく。
生き延びることを諦めた海賊たちは、ずぶ濡れになりながら這いつくばって両手いっぱいに金貨を掴み、狂ったように笑い出す。
海が全てを飲み込もうとしている。
この世の終わりのような暴風雨は、難破船の残骸でできた屋根をあっという間に破壊した。ネズミやフナムシたちが慌ただしく逃げ場を探して這い回るが、安全な場所などどこにもない。
島を作り上げていた物のほとんどが、押し流され、吹き飛ばされ、ジョナサンたちは嵐の真っ只中にさらされる。
周囲を取り囲んでいた廃材の山がなくなって、急に視界がすっきりした。
視界にあるのは、荒れ狂う海だけ。ぐらつく足場も海面よりも下にあるせいで、海面に立っているかのように錯覚してしまう。容赦なくブーツの中に入り込んでくる海水が冷たい。
海水が、メアリーを中心に渦巻いている。彼女を起点とした災害はどんどん規模を増し、最初はただの強い海流に過ぎなかったものがすり鉢状に形を変えて、全てを水底へ引き摺り込もうと回転を早めていく。
「ああ、これでいい」
満足そうに村長は呟いた。
「これで、この子に楯突こうって輩は誰もいなくなる。この子は、海で一番おっかない海賊。新しい時代がやってくる。エドが築いた時代を、次の世代に引き継げる」
ぐらり、と崩れかけの島が揺れる。その衝撃でみんながふらついた隙をついて、メアリーはエルモの腕の中から逃げ出した。
「こんなのやだ」
風にちぎられて途切れ途切れに、メアリーの泣き声が聞こえてくる。
「私なんていなくなればいい」
そしてまっすぐに、海に向かって走り出す。
「最初からこうすればよかった」
メアリーは迷うことなく、海に向かって身を投げる。
追いかけたが、間に合わない。
おぞましいほどに荒れている海は、その体をあっさりと飲み込んだ。




