第79話 深海の巫女の問答
「そんなの決まってるだろ」
ジョナサンは迷いなく答える。
「メアリーの進む先を信じてやればいい。あの子はちゃんと、かわいい女の子ってやつになるさ」
ギベッドは賛成できないと思っているのがありありとわかる顔で、ジョナサンのひたいを指差して頭ごなしに否定する。
「本気でそう思ってるのか? 育った環境のせいでもあるだろうが、あの子は性根が邪悪だ。悪党の集団以外で生きていく素質がまるでない」
「大丈夫だよ」
きっぱりと言い切って、ジョナサンはギベッドを指差した。黒い神父服の、きっちりと止められた襟元に人差し指を突きつける。
「じゃあ聞くけど。あんたはその服が自分に似合ってるとでも思ってるのかよ。素質がなかろうが向いてなかろうが、進みたい方へ行くこと自体はできるんだぜ?」
彼がどんな経緯でその服を着ることになったのか、ちゃんと知っている。
決して褒められた理由ではないが、それでも彼は、自分の本来の性質を無視して、その服に袖を通すことを選んだのだ。
いやそうに顔をしかめると、ギベッドはため息をついた。
「わかった。もう止めはせん」
煙が薄れていく。もう時間のようだ。
「メアリーには、お前たちは海賊にも渦潮にもひるまずにこちらへ向かっていると伝えておく。気をつけろ。今のお前たちにデビー・ジョーンズの加護はないということを、忘れるな」
わかってるよ。そう答える前に、煙は霧散してギベッドは姿を消した。
船の外へ出て空を見上げる。太陽は西の空に傾き、空と海を濃い琥珀色に染めている。
太陽の位置と、手元にあるコンパスを見比べて、ジョナサンは頷いた。
はっ、と意識が覚醒した。
すぐに、これは夢だなとわかる。
就寝前のことはちゃんと覚えている。エルモに見張り番を頼んで眠ったのだ。
ジョナサンは、デビー・ジョーンズ・ロッカーにいた。
以前来た時のままの姿だ。廃墟と化した古代都市を、アンコウの灯りがかすかに照らしている。
「ジョナサン。ジョナサン」
少女の声が聞こえた。
「デビーか?」
夢の中でくらいなら会えるかな。そう思って返事をしたが、声の主はそれを否定した。
「ごめんね。違うの。私はアトラ。デビーちゃんから聞いたことあるでしょ? あなたの目にはまっている真珠の、最初の持ち主だよ」
いつからそこにいたのか、少女は珊瑚の死骸の上に腰掛けている。
仄暗い深海で、アンコウが発する弱い光では、ぼんやりとしかその姿を見ることができない。
「あ、ああ。聞いてるよ。デビーちゃんのお友達だろ?」
ずっと昔に死んでしまった、デビーの友人。
デビー・ジョーンズの力を我が物としようとした古代都市の人間たちによって、生み出され、殺された少女。
「死人は言葉を話さないって聞いてるんだが」
「私はいいの。長いこと真珠を身に宿していたせいで、人の理から外れてしまった。私はもう、人であって人でない。人の営みにはもう戻れない」
少女の細い指が、ジョナサンを指差した。
あたりが暗くなっていく。周囲にいたアンコウたちが、だんだんと姿を消しているのだ。
暗闇の中で、少女の沈んだ声だけが耳に流れ込む。
「あなたを試させて。私の質問に答えてくれる?」
妙な夢だな。ジョナサンはそう思ったが、あまりにも少女の声が真剣なので気圧されてしまう。
ふっ、最後の明かりが消えて、周囲は暗闇に包まれた。少女の陰気な声だけが、ジョナサンの耳へと届く。
「まずは、ありがとう。デビーちゃんと仲良くしてくれて。デビーちゃんが好き?」
「もちろんだ。デビーとの毎日は楽しい。デビーのおかげで俺は、自分の望んだ世界に行けた」
「船を守ってくれるからデビーちゃんが好きなの?」
「いいや? それだけじゃない。確かに色々助けてもらってるけどさ」
「じゃあデビーちゃんのどこが好き?」
「その話、長くなるけど大丈夫か?」
「ふふ、ううん。その答えで充分。デビーちゃんが普通の女の子だったとしても、船に乗せた?」
「それはデビー次第だな。乗りたいって言うなら喜んで乗せるよ」
「あなたは選ばなければいけない」
「なにをだ?」
「傲慢にも人間は、デビーちゃんの力をその手に収めた。このままいけば、海は人間のものになるの。御しきれない海を畏れ敬う時代は終わる」
「そういうもんか?」
「そう。みんな海からの恵みは欲しがるけど、恐ろしい荒波のことは嫌い。デビーちゃんのわがままに素直に付き合う、あなたのような人間って結構珍しい」
「俺は結構、デビーちゃんに振り回されるのが気に入ってたけどな」
「奇特な人だね」
「船に乗るときと一緒だよ。空の色、波の動き、肌に感じる空気の感触、魚や鳥の動き。そういういろんな手がかりから海のご機嫌を伺って、自分の行く先を見定める。海で生きるって、そういうことだ」
「あなたは選ぶことができるの」
「だから、なにをだよ」
「このまま、海を人の手に委ねれば、海は人が好きにできる領域になる。きっと、みんな喜ぶだろうね。私が生まれた島の人たちの悲願でもある。海の恵みを好きなだけ貪って、高波で人や家がさらわれることはなくなり、船旅をする人たちが溺れて死ぬこともない」
