第72話 デビー・ジョーンズの話⑤
からん、と診療所のドアのベルが鳴った。
その音で、うなだれていたジョナサンは顔を上げる。
担ぎ込まれたクラフトは、一通りの処置を終えてひとまず一命をとりとめた。しかし、失血が多く、太い血管にも、内臓の一部にも傷がついている。いつ死んでもおかしくないと言うのが医者の診断だ。
今は、病室のベッドを借りて力なく横たわっている。
元々は色白だった肌は、海に出てからは徐々に日焼けしていっており、その過程は「お前また焼けたんじゃないか?」「家に帰ったらびっくりされるな」と、時折話題に上っていた。
それが今は、大量の血が抜けたせいで見るからに不健康で青白い。薄褐色に染まりつつあった皮膚の下に、生命の気配を感じない。
病室は、年季こそ入っているが清潔だ。窓から入ってくる日光で、白塗りの壁が眩しい。所々擦り切れている木の床は、この部屋に出入りした人間の多さを物語っている。
枕元で、頼むから瞼を開けてくれと祈り続けてどれくらい経っただろうか。
小さな足音が、こちらに近づいてくる。
「クラフト!」
入ってきたのはメアリーだ。ジョナサンは目を丸くする。
「あれ? いつの間に出かけてたんだ?」
「もう、なんにも話聞いてなかったんだね」
呆れたエルモが、慌てて入ってきたメアリーを迎え入れつつ「外の空気吸ってくるって話してたでしょ」と説明した。
「大丈夫? まだ生きてる?」
「うん。大丈夫だから、落ち着いて。今はゆっくり寝かせてあげよう?」
メアリーは、エルモがなだめるのも聞かずに、クラフトの枕元に駆けて行き、その耳元に口を寄せた。
「クラフト。あなたは助かる。傷は綺麗に治る。いいわね。これは命令よ。あなたは天寿を全うしてデビー・ジョーンズ・ロッカーへ行くの。こんな死に方許さない」
なんだか妙だ。違和感を感じて、ジョナサンはメアリーを注視する。
急に大人びたような気がする。立ち振る舞いも声色もいつもと違う。
これではまるで……。
「……お前、デビーか?」
「あら、よくわかったわね。さすが私の下僕、と言ったところかしら」
幼いメアリーにはおおよそ似つかわしくない蠱惑的な笑みを浮かべて、彼女は微笑んだ。
「えっ? なんで? どういうこと?」
驚いたエルモが、しげしげとメアリーの顔を覗き込んでいる。
「説明してあげるからよく聞きなさい。時間がないの」
まくしたてるように、デビーはメアリーの口を借りて話を始めた。
あなたたちがクラフトを連れてここへ向かっている間、私はここで待っていたわ。
私は陸には上がれないのだもの。ついていけない。
戻ってくる頃には、クラフトはもういないかも、なんて考えてたわ。
もし死んだら、遺体は海に流してあげましょう。デビー・ジョーンズ・ロッカーへ行くのが彼の望みだもの。
私がそわそわしていると、メアリーが帰ってきた。
怖かったのね。泣いてたわ。
「デビーちゃん……。私のせいで、クラフトが……」
「落ち着きなさい。あなたのせいじゃないの」
「だって、だって……」
無理もないわね。メアリーのせいではないとはいえ、この子にまつわる因縁が呼んだ災難なことに違いはないのだから。
「メアリーは、海が嫌いかしら。近頃は、陸の方に惹かれているようね?」
まあ、無理もないけれど。この子にとって、海はしがらみが多すぎるわ。
「うん。海は窮屈。船の上って逃げ場がないもん」
「ジョナサンにとっては、陸が窮屈だったみたいよ? だから私と契約したの」
「デビーちゃんは?」
「さあね。比べられないわ。私は陸へ行ったことがないのだから。ただ、前に一度強く焦がれたことがあるわ」
「そうなの?」
「ええ。仲良しだった友達が死んだの。私が一緒に陸までついていけたら、死なせずにすんだわ」
かつて私を崇拝していた古代の島の話、覚えてるかしら。
「今回も似たようなものね。私がクラフトの枕元まで行ければ、助けられるかもしれないのに」
メアリーの顔色が変わった。
「本当?」
「ええ。あなたとエルモに珊瑚の櫛を作った時に見せたでしょう? 私が命じれば、海の生き物は姿を変える。傷口を塞ぐことだってできる」
「そうなの? クラフトはもう、デビーちゃんの言うこと聞かないんじゃないの?」
「ええ、そうよ。でも、極限状態に陥れば人間だって獣同然。今の死にかけの状態なら、私の支配が及ぶかもしれない。前例のないことだから、試してみないとわからないけど可能性がなくはない」
