第44話 灯台の光
荒れ狂う波に、船は木の葉同然に押し流され、あっちへこっちへ揺さぶられる。
クラフトは、エルモとメアリーに向かってロープを投げた。
「それで自分とマストを結びつけるんだ! 振り落とされてはいけないから! 船の端から端へ行けるくらい、長さに余裕をもたせておいてくれ!」
二人が腰にロープを結び終えたのを確認すると、クラフトも自分の腰と適当な場所をロープで結んだ。
「マスト、切らなくていいの!?」
強い風の音にかき消されないよう、メアリーは大声をあげた。
嵐の強風をもろに受け止めるのは、危険だ。予期せぬ方向へ運ばれてしまったり、強い力がかかったせいで転覆したりする可能性が高い。そのため、嵐にあった船は風の抵抗を減らすためにマストを切り倒す。
しかし、クラフトはメアリーの提案を蹴った。
「切らなくていい!」
「なんで!?」
「それは、ただ嵐をやり過ごせばいい時に使う手段だ! 僕らはこの海を渡らなければいけない!」
クラフトがちらりと目をやると、舳先に座っているデビーは嬉しそうに微笑んだ。
「ええ、そうよ。それが正解。普通の嵐なら通り過ぎるまで耐えて、良い日和を待ってから船を進めればいいんでしょうけど、これは私が起こしてるんだもの。この船がジョナサンのところへたどり着くまでは止まらないわ」
「向かい風はやり過ごし、追い風を捕まえて進む! 難しいが、そうするよりほかはない! エルモ! メアリー! 手を貸してくれ!」
「わかった。なにすればいい?」
「船が転覆しないように重心を動かしてくれ! 波に揺られて、片側が持ち上がったらそっちへ行って、水平を保てるようにして欲しい! 僕が指示を出すから、そっちへ走るんだ!」
「了解!」
船を出す直前、二人は岩礁に置いていこう、という考えが一瞬浮かんでいたが、クラフトはその考えを口に出す前に自分で否定した。二人が船に乗るのを止めはせず、連れてきた。
兄上の船に、僕も乗せて欲しかった。その思いが、今更ながら頭の中で渦巻いている。家族に対して悪い感情を抱いたことはあまりないが、このことに関してだけは、きっと兄上を許せないことだろう
「危ないから」と安全な場所に閉じ込めておかれるのが、どんなにやるせなかったか。
だからかもしれない。自分の力を認めて、一緒に海へ行こうとせっついて、航海士として頼ってくれるジョナサンの言葉が、涙が出るほどに嬉しい。
大きな波が、船を傾けた。
「右へ!」
クラフトの掛け声で、傾いた船の持ち上がった側へとエルモとメアリーが走る。
「左へ!」
休みなく舵を回して、懸命に船を操る。あっちへこっちへ揺さぶられ、視界が安定しない。雨風のせいで目を開けているのさえ困難だ。
「舳先へ!」
船酔いだろうか。気分が悪くなってきた。内臓も頭もめちゃくちゃに振り回されているのだから無理もない。
方向感覚が怪しくなってきた。三つめの島を見失ってはいけない。
しかし、もみくちゃに振り回されて、もうどっちが前なのかも定かではない。
目を凝らすが、視界が悪いのはどうにもできない。
「くそ……!」
不安になってきてしまう。進む方向は、こっちであっているだろうか。
やみくもに船を進めるわけにはいかない。
しかし、不規則に揺れる並みに翻弄されて、ついに目的地までの方角を見失ってしまった。
「中央へ!」
だんだん、思考が鈍ってくる。叩きつけてくる雨風は体温を奪い、もみくちゃにされている船の転覆を避ける以外のことを考える余裕が、なくなってくる。
考えろ。ここから、ジョナサンのところまでの進路を見極める方法を。
「ラヴ! いるか!」
「オウヨ」
「ジョナサンのところまで飛んでくれ! それで「眼帯を外せ」と伝えるんだ!」
正直賭けだ。この鳥がどこまで人の言葉を理解できるのか、命令をちゃんと遂行してくれるか、わからない。そもそも、この嵐の中を渡れるほど体力があるのかも怪しい。
だが、鳥は人よりも正確に方角や自分の位置を把握できると聞く。それに賭けるしかない。
ラヴは嵐の中へ飛び立った。あとは、うまくいくのを祈るだけだ。
ラヴがうまくやってくれれば、事態は好転する。それまでは、なんとしてもこの船を死守しなければならない。
「船尾へ!」
荒波は容赦なく船を襲う。二人の体力も気力も無限ではない。早く、解決の糸口を掴みたい。
どれくらい、そうやって波と戦っていただろうか。
舵を握る手が、震え始めた。
嫌な考えが、頭を蝕みはじめる。
自分に、こんな荒波を超える力なんて、ないんじゃないか?
こんな危険なところに、エルモとメアリーを連れ出すべきではなかったんじゃないか?
