第61話 取引
エルモは絞り出すような声で「それはなに」と聞いた。
「今言ったろう。毒薬だ。辺境に生えている海藻を深海魚の肝と一緒に煮詰め、すりつぶしたイソギンチャクと珊瑚礁の死骸を混ぜ、鯨のヒゲでこして作る」
「作り方を聞いてるんじゃないの」
「聞いておけ。今後はお前が作るんだ」
いつのまにか、通路の奥までたどり着いていたようだ。突き当たりの扉に、ギベッドは手をかける。
そっと、細く隙間が開けられた。少しだけ開いた隙間から、生臭い嫌な匂いが漂って来る。人間の体液と、血の匂いだ。
チラチラと、隙間から部屋の中が見える。
裸の人間が何人も鎖に繋がれて、ぎゅうぎゅう詰めになっている。牛や馬の小屋の方が、まだマシな環境だろう。その中にまともな目をした人間は一人もいない。獣のような唸り声と、肉と肉がぶつかる湿った音が聞こえてくる。
固まっているエルモに、ギベッドはなおも語りかける。
「なんで聖職者なんぞになりやがった。教会を出て、普通に生きて行くことだってできただろうに」
真っ先に反論したのは、クラフトだ。
「ふざけるな! 彼女をこの島に縛り付けるつもりか! そんなこと絶対にさせないぞ!」
声にこもった強い怒気に当てられたのか、ギベッドの目がエルモ以外に向いた。
「お前になにがわかる。こいつに新しい家族でもできていれば、どれだけ良かったことか。戒律に縛られ、生きる喜びを削って暮らすような人生を、選んで欲しくはなかった。ああ、かわいそうに」
「そっちこそなにがわかる! 思い悩んで苦しい時に、彼女がどんなに親身になって相談に乗ってくれるか知らないだろう! 今の、人に寄り添う生き方は、間違いなく彼女の天職だ!」
クラフトの言葉に、メアリーも同調する。
「そうだよ。エルモ、すごく優しいよ」
それを聞いたギベッドは、狂ったように笑い始めた。
「はははっ! こいつは傑作だな。天職だと。馬鹿も休み休み言え」
「なにがおかしい」
「教会に来るような人間ってのはな、だいたい三通りいるんだ。一つ、自分から門を叩いた意識の高い馬鹿。二つ、他に行き場のない奴。そして三つ、本当なら生きてちゃいけないが、慈悲にすがって神の奴隷となることで命だけは許してもらった奴だ」
息が苦しいような気がして来る。ここが地下だからだろうか。真新しいレンガはきっちりと規則正しく並んでいて、それが延々と続くと目が回ってくるような気がする。それとも、邪悪な思想に毒されているのだろうか。
「教会ってのは、人の世からこぼれ落ちた奴らが「みんなのためにいいことするから、生きてることを許してほしい」って集まってる場所なんだよ。それを天職だと。笑わせる」
ギベッドの意識がクラフトに向いているうちに、ジョナサンはエルモに耳打ちした。
「思った以上の悪党だな。こんな奴、許しておいちゃいけねえんじゃねえの?」
はっ、と我に返ったように、エルモは表情を取り戻した。
「私に考えがあるから、合わせてくれる?」
エルモはジョナサンに耳打ちを返し、返事も待たずに一歩踏み出し、ギベッドの手から薬瓶をひったくった。
「こんなもの!」
エルモは躊躇なく栓を抜き、瓶に口をつけた。
その瓶の中身は、ギベッドの話が確かならば、とんでもない薬物だ。
「待て! やめろ!」
ジョナサンは悲鳴をあげて止めようとしたが、間に合わない。
「ちくしょう!」
ジョナサンはエルモの手から空っぽの瓶を取り上げて、地面に叩きつけた。
パリンと乾いた音を立てて、破片が飛び散る。
ぐったりと力なく倒れたエルモを揺さぶって、ジョナサンは怒鳴る。
「エルモ! 吐き出せ! おいオッサン! 解毒薬とかねえのか!」
突然のことに、血の気を喪った顔で呆然としているギベッドは、首を横に振った。
「そんなものはない」
「どいてくれ!」
クラフトがギベッドを押しのけてエルモを後ろから抱き上げ、腹に手を回して力一杯締め上げた。吐かせるつもりらしい。
ぐっ、と力を込められて、エルモは苦しげな吐息を漏らした。しかし、胃の中のものは出てこない。
ジョナサンは、ちらりとギベッドの方を見た。ギベッドは、悲壮な顔をしていたが、何か決意をしたように唇を引き結ぶと、クラフトの手からエルモを奪い取り、抱きかかえて元来た道を走って行った。
「おい! どこ行く気だ!」
ジョナサンたちも、慌ててその後を追いかける。
地下道を通り抜け、教会の祭壇から地上へ上がり、そよ風の吹く丘を一目散に走る。
穏やかな陽光の降り注ぐ丘へ出て、ジョナサンは嫌なものが腑に落ちてしまった。