「待ってて! すぐクラフトをここへ連れてくる!」
駆け出そうとするメアリーを、私は慌てて止めたわ。
「ダメ。下手に動かすと傷口が開く。それに、今は人間の医者の治療を受けているのでしょう? 「デビー・ジョーンズに治してもらうから、治療を中断してここから運び出して」ってお医者さんにお願いする? 頭がおかしいと思われるわよ」
「じゃあジョナサン! 目の真珠があれば、デビーちゃんと似たようなことができるんでしょう? ジョナサンが死んじゃダメって言えば……」
「それも無理。「こっちへおいで」って呼びかけるのとはワケが違うの。クラフトは混血な上に一度私の支配をはねのけている。借り物の力でなんとかできるとも思えないわ」
ジョナサン。あなたはまだ真珠を手にして日が浅い。ただでさえ難しいことな上に、あなたは冷静ではない。危険な賭けだってことは、わかるわよね。
「私本人が直接出向いて、五分五分ってところかしら」
でも、困ったことに私が陸に上がる手段はない。そう思っていたの。
メアリーは、私に一つ提案をした。
「デビーちゃん。私と取引してくれない?」
「言ってみなさい」
「パパの手紙に、葉巻を使ってデビーちゃんを閉じ込めろって書いてあった。これを使って私がデビーちゃんを捕まえるの」
思わず笑っちゃったわ。
「あら、大きく出たわね。それで、捕まえた入れ物をクラフトの枕元に持って行こうっていう魂胆? いい考えだけど、あなたは代わりになにをくれるのかしら? 恐れ多くもこの私から自由を奪おうって言うんだもの、アップルパイじゃ足りないわよ?」
もうわかってるわよね。その答え。
メアリーは決意を固めた目で言ったの。
「この体をあげる。デビーちゃんを閉じ込める入れ物は、私の体。陸に上がれる体をあげるから、お願い。クラフトを助けて」
私の答えを待たずに、メアリーはポシェットから葉巻を取り出した。
火をつけて、顔をしかめながら煙を吸い込み、問答無用で私に煙を吹きかけた。
白い煙が私を包み込んで、甘い匂いにクラクラしたわ。
私はすぐに輪郭を失って煙に溶けて、メアリーの体に吸い込まれた。
そうやって私たちは混じり合って、今のこの状態になったの。
勝手なことをしたのは許してあげるわ。決死の覚悟だったんですもの。メアリーは自分の体を売り渡してでも、クラフトの命を助けたかったの。
でも、誤算があった。私としたことが、迂闊だったわ。
大海賊エドワードって男は、本当にぬかりないのね。
捕まえられた程度で、私がおとなしくメアリーに従うはずはないってわかってたみたい。
葉巻には、私を閉じ込めるまじないの他にもう一つ。私を眠らせるまじないも込められていたの。
親心ってやつね、きっと。
危険な悪魔は黙らせて、おいしいところだけをメアリーに残してあげたかったようよ。
だから、私がこうして話していられる時間は、もうあと少しだけ。
私が眠りについたら、メアリーが表に出てくるはずだわ。
私の力はメアリーのもの。どう使うかは彼女次第よ。
話を聞き終えて、ジョナサンは青ざめた。
「え、じゃあ、つまり……」
「ここでお別れってことね。残念だわ。まだ「うさぎさん」ってのがどんなものか、見られていないのに」
「待てよ。冗談きついぜ」
「冗談でもなんでもないの。これは真実。私はこの体に封印される。次に目覚めるのは……いつになるかわからないわ。メアリーが死んだ時かしら」
うろたえるジョナサンに、デビーは最後の力を振り絞るようにして言った。
「ジョナサン。あなたとの船旅、悪くなかったわ。今までの契約者の中で、あなたとの旅が一番楽しかった」
「嫌だ、やめろよ、なあ! デビー!」
「契約は破棄よ。喜びなさい。あなたは自由になるの」
ふっ、とデビーは目を閉じて、糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。
すうすうと寝息が聞こえる。直感でわかる。今ここで眠っているのはメアリーだ。
デビーはこの少女の体の奥深くに、封じられてしまったのだ。
ゴロゴロと遠くで雷の音が聞こえた。
空が曇る。大粒の雨が、窓ガラスを叩く。
雨の雫が伝うガラスの向こうに、荒れ狂う海が見える。その様は、何百匹もの大蛇が絡まり合ってうごめいているかのようだ。
たった今、海は支配者を失った。




