第52話 デビー・ジョーンズの話③
一晩ぶりに自分の船に帰って来たジョナサンを出迎えたのは、大量のカモメの襲撃だった。クラフトとメアリーももれなく巻き添えを食らって悲鳴をあげる。危険を察知して、ラブはそそくさとメインマストの一番上に避難した。
「ぎゃー! なんで!?」
「お・そ・い! どこで油を売ってたの!? 奴隷の分際で朝帰り!? 躾が必要なようね!」
目を釣り上げたデビーがプンスコ怒っているのを見て、ジョナサンは大慌てで土下座した。
「ごめん! これには訳が……!」
「問答無用よ! その訳とやらが私より大事なのかしら!? 帰ってこないかと思ったじゃない! おかげで寝不足よ!」
ジョナサンは、頭を下げたままニマッとほくそ笑んだ。
「ほうほう、デビーちゃんは俺たちがいないせいで寂しくて寝られなかったのか。ごめんな〜。今夜は子守唄歌ってやるからな〜」
少し考えてから、デビーは指を鳴らしてカモメを下がらせた。
「覚悟しなさい。声が枯れるまで歌わせてやるわ」
どうやら許してくれるようだ。ジョナサンはホッとして顔を上げた。
そこで、デビーはピクリと眉をひそめ、カモメの大群の下から現れたジョナサンたちをじっと見た。
「……エルモはどうしたの?」
「よくぞ聞いてくれた。説明するから弁解タイムに入らせてくれ」
ジョナサンはことのあらましをざっと説明する。
「と、いうわけなんだよ。初めての略奪をしようと思うから、応援してくれ」
話を聞き終えると、デビーは満足げにふふっと笑った。
「へえ、いいじゃない。ようやく悪魔の契約者らしいことを言い出したわね。任せなさい。私にかかればどんな船でも、一瞬で海底に横たわる瓦礫に変わるわ」
デビーはとてもやる気満々の顔をしているが、ジョナサンはその提案を慌てて断った。
「待て待て待て。ダメだデビー。船にはエルモやさらわれた人たちも乗ってる。攻撃はしたくない。追いつくために船足を早める以外は、本当に応援だけしててくれればいいんだ。ほら、「がんばえー」って言ってみ?」
すると途端に、デビーは不機嫌そうに頬を膨らませる。
「この私が手伝ってあげるって言ってるのに、応援だけしてればいいですって? 大悪魔デビー・ジョーンズと契約しておいて、欲がないのね! 呆れた!」
「そんなこと言われてもなあ……」
「望みさえすれば、あなたは海の覇者にだってなれるのよ? もっと欲望のままに好き放題しなさいよ! もう!」
「してるしてる。俺の毎日は、概ね好きなことしかしてねえよ」
デビーはやれやれと溜息をついた。
「あなたって本当につまんない男ね。今までの契約者は、みんな欲張って私の力を最大限に活用して、挙句に身に余る力に振り回されて破滅していったのだけど」
「えっ、俺の他に契約者とかいるの? 聞いてないんだけど? 妬いちゃうなー」
「で? 船への攻撃はしないで中の人間だけを連れ出すなんて、そんなのできるの? 手品師にでもなるつもり?」
「俺が思うに、タネも仕掛けもなくたってそんなに難しくはない。うまくすれば一発であのおっさんも捕まえられる」
ジョナサンがデビーと言い争っている間にクラフトとメアリーがテキパキと動き、出航の準備は整った。
大急ぎで船は港を離れ、沖へ向かっていく。
追いかけるべき船の姿は見えないが、行き先はわかっている。ジョナサンは海図を広げ、コンパスで方角を確認した。
船は、帆にたっぷりと風を受けて、目的の方向へぐんぐん進んで行く。
「進路良し、と。時間はあとどれくらいかかりそうだ?」
「そうねえ。そこまで離れてるわけではないけど、地形が入り組んでる。暗礁も多いし潮の流れも複雑ね。少し急ぎましょう。向こうの船足にもよるけど、頑張ればあと二日くらいで捕捉できるかしら」
「オーケー、あと二日か……」
ジョナサンは深呼吸をして、空を見上げて、だんだん遠ざかっていく港町に目を向けた。
