第62話 次の行き先へ
世界の終わりのような景色だった。
雲の上で巨大なバケツがひっくり返されたような雨が、ドバドバと島を沈めそうな勢いで降りしきっている。
ジョナサンは、ギベッドから半ば無理やり工場の鍵を受け取ると、閉じ込められていた罪人たちを解放した。
扉を開けても拘束を解いても、ぼんやりとした顔の人間たちは自分から部屋を出ようとはしないので、ジョナサンたちは協力して一人一人手を引いて、部屋の外へ連れ出した。
外へ出れば、誰もかれもがずぶ濡れになってしまう。水を吸った重たい服ごと引きずって、罪人たちを船の上に乗せる。そうでないとデビーの力が及ばないからだ。
一歩、船に足を踏み入れた途端に、罪人たちの体からどす黒い液体が流れ出した。石鹸水に晒されて汚れが浮き出るように、毛穴からなんだかよくわからないドロドロが染み出してくる。
それがすっかり全部絞り出されると、人々は正気に戻ってあたりを見回し始めた。
「さて。これで全員かしら。一応毒は出したけど、ちゃんと医者に診てもらいなさい。私、陸の生き物の体はどうにもできないから。体の方が変質していたら、影響が残ってしまうわ」
ジョナサンたちは、大雨の中で行ったり来たりを繰り返し、すっかり疲れ果てて座り込んでいた。
そこへ、デビーが質問を投げかける。
「エルモ? あなたの望みは、この島の人間全ての救済だけど、ギベッドも含めていいのよね? 本来なら私との約束からは逃げられないのだけど、今は機嫌がいいから特別に認めてあげる」
もちろん、とエルモは頷いたが、ギベッドは渋い顔で歯噛みしていた。
「また俺を許すのか」
「許すもなにも。初めから怒ってないんだもん。私のこと、かわいそうだなんて思わないでよ。私は元気でやってるからさ」
「……答えろ。なにを対価に差し出した? お前を犠牲に助かったって……」
エルモとデビーは顔を見合わせ、クスクス笑った。
「馬鹿ね。大げさなのよ」
「大丈夫だよ。アップルパイをご馳走してあげるって約束しただけだから」
「は?」
ギベッドはあたりの凄まじい大雨と、デビーと、エルモを見比べて、納得がいかなさそうな顔をしている。
「アップルパイ?」
「うん。デビーちゃん、リンゴが好きでしょ? でも、船の上にはオーブンなんてないし、滅多に食べられないんじゃないかなって思ったんだけどさ。食べたことないしそもそも知らないんだって」
「あんなおいしいものが、さらにおいしくなるなんて初耳だわ。うふふ、楽しみ」
あんぐりと口を開け、嘘だろ? と呟いて、しばらく固まってから、ギベッドは自嘲気味に笑った。
「お前、貢物にはうるさかったと思うんだが。そんなので良かったのか?」
「あなたじゃ思いつかないでしょうね。あなたが私によこしたものといえば、高い織物やら宝石やらなんやら……。どうせどの女にも同じもの贈ってたんでしょ? その点エルモは完璧よ。私の好きなものを踏まえて選んでくれたんだから」
ジョナサンは、先代の契約者に同情して苦笑いを浮かべた。
だんだんと雨が弱くなり、雲が引いていく。晴れ間から差し込む陽光が、濡れて冷えた体を包み込むのが心地いい。
「さて、おっさん。二人はこう言ってる。この島からも、デビーの契約からも自由になったわけだが。行きたいとこ、ある? 乗せてってやってもいいぜ?」
ジョナサンの問いかけに、ギベッドはキッパリと答る。
「ない。俺にはもう、やるべきことも、行くべき場所も、ありはしないようだ」
ゆっくりと首を横に振るその顔は、どこか憑き物が落ちたようだった。
爽やかなそよ風に吹かれる船の上で、ジョナサンは困り果てていた。
今は解放された者たちを乗せた船を牽引し、医者がいそうな大きめの港町へ向かっている。ついでだから、ジョナサンの眼窩にはまっている真珠を取り出せる医者も探す予定だ。
エルモは引っ張られている方の船へ解放された者たちの様子を見に行っており、ギベッドはそれについて行った。デビーはテンションに任せて大雨を降らせたせいで疲れたのか、お昼寝中だ。
ジョナサン、クラフト、メアリー、ラヴは、帆の調整も方角の計算も終わって、甲板でのんびりしていたのだが、クラフトが突然、神妙な顔でジョナサンに提案してきたのだ。
「ジョナサン、君がエルモのことを好きだって聞いたんだが、立会人は僕がしようか?」
ジョナサンは飲みかけていたライムのジュースを危うく吹き出しかけ、咳き込んだ。
「ゲホッ、ゴホッ……! エルモに聞いたのか?」
「そうだ。まんざらでもなさそうだったぞ。水臭いじゃないか。相談の一つくらいしてくれてもいいだろう」
「違う違う! そういうんじゃねえから! 式をあげるわけでもないし、結婚もしねえよ。だから立会人は必要ない。この話終わり! 解散!」
「……。その気もないのに愛を囁いたのか? 君がそんな軽薄な男だとは思わなかったぞ!」