過ごしやすい島だと思ったが、きっと苦心してわざわざそういう島を探したに違いない。生まれたばかりの赤ん坊に負担をかけないために、気候の安定している島を選んだのだ。
ギベッドは、一直線にジョナサンたちの船へと向かっていく。
「デビー・ジョーンズ! お前に用がある!」
船の前にたどり着くやいなや、ギベッドは叫んだ。
舳先に座ってジョナサンたちを待っていたデビーは、ギベッドの方へ目をやって、嬉しそうにパッと笑顔を浮かべた。
「あら、久しぶりね。元気だった?」
「頼む、デビー・ジョーンズ。こいつを助けてくれ」
デビーはぐったりしているエルモを見て顔色を変えた。
「なにをしたの」
「毒を飲んだんだ。俺が飲むはずだったのに」
「私に医者の真似事なんて」
「違う!」
デビーの話を遮って、ギベッドが怒鳴る。
「毒の材料は、すべて海で採れたものだ。お前なら、海のものはすべて思いのままだろう。なんとかできるはずだ」
ふふふ、とデビーはおかしそうに笑った。
「それを頼むために私の前に顔を出したの? 次会ったら殺されるってわかってるのに? あなた、そんな殊勝な性格だったかしら?」
「俺のことは惨たらしく殺せばいい。だがこいつだけは助けてくれ」
「自分の命と引き換えに、この子を助けて欲しいって、そういうことかしら」
「そうだ」
「調子に乗らないで」
ピシャリ、とデビーは突っぱねる。
「あなたの命と魂は、もともと私のもの。再び出会ったらもらうって、言ったはずよね? 交換条件になんてなるはずないじゃない」
ギベッドは歯噛みして、絞り出すように言う。
「じゃあどうしろっていうんだ!」
「そうねえ……。ジョナサン、どう思う?」
デビーの問いかけに、ジョナサンはしたり顔で答えた。
「そうだなあ。エルモに聞いたらいいと思うぜ? あんたたちの、一回目の喧嘩別れの時みたいにさ」
不機嫌そうにデビーが顔をしかめる。「バカにしているの?」とでも言いたげだ。
「エルモは喋れるような状態じゃないのが見えないのかしら」
「いいや? それは違うぜ」
ジョナサンは、ポケットから小瓶を一つ取り出した。それは、エルモが全て飲み干したはずの薬瓶だ。中身は、全部残っている。
「俺たちは、おっさんから解毒の方法を聞き出すために一芝居打っただけだ。で、こうして無事にデビーちゃんならこの毒薬をなんとかできるってわかったわけだよ。なっ、エルモ?」
デビーとギベッドは、あっけにとられてエルモの方を見た。クラフトとメアリーも、驚いて「えっ!?」と声を漏らしている。
「もう。ネタばらしが早いよ」
エルモは、ぱっちりと目を開けて得意げに笑った。
「騙してごめんねギベッド。あの時こっそり、薬の瓶とポケットに入れてたお酒の瓶をすり替えたの。で、毒を飲んだフリをした。私のためなら、解毒の方法を教えてくれるかなって思ってさ」
「あなた、なかなかいい根性してるわね」
心底愉快そうに、笑みを浮かべるデビーに、エルモは懇願する。
「あのねデビーちゃん。お願いがあるんだけど、聞いてくれる? 私は大丈夫だけど、あの毒にやられて正気を無くしちゃった人がたくさんいるの」
ふふふ、とデビーは笑みを深めた。
「へえ。その人間たちの行く末は、私の気分次第ってことね?」
「うん。だから、手を貸して欲しいの。もちろん、タダでとは言わないよ。助けてくれるのなら、ちゃんとお礼は用意する」
「この私と取引をするつもり?」
「やめろ!」
切羽詰った怒鳴り声で、ギベッドが話を遮った。
「そいつと取引なんかするんじゃない! ロクなことにならないぞ! よせ!」
しかしデビーはそれに構わず、試すようにエルモに問いかける。
「いいわ、条件次第で叶えてあげる。あなたは、なにを対価になにを望むの?」
エルモはデビーの耳元に口を寄せた。そして、コショコショと囁く。
なにを言っているのかは、ジョナサンたちには聞こえない。デビーがなにか返事をして、それにエルモが答えた。
途端に、デビーの顔が驚きと喜びでパッと輝く。
「なんですって!? そ、そんな凄いものをくれるの?」
「うん。だから、私のお願い、叶えてくれる?」
デビーは、ふんす、と鼻を鳴らした。俄然やる気満々のようだ。
「もちろんよ。望みを言いなさい。叶えてあげる」
エルモは島の方を指差して、高らかに答えた。
「この島に囚われてる人たちを、みんな助けてあげたいの!」
デビーがパチンと指を鳴らした。
空を雲が包み込み、風が湿気を含んで重たくなっていく。ゴロゴロと、遠くで雷の鳴る音が聞こえた。
「いいでしょう。ジョナサン、その人間たちを私の前に引き出しなさい。ひれ伏した者から助けてあげる」




