第53話 初めての略奪
二日後、ジョナサンのクラフトはギベッドの船に忍び込もうとしていた。
デビーは船で留守番、メアリーには舵を託してある。ラヴも余計な場面で鳴かれてはかなわないので置いてきた。
先端にかぎ針状の金具がついたロープを投げて向こうの船の手すりに引っかける。隣に並んでみると、ギベッドの船はジョナサンの漁船よりふた回りほど大きい。
「くそ、もうちょっとうまく行くと思ったんだけどな」
悪態をつきながらロープを登るジョナサンの後に、クラフトも続く。
「しかたないさ。よくできた計画だと思ったんだけどな」
当初の計画はこうだ。
声が届く範囲に追いついたら、クラフトに大声で呼びかけてもらう。
すると、向こうの船に乗っている人間は、エルモ以外の全員が海へ向かう。しかし、ギベッド以外は拘束されて身動きを封じられているはずである。捕まえた罪人を自由の身にしておくとは考えにくい。つまり、海に飛び込むのはギベッドのみ。そこへ網を投げれば万事解決、という目論見だった。
しかし、クラフトが大声で呼びかけてみても、誰も船から出てこない。待てど暮らせど、何度か呼びかけ直してもても、全然出てこない。
審議の結果「もう行ってみるしかない」という結論が出て、今に至るというわけだ。
危険を覚悟で船に侵入する二人の心中をよそに、海は笑えるほど穏やかだ。爽やかな風が、冷や汗の滲んだ肌を撫でていく。
ロープを登りきり、ギベッドの船の甲板に降り立って、ジョナサンは顔をしかめた。
嫌な船だ。
よく手入れはされている。甲板の掃除も行き届いているし、道具もきちんと整理整頓されている。
しかし、ジョナサンは一刻も早くこの船から立ち去りたいと思った。嫌な匂いがするのだ。身繕いができない人間の、汗と排泄物の匂い。それからかすかな血の匂いも。嫌な想像をかきたてる悪臭が、船の木材に染み付いている。
船を動かしていたのは、鎖に繋がれた奴隷たちだったようだ。ギベッドがどこかから捕まえてきた罪人だろう。何人もの奴隷たちが、焦点の合わない目で海の方を見ながらフラフラと歩き、その度に鎖に動きを阻まれて転んでいる。セイレーンの声は、きちんと作用しているようだ。
二人はキョロキョロと辺りを見回し、耳をすませて警戒する。
「今、エルモの声が聞こえなかったか?」
クラフトが言った。ジョナサンも耳に意識を集中してみると、確かにエルモの声が聞こえる。船室の方だ。
「行くぞ」
二人は走り出し、声の発生源を探した。片っ端からドアを開け、中を確認する。
ジョナサンは、ホッと胸をなでおろした。近づいてくる声に、苦痛は滲んでいない。ひどい目にあっているわけではないようだ。
一番奥の扉の前で、ジョナサンとクラフトは立ち止まり、顔を見合わせた。声はこの部屋の中から聞こえる。二人は一度頷きあうと、勢いよくドアを開けた。
「エルモ! 無事か!」
どうやらそこは、船長室であるらしかった。
棚にはコンパスや望遠鏡などの航海の道具や、海に関連する本、それから神の教えが記された本が並べられている。
海の様子がよく見える窓の外は、相変わらずのどかな晴天だ。
部屋の中心には作業机が、奥にはベッドが置いてあり、エルモとギベッドは作業机の上に酒瓶を並べて、一緒に酒を飲んでいた。
「けけけけけ! 楽しい! あなたとお酒飲むの、初めて! ねえ聞いてる〜? 今までどこ行ってたのよ〜。ねえってば〜」
すでにかなりの量の酒を飲んでいるようで、エルモの目はすっかりすわってしまっていた。だらしなく服を緩めて可能な限り楽な格好で、緊張感のかけらもなく自分の髪を指先で弄んでいる。これ以上なくくつろいだ様子に、ジョナサンとクラフトは顔を見合わせてため息をついた。