デビーと二人きりだった最初の船出の時ですら、わりとすぐに退屈してしまった。そしていまや、クラフトとメアリーも船の仕事を手伝ってくれる。やるべきことはすぐになくなって、あとは待ちの時間になるだろう。
そわそわする。気をぬくとすぐに不安が頭をもたげてくる。
あの神父を相手に、ジョナサンたちは手も足も出なかった。
策はあるしそれでうまくいく確信もあるが、絶対なんてありえない。
退屈な時間があればあるほど、嫌な想像が膨らんでしまいそうだ。
「なあ、デビー。さっき言ってた他の契約者たちってどんなやつらだった?」
「なに? そんなに気になるの?」
「いや、結構時間あるから、気を紛らわせる話が欲しいなーと」
答えを聞くと、デビーは不満げに鋭い目でジョナサンを見上げた。
「そこは「自分以外がデビー様の加護を受けていたなんて嫉妬ではらわたが煮え繰り返りそうです」って言いなさいよ! なによその軽いノリは! 妬いてたんじゃないの!?」
「自分以外がデビー様の加護を受けていたなんて嫉妬ではらわたが煮え繰り返りそうです」
棒読みの答えを聞くやいなや、デビーは小さな拳でポカポカとジョナサンの胸を叩く。ジョナサンは半笑いで甘んじて受けた。
「気持ちがこもってなーい! もっと私に執着しなさいよ!」
「してるしてる。お前がいない船旅なんて、考えられないよ」
その一言で、途端にデビーは機嫌を直した。嬉しそうにほころんでいる口元をごまかすかのように、フイッと目をそらす。
「そ、そう? ふーん。ま、当然よね? 私のありがたみがよくわかっているようでなによりだわ」
そろそろ日は高くなり始め、日差しにこもる熱が強くなってくる。波の音は規則正しく、揺れは心地よい。
今から野蛮な戦いに身を投じようという道中だが、あたりの景色はのどかなものだ。
「そうねえ。じゃあ、私と契約した愚かな船乗りの話を一つ、聞かせてあげましょう。これを聞いて、私と契約を結ぶというのがどういうことなのか、今一度考えてみるといいわ」
うっすらと笑みを浮かべると、デビーは話を始めた。
ジョナサン、あなたは光栄に思うべきなのだけどね、今までにも何人か契約者はいたけれど、私の方から話を持ちかけに行ったのはあなたが初めてよ。
あなた以外はみーんな、私の力を貸して欲しいって船の床にひたいをこすりつけてお願いしてきたんだから。
海の男にとって、私と契約すること以上の名誉はないし、海の上で幅をきかせるには私の力を借りるのが一番手っ取り早いんですもの。
その船乗りは、小さな商船の下働きだったわ。
孤児だったところを船長に拾われて、船で育ったんだそうよ。
立て続けに嵐に遭って積み荷を失い、稼ぎがないから船の修理代が出せず、困り果てていたところで私の伝承を聞いて、ダメ元で試してみたんですって。
特別な事情がない限り、私はデビー・ジョーンズ・ロッカーにいるんだけれど、一つだけ私を呼び出す方法があるの。
行ってあげるかは私の気分次第だし、行ったところでその船乗りが私のお眼鏡にかなわなければ契約してあげないのだけどね。
満月の夜、海はとっても賑やかになるの。雲ひとつないよく晴れた夜がいいわ。生き物たちの吐き出す小さな泡が、光に透かされてかすかに見えるような、そういう夜。自分の一番大事なものを、海面に映った月に向かって投げ込むの。
それが、私に会いたいっていう合図。
その下働きの船乗りは、小さなペンダントを投げ込んだわ。
後で聞いたところによると、孤児だった彼が唯一最初から持っていたものなんですって。別に価値があるわけでもなさそうな、村で一番器用な女が彫りました、みたいな仕上がりの木のペンダントよ。確か小鳥の形をしていたわね。
その時の私は、ちょうどかわいがっていたタツノオトシゴが寿命で死んだところでね。いや、別に寂しかったとかではないのよ? なに笑ってるの? 違うって言ってるでしょ?
