第42話 岩礁での会話③
ジョナサンは「クラフトにはキレられてもしょうがねえな」と思いながら話を締めくくった。
なにしろ、海が怖い、溺れるのが怖い、と縮こまっているところへ、こんな危険な話を持って来たのだから。
しかし、話を聞き終えたクラフトは、ジョナサンが想定していたような後ろ向きなことはひとまず口にせず、まずはメアリーの前にしゃがみ込んだ。
「安心してほしい。必ずなんとかする」
ジョナサンはひゅうと口笛を吹いた。
「随分カッコつけるじゃねえの。ビビりちらかしてる真っ最中だってのに」
「下の子の面倒を見るのは年長者の務めだろう」
もう一度、目の前のメアリーと鏡のメアリーを見比べる。鏡の中のメアリーは相変わらずぐったりしていて、それを抱えているジョナサンはどうすることもできずに打ちひしがれている。
クラフトは、手のひらでメアリーの頬を包んで、じっと顔を見た。
「うーん、顔色が悪いようには見えないし、熱もないな」
メアリーは、ちょっと戸惑ったように身じろぎした。
空っぽの酒瓶を抱えて、エルモが提案する。
「そういう時は、ご飯を食べよう。いっぱい食べれば、大体の不調はなんとかなるものよ。そういうわけでジョナサン。お酒お代わり」
「さっき食べたばっかだろうが」
先ほど一つ目の試練の話をしながらみんなで食事をとってから、そんなに時間は経っていない。
「ご飯は何回食べてもいいの。お腹がいっぱいなのはいいことよ」
「うわぁ。デブの発想だぞ、それ」
「いいじゃん。私は別に踊り子とかやってるわけじゃないから、痩せてなきゃいけないわけじゃないし」
「肥満は体に悪いんだぞ」
「うーん、やっぱり? 最近おなかがポヨポヨでさー。そろそろ節制したほうがいいかな?」
そう言ってエルモが服の裾をたくし上げるので、ジョナサンは慌ててそれを止めた。
「見せんでいい見せんでいい! 恥じらいを持て! 貞淑に! なんで聖職者にこんなこと言わなきゃならねーんだ!」
「ほー、赤くなってますなー」
「今は! そういうことを! 言ってる場合じゃねえの!」
こうして呑気なことを言ってる間にも、メアリーの最後は近づいているかもしれないのだ。
試練うんぬんを抜きにしても、メアリーが死ぬのを放っておけない。
「エルモの言うことにも一理ある。栄養バランスの乱れは万病の元だ」
「過食も良くねえとは思うけどな」
「エルモはともかく、メアリーは育ち盛りだ。ちょっと食べすぎなぐらいでちょうどいいんじゃないか?」
クラフトはメアリーの方に手を置いて、じっと目を見ながら聞いた。
「好きなものはあるか?」
「私、干し肉好き。火でちょっと炙ったやつ」
「嫌いなものは?」
クラフトが尋ねると、メアリーはちょっと顔をしかめて答える。味を思い出すのも嫌なようだ。
「ライムが苦手。すっぱいし、苦いし。嫌だって言ってもママが無理やり食べさせようとしてくるし」
「ふむ」
クラフトは、軽く頷いて断言した。
「それだな」
「えっ、もうわかったのか?」
クラフトならなにか知っているかも、とは思ったが、こうもあっさり解決してしまうと拍子抜けだ。
「壊血病だ。船乗りがかかりやすい病気でな。野菜や果物を長いこと食べずにいるとなる。体の血管が壊れて苦しむ恐ろしい病気だよ。メアリー、君はお母さんと別れてからライムを口にしてないし、強制されなくなった今、自分からは食べたくないと思っているね?」
メアリーはこくんと頷いた。
「食べるんだ、メアリー。それで君は助かる」
メアリーはふるふると首を横に振った。
「やだ」
「こら、ダメだろう。好き嫌いするんじゃない」
「まーまー。無理に嫌いなものを食べさせることはねーよ。野菜か果物ならいいんだろ? まだりんごが残ってたはずだ。メアリーはりんごなら好きだもんな?」
「あっ」
不意にデビーが声をあげた。気まずそうに目をそらしている。
「デビー? どうしたんだ?」
「……。りんご、ないわよ」
「えっ、でも確かに……」
「食べちゃった。だって腹が立ったんだもの。あなたが悪いのよ、ジョナサン。あなたが、私の好物を隠したりするから」
「おいおいマジか」
ジョナサンは慌てて船倉の中を改める。
デビーの言葉通り、デビーの手が届かないところに置いてあったはずのかごが、床に落ちていた。カモメかなにかに手伝わせて落としたのだろう。
港町で仕入れたのは、航海には必ず持っていけと村長に口を酸っぱくして言われていたライム。それから、クラフトの故郷でもらったのをきっかけにデビーが気に入ったりんご。これだけ。野菜は足が早く、航海には向かないのでそもそも用意していないのだ。
そして、りんごはデビーが食べてしまってもうない。
仕方なく、ジョナサンは船倉からライムを一つ持ち出した。
「メアリー、ごめん。ライムしかない」
小さなナイフで半分に切ると、酸っぱくて爽やかな匂いが周囲に漂った。いい香りではあるが、確かに刺激が強いし青臭い。メアリーは嫌そうに顔をしかめる。
「いい子だから、食べようぜ」
メアリーは首を横に振った。
