第43話 デビー・ジョーンズの話②
ジョナサンが波にさらわれた。
デビーは「様子を見てくるから待ってなさい」と言い残して、ジョナサンを追って海へ飛び込み、残されたクラフト、エルモ、メアリーは途方に暮れていた。
特にクラフトは激しくうろたえて、さっきから同じ場所を行ったり来たりしている。
「落ち着きなって。大丈夫だよ。ジョナサンにはデビーちゃんがついてるんだから、たいていのことはなんとかなるって」
エルモがなだめるが、クラフトは一向に落ち着かない。
ウロウロと歩き回り、小石を蹴飛ばし、海の方を見てため息をつく。
「これはなんの真似だ! 最後の試練は、なにをさせるつもりなんだ!?」
波間から顔を出しているセイレーンに向かって怒鳴るが、セイレーンは表情を変えない。
「我々にも、詳しい話は伝わっていない」
クラフトは、足元の地面と、ジョナサンの小さな漁船と、三つ目の島を交互に見てから、ギリッと歯を食いしばった。
船を出して、探しに行こうか? その考えが、頭の中で浮かんでは消える。
さっきは、船に乗るところまでは行けた。しかしそこで腰が抜けてしまって、立っていることすら難しかった。
大丈夫。メアリーのためなら頑張れた。今度はジョナサンのために頑張るんだ。そう自分に言い聞かせるが、思うように足が動かない。
エルモには、船の操縦技術も知識もない。メアリーは、多少は船の操縦がわかるだろうが、まだ幼く力のいる作業はできない。
ジョナサンがいない今、十全に船を操れるのは自分だけ。大海原の真ん中で足がすくんでしまっても、助けを求められる相手はいない。その事実が、クラフトに二の足を踏ませていた。
あれから、どれくらい経っただろうか。太陽の位置はさほど変わっていないから、そんなに長い時間が過ぎたわけではないのはわかるが、途方もなく長い間気を揉んでいるような気がする。
「あっ!」
メアリーが海の方を指差した。そっちを見ると、ちょうど波間からデビーが頭を出したところだった。
デビーは岩礁へ上がり、濡れた髪を手櫛で整え、顔に張り付く水滴を手のひらで軽く払う。
「ジョナサンから伝言よ。「すげーでかいエビを捕まえたから、今夜はこいつを焼いて食おう。俺は塩焼きがいい」ですって」
「余裕すぎないか!? 僕の心配を返せ!」
「本当に大きかったのよ? あなたも、見たらきっとびっくりするわ」
「いや、そういう話ではなくてだな」
「大丈夫、わかってるわよ。慌てなくても、向こうでなにがあったかちゃんと教えてあげるわ」
クラフトは、ごくんと息を飲んだ。デビーが、あんまりにも楽しそうな顔をしていたからだ。
ジョナサンは波にさらわれた後、三つ目の島に運ばれていったの。あの島の家は、ガラスでできてた。氷で家を作ったら、あんな感じになるんじゃないかしら。
波に身を任せていたおかげか、ジョナサンは無駄に体力を使うこともなく、元気な状態で島に上がったわ。
私が隣に上がると、自慢げに大きなエビを見せびらかしてきたわ。
「見て見てデビー。途中で捕まえた。すごくね?」
「呆れた。なにしてるのよ」
「えー? こんなにでかいのが手の届くとこにいたら、捕まえて当然だろ?」
それから濡れた服を脱いで、適当に広げて日に当てながら、ぶつくさぼやいていたわ。
「あー、びっくりした。なんだっていきなり強引に連れてくるんだよ。そんなに慌てなくたって、ちゃんと船で来るっつーの」
「そういう試練なんでしょ。そうよね?」
家の中には、前の二つ同様セイレーンの剥製がいたわ。
「いかにも」
重々しく口を開いた剥製は、試練の内容を告げたわ。
「この試練は、現在の試練。今、貴様らが抱えている問題を解決できたら達成とする」
「俺たちが抱えてる問題……。っていうと、あれしかねえか」
もちろん、あなたのことよ、クラフト。
「さよう。我らの末裔は、海を忌避している。それを乗り越え、彼が自分の力で船を操ってここまで来られたら合格とする」
ジョナサンは、「なーんだ」って軽く笑うと、大きく伸びをして日向で横になったわ。
「つまり、俺はもうなにもしなくていいわけだ。待ってるだけなんて、ずいぶん簡単な試練だな。もうちょっと内容練った方がいいんじゃねえ?」
「あらずいぶん余裕ね。クラフトは、船に乗っただけで腰を抜かすような有様なのよ?」
「問題ねーよ」
余裕綽々で今にも昼寝を始めそうなジョナサンに、剥製が聞いたわ。
「なぜ、そこまで断言する。あの末裔の子は、我らの声に苦しんだ。きっと嫌っていることだろう。我々が自由に海を泳ぎまわることを、よしとすると思うか? 死ぬ思いをして恐怖を乗り越えた先で災厄を振りまくとわかっていて、海に出ると思うか?」
クラフト。あなた、確か言ってたわよね? 「セイレーンの封印を解くべきじゃない」って。あれから、そのことについて考えてみたかしら? 答えは出た?
