第18話 エルモの話③
上空にカモメが集まっている。
潮風の上を滑るように飛び、時折波間に嘴を突っ込んでは魚を獲る。ジョナサンは、「ちょうどこの下に魚の群れがいるんだな」とぼんやり思った。
いつもであれば漁のチャンスだが、今はそれどころではないし、食料もまだある。
「ちょっと待ってくれ。何度もすまん」
ジョナサンが話を遮ると、エルモは話をやめた。
「うん? どうしたの?」
「今誰が話してるんだっけ?」
ジョナサンが聞くと、エルモは首をかしげる。
「私だけど」
「いや、そうだけどそうじゃなくて」
頭の中を整理して、指を降りながら数えていると、デビーが口を開いた。
「アトラの話を聞いた私の話を聞いたおじいさんの話をエルモがしてるのよ」
「さかのぼってるなー」
「なんか変な気分ね。昔の自分の話を、さっき知り合った人間から聞くなんて」
「ソウカ? デビー・ジョーンズノハナシナラ、オオクノニンゲンガカタレルダロウ?」
「まあね。私有名だし」
ジョナサンは、デビー・ジョーンズをじっと見た。
残酷で気まぐれな海の悪魔だとは、昔から聞いていた。
だが、それはそれとして、本人が目の前にいる状態で昔話を聞くのは、確かにちょっと、変な気分だ。
「どうかしたのジョナサン? 今更私が恐ろしくなった? あの島の人間たちのように海の底に沈められたくなければ、せいぜい頑張って私の機嫌をとることね」
「わかってるって。高い高いでも肩車でもなんでもやってやるよ」
ジョナサンが軽く言うと、デビーは頬を膨らませて怒る。
「むーっ! 敬意が足りないのよ、敬意が!」
デビーはその場から立ち上がると、クラフトに向かって言いつけた。
「ちょっと椅子になってくれる?」
「イス? ナゼダ?」
ラヴの口から疑問が飛び出すが、クラフトはデビーの命令には逆らえない。
ジョナサンは最初、四つん這いになったクラフトの背中にデビーが座るのかと思った。しかし、クラフトはデビーを軽く抱え上げると、あぐらをかいた足の上に彼女をちょこんと座らせた。
その様子はまるで、懐いている相手にくっつく幼子のようで、ジョナサンは笑いを嚙み殺す。
「ちょっと、椅子ってこうじゃないんだけど」
「チガウノカ? ボクガオサナイコロ、アニウエハヨクコウシテクレタゾ?」
くっくっ、と喉の奥で笑いながら、ジョナサンは「クラフトのやつ、人に人が座る姿勢はあれくらいしか知らねえんだろうな」と納得した。
「もう! あなたたちは揃いも揃って! まあいいわ。ジョナサン? 敬意を示すチャンスをあげる。私の足を手にとって、つま先にキスしなさい」
「こうか?」
ジョナサンは、差し出された足を手のひらでひょいと受け、即座に口付けた。
「なんでそんなにあっさりやるのよ!」
デビーはじたじた暴れた。
「お前がやれって言ったんだろうが」
「そうだけど! もうちょっと恭しくするか、「嫌だけど逆らえない」って感じの表情でやるかの二択でしょ!? 普通は! ムードが足りなーい!」
あまり手足を振り回すものだから、クラフトが困った顔をしている。なだめたいがどうしたらいいかわからない、と言ったところだろう。
ひとしきり暴れると、デビーはおとなしくなった。
「まあ、今回はこれで許してあげる。ごめんなさいね、エルモ。続けてちょうだい」
エルモは、ニコニコしながら口を開いた。
「デビー・ジョーンズがこんなにかわいいなんて知らなかったなぁ。教義のついでに「デビー・ジョーンズはかわいい」って話も広めちゃおっかな」
デビーは強い口調で言った。
「絶対にやめなさい。威厳に関わるから。だいたい、神の教えとともに悪魔賛美を広める宣教師なんて、前代未聞よ?」
「前代未聞! いい響き!」
「やめなさいったら!」
こほん、と咳払いをすると、エルモは急に神妙な顔になった。
「でも、いいの? アトラちゃんって子の話、デビーちゃんとしては辛かった話なんじゃないの?」
デビーは即座に答えた。
「いいわよ」
エルモは軽く頷くと、続きを話し始めた。
「えーっと、それでね。神殿の扉の前で、アトラは話を始めたんですって」
強い風が吹いている。
いつのまにか、風は雲を運んできていた。高くなった太陽の光が雲に遮られ、温まっていた空気が少しずつ冷えてくる。
あのね、デビーちゃん。
この話を聞いたら、すっごく怒って欲しいんだ。
デビーちゃんは、私を友達だと思ってくれてたでしょう?
