第59話 聖女の相談
その後の航海の間、エルモはずっと考え込んでいた。
船は港にたどり着き、罪人たちは解放された。ある者は元いたところへ帰り、ある者は近くの教会の門を叩く。
それらを全て見送ってから、ジョナサンたちは一晩休むことにした。
出航は次の朝。行き先は、エルモが出した答え次第。ジョナサンはみんなにそう告げた。
物資を仕入れ、船の点検を終えて一息つくと、エルモが姿を消している。
ジョナサンはクラフトに「出かけてくる」と言ってから、酒瓶を二つとカンテラを持って、彼女の姿を探しに出かけた。
エルモは人気のない浜辺に腰を下ろして、ぼんやりと海を眺めていた。
夕日が水平線に沈み始め、潮風の温度がだんだんと下がってくる。
だだっ広い場所だ。遮るものはせいぜい椰子の木くらいしかなく、遠くまで見渡せる。町の明かりがポツポツと点り始めたのが遠目に見えた。
「飲むか?」
ジョナサンは隣に腰を下ろして、エルモに瓶を差し出す。エルモは首を横に振った。
「今はそういう気分じゃないの」
「ありゃ。珍しい。……まあ、当たり前か」
エルモはこわばった声でジョナサンに問いかけた。
「あなたは怖くないの? いつかデビーちゃんのご機嫌を損ねたら、海の底に引き摺り込まれるかもしれないのに」
「怖くなんかねーよ。デビーちゃんは契約者が自分よりも別の何かを優先するのがお気に召さないらしいけど、俺にとっちゃ海から追い出されることより怖いことなんかないわけだ。デビーは俺を海に連れ出してくれた上に、愉快な道連れにもなってくれたんだぜ? ウィンウィンってやつだな」
それに、とジョナサンは言葉を続ける。
「デビーが言ってたけどさ、あの手の悪魔だのなんだのって語られることで性質が変わるらしいじゃん? 毎日「かわいい」って言い続けたら、そのうちただのかわいい女の子になるかもしれねえぞ?」
エルモは「ふふっ」と呆れたように笑った。
「ジョナサンって、もし都会に生まれてたらとんでもないプレイボーイになってただろうね」
「おっ、まじ? 俺ってモテるタイプ? ……って、そうじゃなくて。俺のことはいいんだよ。問題はお前だ、お前」
「私?」
「そうだよ。お前はたくさん人の相談に乗ってる。たまには相談する側に回ってもいいんじゃねえの?」
豆鉄砲を食らったような顔で固まった後、エルモはまた笑う。
「ありがとうね」
「やっぱり、ショックか? あの話」
「うん。まあね。ギベッドは私に隠し事をしてた。そんなことも知らずに、私は能天気に懐いてたわけで」
沈んだ声で話すその顔には、やはり元気がない。
「悔しいか? 騙されてたわけだろ?」
「ううん。騙されてたわけじゃないの。私が肝心なところを覚えてなかっただけ。小さかったせいか、よほどショッキングなものでも見たのか、ギベッドに会うより前のことは全部ぼんやりしてて、なにもわからないの」
「なにも? 故郷の場所とかわかれば、連れてってやれるけど」
「ううん。覚えてない」
「じゃあ名前から探すか。「エルモ」って名前が多い地域とか探してみようぜ」
「ダメだよ。この名前、ギベッドがつけてくれた名前だもん」
「うーん、そうかぁ……」
潮騒が満ちた浜辺は、時間とともに暗くなっていく。ギラついた夕日が水面に映り、最後の残照が空を橙に染める。
「あの野郎が悔い改めたって話は本当っぽいな」
「なんでそう思うの?」
「お前に「エルモ」なんて名前つけたからだよ」
エルモがピンときていない顔をしているので、ジョナサンは解説をすることにした。
「「セントエルモの火」って知らねえか? まあ、俺も見たことねえんだけど」
「なにそれ?」
「嵐に遭って沈みそうな船のマストが、燃えてるみてえに光ることがあるらしい。その光が、「セントエルモの火」だ。村のおっさん達の話に出てきてさあ。俺も一回くらいは拝んでみたいけど、一生に一度見られるか見られないかくらいの珍しいものらしい」
「じゃあ、ジョナサンは見ないんじゃない? デビーちゃんがついてれば、嵐なんか来ないんでしょ?」