船が揺れる。この木っ端のような船のすぐ下は、全てを飲み込む深淵がある。
足が震える。踏ん張らなければいけないのに、だんだん呼吸が浅くなり、視界が狭くなってくる。
「ねえ、クラフト」
不意に、エルモがクラフトの肩を叩いた。
「あれ、ジョナサンじゃない?」
エルモが指差した先を見ると、嵐の中でもはっきりわかる、力強い光があった。
「よし! ラヴがうまくやってくれたんだ!」
あれは、ジョナサンの目にはめられている真珠が放つ光だ。あれを目指していけば、ジョナサンのところへたどり着く。
灯台ようなその光を見てクラフトは、ふっ、と余裕のなくなってきていた気持ちが和らいだのを感じた。
あっちへいけば大丈夫。確信は力に変わり、舵を握る手に力がこもる。
船が島にたどり着くと、ピタッと嵐はやんだ。
ジョナサンが船に歩み寄ると、船の上で三人が息も絶え絶えになっているのが見えた。
ぐったりと力なく座り込み、ずぶ濡れになってしまった服を脱ぐ気力もない。エルモに至っては船べりから身を乗り出して吐いている。
「よう。来ると思ってたぜ」
「ああ、ジョナサン。助かったよ。君のおかげで進路を見失わずに済んだ」
クラフトが口を開くと、ジョナサンは目を丸くした。
「あれ? こいつはどういうことだ? デビー、お前なんかした?」
「なにが?」
死屍累々の船の上で、ただ一人ピンピンしているデビーは、楽しいピクニックを終えた余韻に浸っているかのように楽しげだ。
「海にいるのにクラフトが喋ってるんだが。命令を解いたのか?」
「いいえ? そんなことしてないわ」
エルモとメアリーも「そういえば」と顔を見合わせてから、クラフトの方を見た。一番驚いているのは、当のクラフトだ。
「私が命令を下せるのは海の生き物だけだもの」
「ん? つまり……どういうこと?」
「普通、動物っていうのは危ないものからは逃げるのよ。必要があるからってあんな荒れ狂った海に出ていく愚かな生き物は、人間しかいないの。この愚かな感情のことを、人は勇気と呼ぶわ」
「なるほど。セイレーンの部分より人間の部分の方が強くなったから、命令が効かなくなった、ってことか」
ジョナサンは、船に飛び乗った。自分の船なのに、久しぶりに乗ったような気がする。
あんな大嵐にあったのだからあっちこっち壊れるだろうと覚悟はしていたが、思ったより大丈夫だ。いくつか備品がなくなっていたり、たわんで木材が破損したりしている箇所はあるが、軽く修理すればまだ航海を続けられそうだ。
「俺の航海士様は優秀だな」
「みんなの助力があってこそだ。ジョナサン。蓄音機を貸してくれ」
クラフトに言われて、ジョナサンはポケットに入れっぱなしにしていた蓄音機を取り出した。
「なにに使うんだよ」
「本当は書面でやるんだろうが、こっちの方がいい気がしてな」
クラフトはスイッチを押すと、蓄音機に向かって話し始めた。
「僕、クラフト・ルーベンシュタイン・セイララルはここに誓う。僕は、故郷で見つけられなかった自分の役割を、君の船で見つけた。謹んで誘いを受ける。僕は君の航海士だ。君と同じ航路を進むよ」
声を吹き込み終えると、クラフトはジョナサンに蓄音機を返した。
「……お前、よくそんな小っ恥ずかしいこと真顔でできるな」
ジョナサンが冗談めかして笑うと、クラフトは口を尖らせる。
「なんだと! 人が真面目に話しているのに!」
その様子を見て、デビーがくすくすと笑い声をあげた。
「怒ることないわよ。照れてるだけだもの。ね、ジョナサン?」
見透かしたように笑われて、ジョナサンは観念するしかなくなった。肩をすくめて両手をあげ、降参のポーズをとる。
「ああ、そうだよ。その通りだ。誘いを受けてくれて、本当に嬉しい。よろしくな、相棒」
クラフトは、デビーの前に膝をついた。
「デビー・ジョーンズ。僕は、君のお眼鏡には叶ったかな?」
「ええ。認めてあげるわ。でも、ジョナサンは私のものよ。そこを忘れないことね」
「もちろんだとも、僕らの守り神よ。しかし僕も航海士となった以上、君の命令よりジョナサンの言葉を優先させてもらう」
「あら、生意気」
「船長の言うことは絶対。船乗りの基本だ」
そこへ、ひとしきり吐き終えてスッキリした顔のエルモが戻ってきた。
「わお、ジョナサンってばモテモテだねえ」
「だろ? 俺ってば結構いい男なんだぜ」
「いや、そうじゃなくて……。あ、そっか。ジョナサンとクラフトは見えてないのか」
「なにがだ?」
つん、とメアリーがジョナサンの脇腹をつついた。
「うん? どうした?」
メアリーは、じっとジョナサンの肩のあたりを見ながら言う。
「幽霊、いっぱいいる」
その瞬間に、ジョナサンは理解した。真珠の光に誘われて、この辺り一帯のさまよえる魂が集まってきたのだ。
ジョナサンは、背中に冷や汗がつたうのを感じて、顔が引きつった。