ちなみにジョナサンはこう言ったわ。
「俺は、いくら危ない声を持ってるからって、あんたたちをここに閉じ込めておくのは嫌だ。行きたい場所に行けないのが嫌だってのは、あんたらも一緒だろ? 俺も、クラフトもそうだ。閉じ込められるのは大嫌いだ。あいつが、セイレーンをここに閉じ込めて海の平和を守ってめでたしめでたし、なんて結論を出すはずがねーよ」
剥製は「ふむ」と軽く頷いた。
「このことを、中央の岩礁に伝えねばならんな。誰か、セイレーンに伝言を頼むとしよう」
「それには及ばないわ。私が行くから」
私が言うと、剥製はちょっと目を剥いたわ。
「待たれよ、大悪魔デビー・ジョーンズ。あなたにそのような使い走りをさせるわけには……」
「私がいいって言ってるのよ。寝てるだけのジョナサンより、あっちで右往左往してるクラフトを眺めてた方が楽しそうだもの」
「承知した。では、恐れながらお願い申し上げる。岩礁に残った者たちに、試練の内容を伝えて欲しい」
「それじゃ、行ってくるけど伝言とかあるかしら?」
ジョナサンは、私に二つの伝言を頼んだわ。
一つは、さっき言った今夜のご飯の話。
もう一つは、クラフト宛に。
「お前が船出を夢見てくれて、俺は嬉しいよ。この試練を終えて兄貴の魂を取り返したら、お前はもう海に出る理由がなくなっちまうけど、どうするつもりだ? できることなら、俺の航海士になって欲しい。頼りにしてるぜ」
ですって。
さてクラフト。あなたはどうする?
船に乗り込んで、ジョナサンとお兄さんを取り戻す?
それとも、セイレーンをここに封じ込めるために、全員仲良く心中かしら?
クラフトは、パチンと自分の頬を平手で叩いた。
「行かなければ」
不思議と、足の震えは止まっていた。
「大丈夫?」
エルモとメアリーが、じっとクラフトを見ている。
「正直まだ怖いが、大丈夫。ジョナサンは、僕にかかった呪いを解いてくれた」
「呪い?」
首をかしげるメアリーに、クラフトは答える。
「僕は、海に出るのを夢見たけれど、それはいけないことだとずっと思っていた」
クラフトは船に飛び乗って、もやい綱をほどき始めた。
「ロクでもない夢を見て、周りを災難に巻き込んだダメなやつ。それが僕の、自分に対する評価だったよ」
着々と準備を進めるクラフトを見て、エルモは目を丸くした。
「でもジョナサンは、僕が船出を夢見たことが嬉しいと言ってくれた。僕は、夢を見てもよかったんだ」
錨が上がり、帆が張られ、出航の準備はどんどん進んでいく。
クラフトは、大きく深呼吸をした。
「大丈夫。僕はやれる。ここまで信じて応援してくれる者を裏切る以上に怖いことなんて、この世にあるものか」
「航海士ってなあに?」
また、メアリーが問いかける。
クラフトは、照れ臭そうに答えた。
「航海士っていうのは……、うーん、そうだな。海や船の様子をよく見ていて、航海の安全のために、船長の相談に乗ったり、進言をしたりする人だよ。ジョナサンは今後も僕に航海の手助けを頼みたいと、そう言っているんだ」
クスクス、と突然デビーが笑い始めた。
「まったく、いい度胸よね? 私というものがありながら、他の者の手を借りようだなんて」
クラフトは冷や汗をかいた。
「い、いや、待てデビー。ジョナサンは決して君を軽んじているわけでは……」
「ええ、わかってるわよ? でも、面白くないのよね。せっかくこの私が守護してあげてるっていうのに、それじゃあまだ足りないのかしら?」
デビーはパチンと指を鳴らした。
途端に波が荒れ、空が曇り、横殴りの風が雨を運んでくる。
高い波が岩礁を襲い、分厚い雲の上からはゴロゴロと不穏な雷の音が聞こえる。
「クラフト、いいこと? この私が守る船の運航に口を挟もうって言うのなら、それだけの力があることを証明しなさい。簡単には認めてあげないから」
準備を終えたクラフトは、舵を握って堂々と言った。
「いいだろう。応えてみせるとも。僕の夢を肯定してくれた、僕の船長のために」
エルモとメアリーも、えいっと船に飛び乗った。
船は岸を離れて、嵐の海へ漕ぎ出した。