口では「しもべの分際で生意気だ」って言うかもしれないけど、それくらいはわかるよ。
だから、私はデビーちゃんに謝らないといけない。
島の人たちがデビーちゃんに言うことを聞かせようとしてるの、デビーちゃんは最近始まったと思ってるかもしれないけど、結構前からなんだよ。それを知ってて、私はあなたに教えなかった。
私はね、島の地下にある研究所で生まれたの。
陸の方には来られないから、知らなかったでしょ、そんな場所があるなんて。
島の人たちはね、二人目のデビー・ジョーンズを作ろうとしてたの。
デビーちゃんと同じことができるけど、気まぐれで理不尽なことを言わない、従順に自分たちの言うことを聞いてくれる子が欲しかった。
島の人たちに、髪飾りを贈られたことがあるでしょう?
「使い方を教えます」って言ってデビーちゃんの髪の毛に触った時、気づかれないように一本抜き取ったの。
島の人たちは、その髪の毛の先を少しだけ切り取って、真珠貝の中に入れた。
デビーちゃんなら知ってるよね。真珠貝の中に核になるものを入れると、その核の周りに少しずつ貝が出す真珠の素がくっついて、長い時間をかけて真珠ができるの。
そうして出来上がった真珠を、生まれてすぐに死んだ赤ん坊の心臓に埋め込んだ。その赤ん坊は息を吹き返して、大きくなって、巫女になった。それが私。
私の胸には、デビーちゃんの髪からできた真珠が入ってるの。
だからね、デビーちゃんの前では隠してたけど、私にもデビーちゃんと似たようなこと、できるんだよ? さすがに、デビーちゃんよりはへたっぴだけど。
研究所の人たちは、私にデビーちゃんの真似の練習をさせた。私を巫女のお仕事につかせたのも、近くでデビーちゃんを見てお勉強できるようにするためじゃないかな。
私にデビーちゃんの代わりができるようになったら、大人たちはデビーちゃんにひどいことをするつもりだった。お前なんかもういらないって、捨てるつもりだった。
だから、私は全然上達しないふりをした。ほんとは、もうそこそこ上手にできるんだけど。
なんでかって? デビーちゃんとお別れするのが嫌だからに決まってるよ。
本当は、私もデビーちゃんとイルカに乗ってみたかったけど、そんなことしたら、大人たちは私を神殿に閉じ込めて、デビーちゃんを追い出しちゃう。
そうやって、私ができそこないだってことにしておけば、いつかは諦めると思ってた。
でもね、ダメだった。
さっき、見つけちゃったの。
研究所に、たくさんの赤ちゃんの死体があるのを。
どれも、胸に縫い合わせた跡があった。ざっと三十人はいたかな。私がダメでも、数作ればなんとかなると思ったみたい。
私、もう頭にきちゃった。そこまでして私の友達をお払い箱にしたがるなんてさ、ひどいよね。
私は海岸まで走って、海に向かって叫んだ。
「ここにいるのは、デビー・ジョーンズの敵よ!」
途端に波は荒れ狂い、嵐が来た。
外の様子、ちょっと見てみてよ。すごいことになってるから。
すごいのよ。大雨と津波で、街の中でも膝まで水が来てる。海鳥もサメもウミヘビも、私の味方をしてくれる。