「うん、まあ……。みんな喜ぶだろうな」
「あなた、気づいてる?」
「なににだよ」
「あなた自身が、少しずつ変質し始めていることに。その目に宿した真珠の力で、私と同じように人の理から外れ始めてる。今、ここにいるのがいい証拠」
「へー。そうなのか。人の理? ってのはよくわからねえけど、外れたらどうなるんだよ」
「あなたは怪異の類に変わる。命の循環から外れ、生活の営みに混ざれず、ただ一人海で彷徨うことになる」
「そんなこと言われたってピンと来ねえよ」
「簡単に言ってしまえば、孤独になるってことだよ」
「……嫌だなあ」
「ええ。知ってる。私、ずっと見てたもの。あなたは孤独を恐れている。でもね、今なら引き返せるの」
「ほんとか?」
「ええ。まだ完全には変わりきっていない。無理矢理にでも真珠を抉り出して。そうすれば、あなたは人として普通の人生を歩むことができる」
「痛そうだなあ……」
「痛くても、孤独に彷徨うよりはずっとマシなはずだよ。あなたはこのまま船を戻して、何事もなかったように生きて行くことだってできる。ううん、そうした方がきっといい」
「この話から手を引けってか?」
「そう。あなたは、たった二人の女の子の涙を見ないふりするだけでいいの。そうすれば、海は人間たちのもの。誰もが海を行き来できる時代が来る。あなたはその海で、悪魔との契約に縛られることもなく好きに生きていける」
「嫌だね」
「悪い話じゃないと思う。海は今よりずっと、安全な場所になる。「危ないから海へは行くな」なんていう人は誰もいなくなるの。そうしたら、あなたは外れ者じゃないよ。海へ行くのが当たり前の世界。村にいた頃のあなたが聞いたら、きっと喜ぶ」
「嫌だ。デビーとメアリーを泣かせた奴らと肩を並べて船旅なんて、絶対にごめんだ。一人きりの方がよっぽどマシだぜ」
「二人を助けに行きたいんだね」
「当然だろ」
「あなたは選ぶことができる」
「ああ。なんとなく、あんたの言ってることがわかってきたよ。でも、俺は引き返さねえぞ。絶対だ」
「……。ありがとう」
「え? なにがだよ」
「デビーちゃんを大事にしてくれて。あなたが本当にデビーちゃんを大切に思ってるか、聞いてみたかったの」
「なあに。下僕として当然さ」
「あなたを見込んで、いいことを教えてあげる。ヤドカリ島にあるデビーちゃんの剣を抜いて。あれを手に入れれば願いが叶う」
「え? あれってあれを抜いたらデビーが出てきてお願いを聞いてくれるってことなんじゃないのか?」
「最初はそうだったんだけど。途中でデビーちゃんが「いちいち出向くなんてめんどくさいわね」って剣の方に力を宿すことにしたの」
「オーケー、わかったよ。それを抜いて「デビーを解放してくれ」って望めばいいんだな。そうすれば、メアリーもデビーも自由の身だ」
「もう一つ。いいことを教えてあげる」
「おっ、気前がいいね。なんだ?」
「あなたはまだ、真珠の力を完全に使いこなせていない」
「わかってるよ」
「それをうまく使うコツはね、デビーちゃんみたいになることよ」
「難しいな……。裏声でも使えばいいのか? えー、こほん。跪きなさい! ……違うな」
「そう、あなたには難しいかも」
「反応薄いと結構悲しいからあざ笑ってくれ」
「そういう表面的な話じゃないの」
「わお、見事なスルーだな」
「……真面目に聞いて」
「ごめん俺が悪かった」
「あなたは長いこと、自分の望みを否定され続けてきた。それがあなたの心に影を落としてる。無意識のうちに、自分の望みはくだらないもの、叶えてはいけないもの、否定されて当然だと思ってる」
「そんなことねーよ。俺はそういうの、全部振り切って海に出たんだ。デビーのおかげでな」
「ううん。過去にぶつけられた言葉って、簡単には消えないの。あなたは偉い。負けることなく、自分の意思を貫いた」
「だろ? 大丈夫だって。うん。俺は、そういうのはもう大丈夫なんだ」
「でも今回はね。向かう先にいるのは、立ち向かうべき相手は、あなたに一番否定の言葉を投げかけた相手。きっとあなたは、心の奥底では萎縮している。きっとまた否定されると思っている」
「あー……。それは確かに。村長はまちがいなく、俺の顔を見るなり「なにしにきやがった!」って怒鳴るだろうな」
「真珠の力を……、デビーちゃんの力を上手に借りるコツは、自分の望みは叶えられて当然だって思うこと。この世の全てが、自分に従うべきだと胸を張って、毅然と顎を上げてみて。きっと、世界が変わって見える」
「うわ、確かに俺には難しそう」
「大丈夫。やれるよ。応援してる」
「ああ。任せてくれよ」
「でも、しつこいようだけど、本当にいいの?」
「なにがだ?」
「デビーちゃんはね、執念深いの。もし再び巡り会えたとしたら、二度とあなたを離さない。それでもいいなら、もう一度あの子の手をとって」
「なんだ、脅かすなよ。ビビって損した」
「なにが?」
「デビーが一緒なら孤独になんてなりっこない。デビーと出会って手を取ったあの時から、俺の全てはデビー・ジョーンズのお気に召すままさ」