でもまあ、いい気分転換かと思って、彼の元に顔を出したわ。
本当に来るとは思ってなかったみたいでね、彼は腰を抜かしたわ。そしてしばらく、悲鳴をあげたり頬をつねったり右往左往した後、私の前で土下座して言ったわ。
「船を積み荷でいっぱいにして下さい! 僕たちがこれからも、海での生活を続けるために! 僕はここしか居場所がないんだ!」
私はその望みを聞き入れた。
海鳥に命じて、香辛料に使える木の実を持って来させたの。クローブとか、ナツメグとかね。いい値段で売れたみたいで、船の修理も、次の積み荷もなんとかなったようよ。
私の加護のおかげで波も風も船の味方、嵐にも遭わず、ほかの船より早く進める。その商船はすごい勢いで儲けを出して、どんどん裕福になっていった。
暮らしに余裕が出て来るとね、もっともっと、って欲が出てきちゃうみたい。そんなにあくせく働かなくてもいいくらいの蓄えはできてたけど、むしろ彼らはどんどん時間を惜しんで働くようになっていったわ。「せっかくデビー・ジョーンズの力を借りているんだから、使わないともったいない」ってことだったのかしら。
そして、金が集まるところには人も集まる。
港に立ち寄るたびに、その船の男たちは豪遊するようになったものだから、金を落としてもらおうとたくさんの人間が寄って来ていたようだったわ。私は港町へは行けないから、推測でしかないけどね。
だから、あれは必然だったのでしょうね。
私の契約者である下働きの船乗りが、とある港町で恋をしたの。恋をしたっていうか、カモにされたって言った方が良さそうだけど。
娼婦に入れ込んで、一緒になりたいって言い出した。娼婦が店を辞めて誰かと一緒になるためには、店にある程度の金を納める必要がある。そうでなくても、新しい生活を始めるにはなにかと入り用らしくて。
下働きの男は、私に頭を下げて頼み込んできた。
「金がいるんだ。助けて欲しい。金さえあれば、僕に家族ができるかもしれないんだ」
正直私は、ものすごく怒ってた。だって、その男は陸に上がって娼婦と一緒になるつもりでいたから。
私を捨てるための手助けを、私に頼んできたのよ? 信じられる?
でも私は、にっこり笑って言ってあげたの。
「いいわよ。でも、ただ助けてあげるんじゃつまらないからゲームをしましょうか。最初に出会った日のように、私はこの船に積み荷を運び込む。あなたは、もういらないと思ったところで「ストップ」と言いなさい。もしあなたが止めなければ、いつまででも運び込み続ける。それこそ、重みで船が沈むくらい。私は波や風で船を助けることはできるけれど、船板が割れるのを止めることはできないわ」
彼は一も二もなく頷いたわ。
「わかった」
「止めるのが早すぎれば儲けが出なくてお金が足りないし、欲張りすぎれば船が沈む。頑張って沈まないギリギリを見極めることね」
私が指を鳴らすと、海鳥たちが次々に荷物を運び込んできた。それはもうたくさん。最後のプレゼントですもの。すっごく大盤振る舞いしてあげたわ。
しばらくすると、積み荷の重さで船板がきしみ始めた。
「そろそろ止めた方がいいんじゃない?」
彼は答えた。
「まだだ。もっとくれ」
海鳥は積み荷を運び続けた。香辛料の山で、部屋が一つ埋まった。
船の軋む音はどんどん大きくなっていったわ。
「そろそろ止めた方がいいんじゃない?」
彼は答えた。
「まだだ。この船にはもっとたくさん乗るはずだ」
「あらそう」
海鳥は積み荷を運び続けた。どこかから拾い集めてきた、たくさんの種類が入り混じった金貨の山で部屋が一つ埋まった。
「そろそろ止めた方がいいんじゃない?」
重みのせいで、船の喫水が深くなっていたけれど、下働きは迷いなく答えたわ。
「まだだ。まだ大丈夫」
次の瞬間だったわ。木がひしゃげる嫌な音がして、船底が抜けたの。
みるみるうちに浸水が進んで、船は海へ沈んでいった。
彼は目算を誤ったの。
あの商船はね、船大工がサボっていたのよ。どうせデビー・ジョーンズの加護で沈まないから大丈夫って油断して、ロクな手入れをしてなかったの。
だから彼が知っていたよりも、船の強度はだいぶ低かった。
沈む船から逃げようと、彼は海へ飛び込んだ。陸へ向かって泳いでいく彼の頭上に、ザラザラと金貨の山が崩れ落ちていった。
こうして彼の魂は、デビー・ジョーンズ・ロッカーに囚われることになったの。