デビーちゃんは優しいね。いつでも私たちをこういう目に遭わせることができたのに、しなかったんだから。
大人たちは、すぐにデビーちゃんの仕業だ、って早合点した。私にこんなことができるだなんて、知らなかったから。
島は、「デビー・ジョーンズの神殿を叩き壊して、デビーちゃんを殺そう」っていう人たちと、「デビー・ジョーンズに供物を捧げて許してもらおう」っていう人たちで喧嘩してる。
たくさん喧嘩して、言い争って、最後にはみんな、デビーちゃんへの敬意を思い出した。
人間は逆立ちしたって海を支配することなんてできないってことが、ようやくわかったの。
みんなは一生懸命、デビーちゃんの好きなものを考えた。どんな犠牲も払っても、デビー・ジョーンズに機嫌を直してもらわなければいけないって、すごく頑張ってたよ。
そして、最後に「一番の友達をあげよう」って決まったの。
だから、生贄は私。
儀式は明日。
最後に、お話しておきたかったんだ。
ひとつ、お願いを聞いて欲しいんだけど、いいかな。
私が死んだら、心臓から真珠を取りだして、真珠貝の中に入れて、核にして欲しいの。
きっと、すごく大きな真珠ができるよ。
デビーちゃん、案外さみしがり屋だから、それを使って人を集めれば賑やかになっていい思うな。綺麗なものがあるから、寄っといで、ってさ。
アトラの話が終わる前に、私は大慌てで扉を開いた。
「なに言ってるの!? 絶対にダメよそんなの!」
私が怒鳴りつけると、アトラは嬉しそうに笑った。
「やっぱり怒ってくれた。ありがとうね」
「ふざけないで。そんな趣味の悪い供物で私が喜ぶはずないでしょう!? 逃げなさい! なんだったら別の島に連れて行ってあげるから!」
大慌てで指を鳴らして、嵐や津波や、島の人々に襲いかかる生き物たちを止めた。
すぐに晴れ間が差して、海は穏やかになった。
「島のやつらに伝えなさい。跪いて許しを乞うのなら、今回だけ許してあげる。生贄なんていらないわ」
アトラは、にっこり笑って、お礼を言って、島の方へ帰って行ったわ。
これで一安心かと思って、その日は久しぶりにゆっくり眠ったわ。
次の日、島の王が神殿を訪ねて来た。共のものを引き連れて、私に拝謁するためにめかしこんでたわ。
そして、アトラの亡骸を抱えていた。
私は混乱した。どうしてアトラが死んでいるのかわからなかったから。
「生贄は不要と伝えたはずよ」
王は、海と陸の境目に膝をついて、亡骸を捧げ持って答えた。
「ご冗談を。この者は、生贄の話をしたらデビー様は機嫌を直してくださった、と申しておりました。約束どおり、巫女を海に捧げます」
華美な装飾を施された服を着て、大袈裟な化粧をされたアトラは、そっと海に入れられた。
脱力した真っ白い手足が、波でゆらゆら揺れているのを見て、本当に死んでいるんだって実感した瞬間に、私は怒り狂って島を滅ぼすことに決めたの。
途端に波は荒れ狂って、神殿にやって来た王の一行を即座に海に引きずり込んだ。
嵐が大雨をもたらし、海底火山が一斉に爆発して、地盤が揺らいだ。
ようやく怒りが収まって冷静になった頃には、この通りの有様ってわけよ。
え? どうしてアトラは嘘をついたのかって?