「やだ。食べたくない」
「ダメだぞ〜。そんなこと言うと好き嫌いお化けが出るんだからな〜」
「そんなのいないもん」
「食べなきゃダメだ。死んじまう」
「やだもん。ライム嫌いだもん」
メアリーはプイと顔を背けてしまう。
ジョナサンは頭を抱えた。
これは困った。なんとかして嫌がるメアリーにライムを食べさせなければいけない。どうしたものか。
ジョナサンは、わざとらしくおいしそうにニコニコしながら、チラッチラッとメアリーの方を見つつ、半分に切ったライムの片方を口に入れた。
「うーん。おいしいなー! こんなにおいしいものが嫌いだなんてもったいないなー!」
間髪入れずにメアリーが答えた。
「そんなに好きなら、ジョナサンが全部食べればいい」
ダメだった。
今度はクラフトが口を開いた。
「頑張れ。苦手かもしれないが、君に必要なものなんだ」
「やだ。なんで私が嫌がることするの? せっかくママに無理やり食べさせられなくなったのに、どうしてみんなも同じことするの?」
「君のためなんだ。君の母親も、これを食べさせようとしていたのは君の身を案じてのことだ。親友の変わり身にするためだったかもしれないが、君の母親が君を慈しんで育てたことに変わりはない」
「……そうなの?」
「そうだとも。海の上は危険で怖いところだ。そんなところで君をここまで育てるなんて、並大抵のことではないよ。だから、僕も君の母親と同じことをしよう。君に嫌われるよりも、君が死ぬほうが嫌だから」
メアリーは少し考えてから、また首を横に振った。
「やだもん。クラフトだって、海に行くの嫌がってる。クラフトはいいのに、なんで私だけ嫌なことしなきゃいけないの?」
ぷぅ、と頬を膨らませて、強情そうな目でじっとクラフトを見ている。
クラフトは、痛いところを突かれた、と言う顔で少しの間目を泳がせてから、軽く咳払いをして、ジョナサンの方を見て、もう一度メアリーの方を見た。
「わかったよ。それじゃあ、僕も一緒に苦手なことに挑戦する。僕が怖いのを我慢して船に乗れたら、君はライムを食べるんだ。いいね?」
ジョナサンは、驚いて目を見開いた。
クラフトは、宣言通り立ち上がって、船の方へ向かって歩いて行く。
がく、と膝が震えたが、半ば無理やり足を動かして、クラフトは船の上に飛び乗った。
しかし、そこが限界のようで、その場でへなへなと座り込んで、膝をついてしまう。
ジョナサンは手に持っていたライムをメアリーに手渡すと、船に飛び乗ってクラフトの隣にしゃがみ、バシバシとその背中を叩いた。
「俺の思った通りだ! やればできる子なんだよ、お前は!」
クラフトは、抗議をするようにパクパクと口を動かす。その頭の上にラヴが飛び乗って、甲高い声で鳴いた。
「ヤメテクレ。ユラスンジャナイ。コシガヌケテルカラ、ソットシテオイテクレ」
「ハハッ、なんだよ。情けねーやつだなー」
はしゃぐジョナサンと、弱々しく抵抗するクラフトと、手元にあるライムを見比べてから、メアリーはぎゅっと目をつむって、その青い果実にかじりついた。
「……すっぱい」
思い切り眉間にしわを寄せて嫌そうな顔をしているが、メアリーはライムの果実をしっかりと飲み込んだ。口の周りに果汁がベタベタとついている。
次の瞬間、鏡に映っていた不吉な映像が消え失せた。鏡はただ、青い空と海を写し、ぎらりと太陽の光を反射しているのみだ。
「えらいぞ! ちゃんと食べられたな!」
岩礁に降り立って、ジョナサンはメアリーの頭を軽く撫でた。クラフトもそれに続く。
「ありがとう、メアリー。僕に勇気をくれて」
クラフトが軽くはにかみながら、メアリーの口についている果汁を指で拭うと、メアリーは一瞬固まって目を泳がせてから、次の瞬間大慌てでジョナサンの後ろに隠れてしまった。
「ん? どうした?」
「ふむ、嫌われてしまったかな?」
ジョナサンの陰から、メアリーはクラフトを見上げている。その様子を見てエルモが笑った。
「ほー、赤くなってますなー」
その一言で、ジョナサンは察した。
「この初恋泥棒め」
自分よりクラフトに懐いているなー、とは思っていたが、こうなってくるとさらに心境は複雑だ。
「ん? なにがだ?」
当のクラフトは、全く感づいていないらしい。
ザパッ、と海面が盛り上がってセイレーンが顔を出した。
「二つ目の試練はこれで達成された。最後の試練へと案内する」
ごうっと湿った音が響いた。
高波が襲ってくる。波は、ジョナサンにまとわりつき、体を海へ運んで行く。
「えっ? えっ?」
「ジョナサン! 掴まれ!」
慌てたクラフトが、手を伸ばしてくるのが最後に見えた。ジョナサンは海に引きずり込まれ、海流に運ばれて行く。生暖かい海水が体を包み、水を吸って重くなった服が体にまとわりつく。
溺れる! と思ったが、すっとなにかに体が支えられたのを感じた。ゆらゆらと波に運ばれていく。この方向は、最後の島がある方向だ。
「なるほど。最後の試練はそういうことなのね」
くすっ、とデビーが笑う声が聞こえた。