そしてギベッドはうんざりした顔でエルモの方を見ながら、両手の人差し指を耳に突っ込んでいた。
「なるほど。これじゃあセイレーンの声が聞こえねえわけだ」
ギベッドはジョナサンとクラフトがやってきたことに気がつくと、助けを求めるように目線を向けた。
「こいつ、いつもこうなのか? ちょっと酔っ払えば静かになるかと思ったが、逆効果だった」
問いかけてから、耳を塞いだままでは返事が聞けないと思ったのか、ギベッドは耳栓にしている指を外した。そして、甲高い笑い声に顔をしかめ、口をふさぐためにエルモの口につまみの干し肉を押し込んだ。
エルモはジョナサンとクラフトに気がついて、口をもぐもぐさせながら満面の笑顔で手を振ってくる。
「いや、いつもはもうちょっと節度を持って嗜んでるから、ここまで理性をなくすのは珍しいんだが……」
ジョナサンもすっかり気が抜けて、闘気に満ちていたはずの気持ちが萎えてしまって、普通に返事をしてしまった。
ジョナサンの脇腹をクラフトがつついた。どうやら「シャキッとしろ」と言いたいらしい。ジョナサンは、ここが敵陣であることを思い出して背筋を伸ばした。
「今ならお前の声が効くんじゃないか?」
ジョナサンが尋ねると、クラフトはエルモの手元を指差した。その手には、珊瑚の櫛が握られている。髪をほどいた時に外したようだ。
酔っ払いの手の動きは不規則で、いまは手慰みに櫛をいじっているが、いつ机の上に放り出すかわからない。
あの護符がなければ、エルモも海に身を投げることになってしまう。救出することは可能かもしれないが、難しい。二人を同時に助け、しかもギベッド方は拘束しなければいけないのだから。
蛸や鯨を呼んで手伝ってもらうのはどうだろう、と考えて、ジョナサンは眼帯の下の真珠に意識を向けた。しかし、どうも変だ。手応えがない。うまく呼べた気がしない。見えてないだけで海の下にはいるのだろうかと思い、試しに「窓をつついてくれ」とカモメに語りかけてみる。
なにも起こらない。いつもならわんさか寄ってきてジョナサンを袋叩きにするカモメたちが、なんの返事もしない。
なぜだか真珠が機能していない。ジョナサンは「危ない橋は渡るべきではない」と判断した。
さて。と、なればどうやってこの場を切り抜けようか。ジョナサンは考えを巡らせながら、向こうの出方を伺うことにした。
「ちっちゃかったエルモちゃんが予想外の方向に成長しててびびったか? 「思ってたのと違う」ってんなら、喜んで引き取らせてもらうけど」
「いや、昔からこいつはこんな感じだ。返しもしない。俺にはエルモが必要だ」
「はっ、よく言うぜ。ほっぽり出して置いて行ったくせに」
「……どこまで聞いてる?」
ジョナサンは、自分でも意外なほど怒りのこもった声で答えた。
「エルモが教会に捨てられたところまでだよ」
「捨てたわけじゃない」
ジョナサンは、じっとギベッドの目を見る。
肉弾戦での喧嘩になれば、さっきの二の舞になるのは目に見えている。
やはり、虎の威を借るのが一番安全だろう。デビー・ジョーンズが怖くない船乗りなどいないのだから。
ジョナサンは、エルモの方に手を差し出して、努めてにこやかに語りかけた。
「エルモ、帰ろう。デビー・ジョーンズが、お前がいなくてさみしいって言ってるぞ? 今なら好きなだけよしよしさせてくれるかもしれない」
それを聞いて、エルモは目を輝かせた。
「ほんと? やったー! 帰る帰るー!」
しかし、少し首をひねってから、おずおずと付け足した。
「ギベッドも連れてっていい?」
「俺は構わねえよ。積もる話もあるだろうし。ただ、ちょっとデビーちゃんがなんて言うか心配だな。スッゲー怒ってたからさ」
クラフトがジョナサンの脇腹を軽くつついた。「適当なことを言うんじゃない」と言う顔である。ジョナサンは、目で「まあまあ」となだめた。