「そうだな。で、それはさておき。この「セントエルモの火」ってやつは、相当な縁起物でな。これが出た船は沈まないんだそうだ」
「へー、すごい」
ジョナサンは、故郷の大人達の話を思い出しながら話を続ける。
「子供にこの名前をつける意図は「この子の乗る船が沈みませんように」ってとこだろうよ」
大人達が話していた。
どんなにひどい嵐でも、セントエルモの火が出ればもう大丈夫だと。
疲れ切って船が壊れるのを待つばかりの絶望しきった船乗りも、その火を見れば希望を取り戻して再び立ち上がるのだと。
わかる範囲で想像してみる。
あの男は幼いエルモに救われた。自分が踏みにじった子供に救われて、懐かれて、さぞ罪悪感に苛まれたことだろう。
失ったものを返すことはできなくても、せめてもの償いに……と大事にしていたのではないだろうか。
「うん、そうだよね……。始まりはどうあれ、ギベッドは私を大事にしてくれてた。小さい頃の思い出全部が、嘘なわけじゃない」
エルモは自嘲気味にふふっと笑って、手元に落ちていた貝殻を海に向かって投げた。
「デビーちゃんって、普段はかわいいけど、やっぱり悪魔だよ。あの子の話は、お手本みたいな悪魔の囁きだね」
「っていうと?」
「ちょっとよぎっちゃって。私、身寄りがないからとか、教会の子だからとか、そういう理由で諦めたもの、たくさんあったなあってさ。そうやって取捨選択して人生を歩んできて、今に至るわけなんだけど。どこかでなにかが違っていたら、諦めなくてもよかったものが、いっぱいあったんじゃないかなって」
波のざわめきにかき消されそうなほどの小さな声で、エルモは最後に呟いた。
「彼のこと、憎みたいわけじゃないんだけど。ダメだね、私」
ジョナサンは、黙って隣で海を眺め、エルモの次の言葉を待った。
少し間を空けてから、エルモはきっぱりと言う。
「大丈夫。彼をデビーちゃんに突き出すようなことは、やらないよ」
「無理しなくていいんだぞ。許せないなら許さなくていい。神の教えだかなんだか知らんが、無理に我慢する必要はないだろ」
「ううん。絶対にやらない。だってそれをするってことは、今まで私が信じてきたものとか、今までの人生とか、そういうものを全部否定するってことだから」
無理やり緊張をほぐそうとするように、エルモはふぅっと息を吐いた。
「でも、なんかモヤッとしちゃってさあ。もう答えは出てるのに、心のどこかで納得できないの」
「そりゃそうだ。そんなにすぐ割り切れるわけあるかよ。でもまあ、一つ言わせてもらうとすれば……」
ざあっと大きな波がやってきた。砂浜の砂を洗いながら押し寄せた波はジョナサン達の手前で力つき、スゥッと地面に吸い込まれて消えて行く。
ちょっと迷ってから、ジョナサンは次の言葉を続けた。
「俺は今のお前が好きだよ。もしもの話なんか知ったこっちゃない」
エルモは、夕日を見ていた目をジョナサンの方へ向けた。その顔は驚き半分、ニヤニヤ半分、と言ったところだ。
「ほほう」
「ち、違うから! そういう意味じゃねえから! 友人として! 旅の道連れとして! オーケー?」
「えー? 本当に? 本当はこういうことしたいと思ってるんじゃないの?」
エルモは握りこぶしの人差し指と中指の隙間から親指を出して、下品なハンドサインを作って見せる。
「やめろ! 百年の恋も冷める!」
「冷めたの?」
「だからそういうんじゃないって言ってるだろ!?」
ひとしきりジョナサンをからかって満足したのか、エルモはスッキリした顔で仰向けに寝そべった。
「はははっ、ありがとうね。……うん。もう大丈夫。私も、今の私が好き。それで万事解決したよ」
そして大の字で上を見上げたまま、ジョナサンに尋ねた。
「ねえジョナサン。私の行きたいところまで連れてってくれる?」
「もちろんだ。どこまで行く?」
「地獄の島リバタリアまで。彼の流儀に習うよ。悪いことする人は、十字架でぶん殴ってやるんだから」
ジョナサンは、石を打ってカンテラに明かりを入れた。ぼうっと淡い光であたりが照らされる。
夕日はもうすっかり沈み、薄紫の空には星が現れ始めていた。