「いやだから違うんだって! そんな大真面目に捉えなくていいの! お前だってエルモのこと好きだろ? 旅の道連れとしてさ」
「もちろん。僕らのことを気にかけてくれるし、相談に乗ってくれる。いつも世話になっているとも」
「それ。俺もそれ。ミートゥー。オーケー?」
「そうか?」
なかなか引き下がらないクラフトに、ジョナサンは困ってしまった。
「なんだよ。恋バナでテンション上がってなんでもこじつけしちまうお年頃か?」
「こじつけというかなんというか。いや、すまない。僕の目には、本当に君がエルモに恋をしてるように見えたから」
「えっ、うそマジで? ……ちなみにどの辺でそう思うわけ?」
ジョナサンが聞き返すと、クラフトよりも先にメアリーが返事をした。
「だってジョナサン、頼りになる年上が好きだって言うし」
「俺より年上なんていっぱいいるだろ」
「ギベッドがエルモを連れてっちゃった時、すごく慌ててたし」
「そりゃ、慌てるに決まってる。お前らだって気が気じゃなかっただろ?」
「エルモがギベッドの話してるとちょっと嫌そう」
「だってあのおっさんの話、胸糞悪いのが多いんだもん」
「あとさっきからすっごい何回もあっちの船見てる」
「いや、これはエルモの方からも「違うよ」って援護射撃をしてほしいから「帰ってこねえかなー」と思ってるだけであってだな」
冷や汗をかいて困り顔でごまかしているジョナサンの目を、クラフトとメアリーがじーっと見つめている。
「そうなのか。すまないな、いらないお節介だったようだ」
「わかればいいんだよ、わかれば。あと、今後は俺がエルモのこと好きかもって話を持ち出すのはやめてほしい」
「なぜだ?」
「自分のケツ狙ってるかもしれないやつと一緒の船に乗るの、嫌だろ。俺はエルモを女として見てない。そういうことにしといてくれ」
クラフトは肩の上にいるラヴ共々、首を傾げた。
「けつをねらってる?」
「ッテナンダ?」
不思議そうな顔をしているクラフトの裾を、メアリーが引いた。少しかがんだクラフトの耳に手と口を当てて、メアリーはその言葉の意味を解説しているようだ。
みるみるうちにクラフトは顔を赤くして怒り出す。
「ジョナサン! 品がないぞ!」
「だってそうだろ。ぶっちゃけ俺は、海のど真ん中で船を止めて、「海に放り出されたくなけりゃ一発やらせろ」って迫ることもできなくはないわけだ。しないけど。その危険がある船に、長居したい女がいると思うか?」
またクラフトとラヴが首をかしげる。
「いっぱつやらせろ?」
「ッテナンダ?」
再びメアリーのお下品言葉講座が始まり、クラフトはまた顔を赤くして怒る。
「もう! なんでそんな下品なことばかり言うんだ!」
「いやいや、俺は至極真っ当な話をしてるんだよ。昔から女は船に乗っちゃいけねえって言うだろ? こうなるからだよ」
船乗りたちの間では常識なのだと、ジョナサンは村の元海賊たちから聞かされていた。
女の乗った船には災いがある。聞いた当時は迷信だと鼻で笑ったが、今になってみればその通りだ。もしここでクラフトが「僕もエルモが好きだから彼女をかけて決闘だ」などと言い出したら、この船は終わりである。ジョナサンは、内心でそうはならなかったことにホッとしていた。
「僕が読んだ本には「デビー・ジョーンズが女嫌いだから」って書いてあったぞ?」
「でも、違うだろ? デビーちゃんはエルモともメアリーとも仲良くやってる」
「そうだな」
クラフトは今聞いた話を咀嚼するように少し考えてから、ポンと手を打った。
「つまり君は、エルモのことは憎からず思っているが、今の関係を壊して彼女に船を降りて欲しくないから、異性として見るわけにはいかないんだな?」
「いや、だから……。うーん、まあ、そうか。そうだな。それでいいや」
我ながら純情過ぎてケツがかゆいが、クラフトのこの理解は間違いではない。なんだか妙な誘導尋問にあった気分だ。
「まあ、そういうわけだから二人とも。あとラヴも。この話は内緒な?」
「ふむ。彼女の同意があれば問題はないんだろう? 適度なアプローチから始めればいいじゃないか」
「……お前、結構グイグイ行くなぁ」
「花を贈ったりとかしてみたらどうだ。きっと喜ぶぞ」
「花ねえ……。確かに最近見てねえな。こんな海のど真ん中じゃ当たり前だけど。でもまあ、その前にメアリーだ。干物が売れたらかわいいお洋服を買ってやる約束だったのに、ドタバタして後回しになっちまったから。待たせて悪かった。次の島に着いたら服屋さんに行こうな」
ぱっ、とメアリーの顔が輝いた。
「やったー!」
ジョナサンはギベッドが嫌いである。
しでかした諸々のことも、そこに至るまでの動機も、あまりにも邪悪すぎる。
しかしただ一つ。小さな子供の笑顔はよいものだという点だけは、大いに賛成だ。