嘘はちょっとしかついてない。デビーがよしよしさせてくれるかもしれないと言うのは嘘っぱちだが、エルモがいなくなったことを気にしているのは本当だ。デビーが怒っていたと言うのも本当である。ただし、怒りの矛先はジョナサンだったが。
デビー・ジョーンズの名前と、彼女が怒っていると言う話を出せば、震え上がらない船乗りはまずいない。ギベッドのようにやましいところがある人間ならなおさらだ。
さあ、どう来る? ジョナサンはギベッドの方を見た。反応によってこちらも出方を変えなければいけない。
ギベッドは、目を見開いてじっとジョナサンを見ていた。
「さて、エルモはこっちに来るらしいけど、あんたは? デビー・ジョーンズへの御目通りを許されるなんて、滅多にない名誉だけど、来る?」
「お前の船に乗ってるのか? デビー・ジョーンズが?」
平静を装っているが、小さく指先が震えている。あたりだ。こいつもデビーを畏れている。
「そうだ。俺はあの悪魔に魂を売って、一緒に旅をしてもらってる」
ジョナサンは服の胸元をはだけて、契約を結んだ時に現れた紋様を見せた。
「信じられねえか? デビー・ジョーンズは……」
本当にいるんだぜ? と言うつもりだったが、そんな必要はないほどギベッドはうろたえていた。
「エルモ、今の話は本当か?」
「うん。デビーちゃんは私たちと航海してる」
「やめろ。悪魔に近づくな。一緒に逃げるぞ」
「なんでそんなこと言うの? デビーちゃんはいい子だよ?」
ギベッドは、窓の外とエルモを見比べて「酒なんて飲ませるんじゃなかったな」とため息をついた。
「エルモ、よく聞け。俺は地獄の島で、お前が来るのを待っている。酔いが覚めたら訪ねて来るといい。俺がなにをしているかは、この船に乗ってる罪人どもが教えてくれるだろう。お前とサシで飲める日が来るとは思わなかった。次に会うのを、楽しみにしてる」
そして止める間もなく体当たりで窓を破ると、海に飛び込んで泳ぎ去っていく。
「あっ、おい! 待てよ! 悪かった! そんなに怖がるとは思ってなかったんだ!」
大慌てで窓から身を乗り出すが、ギベッドは綺麗に水をかいてどんどん遠くへ泳いで行ってしまう。
「くそ。奴の本拠地までって泳いでいける距離か?」
ジョナサンが尋ねると、クラフトは珊瑚の櫛を無理やりエルモの手に握らせてから答えた。
「ちょっと苦しいが、鍛えている者なら行けなくはない。それに、海図を見た限りでは途中に休憩できそうな小島や岩礁もある。追うか?」
「いや、引き返そう。港まで戻って、捕まえられてた人たちを解放する。そんで、後日改めてカチコミだ」
「了解だ船長。僕は船と船をつないで牽引の準備をする。君はエルモの介抱をしてくれ」
船長室を出て行ったクラフトを見送って、ジョナサンはエルモの前にしゃがんだ。
エルモは、ギベッドが出て行った窓の方をじっと見ていた。
「なあ、エルモ」
酔いの回ったおぼろげな記憶に紛れてくれればいい、と思いながらジョナサンは尋ねた。
「もし俺があいつよりいい男になったら、お前の未練って消えるか?」
エルモは返事をしない。
割れた窓から、爽やかな風が酒気の漂う室内に流れ込んでくる。
「俺は、あいつみたいに強くない。お前に憧れられるようなことも、なに一つしてない。女の子のおねだりに即決で答えてやることもできないけどさ……」
話しているうちに気持ちがまとまらなくなってきて、ジョナサンは首を振った。
「いや、なんでもない。忘れてくれ。立てるか? 俺たちの船に戻って水を飲もう」
エルモは小さくうなずいて、最後にもう一度窓の外に目をやってから、ジョナサンの手を借りて立ち上がった。