本当のところは、私にもわからないのだけどね、島のやつらが憎かったんじゃないかしら。
時間だけはいくらでもあったから、長いこと考えていたのだけれど、自分の体をもてあそんで、友人である私を貶めようと全力を尽くしていた大人たちのことが、きっと嫌いだったのよ。
それで、ああすれば私が島を滅ぼしてくれるって確信した。そんなところじゃないかしら。
私は、望まれた通りにアトラの心臓から真珠を取りだして、とびきり大きな真珠貝を探した。
海でいちばん大きな貝にアトラの真珠を収めてから、私は貝に命じた。
「とびきり大きな真珠を作りなさい。海に沈んだ魂たちが、死出の旅に出る前に一目見たくなるような、素晴らしい真珠がいいわ」
そういう注文をつけたのは、私がアトラに会いたかったから。まだ魂が近くを漂っているようだったら、この真珠を目印に会いに来てくれるんじゃないかと思ったの。
結果として、この地は海を彷徨う魂たちが最後に立ち寄る場所になった。
これが、デビー・ジョーンズ・ロッカーができた理由。
あの塔の上で光っている真珠が、アトラの真珠よ。
話を聞き終えると、わしはデビー・ジョーンズと灯台を交互に見た。
「……本当に?」
「なに? 私が嘘をついているとでも言いたいの?」
わしは大慌てで首を横に振った。
「あの時から、たまに考えちゃうのよね。陸に上がれたらよかったのにって。アトラを一人で帰さずに済んだら、どんなによかったかって」
「陸に上がりたいの? じゃあやっぱり、僕のうちにおいでよ!」
わしは、デビー・ジョーンズに言った。
「無理よ。海は私、私は海。陸にいる私なんて、想像もつかないわ」
幼かったわしは、あの子の望みを叶えてやりたい、と無責任に思案を巡らせた。
そして、一つの案に行き着いた。あの時は、本当に名案だと思ったんじゃ。
「じゃあ、僕、絵を描くよ。君が陸にいる絵をたくさん描く。それを見たら、少しは想像できるんじゃないかな」
デビー・ジョーンズはクスクス笑った。
「あなた馬鹿ね。こんな場所、そうほいほい来られるところじゃないの。どうやって見せに来るつもりなの? どうせここへは持ってこられないんだから、描かなくていいわ」
わしはムキになって答えた。
「ううん。絶対に描くよ。絵の中の君は、僕と一緒に陸地で生活してるんだ」
わしは大真面目じゃったが、デビー・ジョーンズは相変わらずクスクス笑っておった。
「まあ、悪くないわね。お礼に、ちょっとおまじないをかけてあげる」
デビー・ジョーンズは、わしの頬に手を添えて囁いた。
「約束するわ。あなたは二度と海で溺れない。だから、最期の時が来るまで、二度とここへは来ちゃダメよ?」
じっ、と目を覗き込まれて、思わず心臓が跳ねた。わしが頷くと、彼女は満足そうに笑った。
「さあ、そろそろ帰りなさい」
フッと体が浮き上がるような感覚があって、目を覚ますと家のベッドだった。
それ以来、わしは海岸にデビー・ジョーンズがいる絵を描き続け、今に至るというわけじゃ。
その話聞いた時、私びっくりしちゃってさー。
そんな壮大な話が来るとは思ってなかったし、まさか絵の中の女性がデビー・ジョーンズだったなんて。
「教会で悪魔に恋した話なんて、したらまずかったかのう」
おじいさんははにかみながら言ってた。
「そんなことはありません」
私は食い気味に答えた。
根掘り葉掘り色々と聞きたい気持ちをこらえて、落ち着くように自分に言い聞かせた。
「差し出がましいようですが、なぜ懺悔室へ? 悔いなければいけないような罪など、無いように思いますが。あなたは、宣言通りに絵を描き続けたではありませんか」
「確かに、絵を描くことはやめなかったとも。でも、もうそろそろ寿命じゃな、と思って描いた絵を見返した時にな、記憶の中のデビー・ジョーンズと、絵の中のデビー・ジョーンズが、似ているのかわからなくなってしまったんじゃ」
おじいさんは深々と溜息をついた。
「モデルもおらんのによく描いたとは思うがのう。わしはいつのまにか、海辺であの子と一緒に暮らしているような心地になっておった。夢中で描いて、一緒に大きくなって、一緒に年老いた。だがのう……。わしが描いていたのは、本当に彼女かのう? 頭の中の都合にいい妄想を、書き散らしておっただけかもしれん」
私が黙って聞いていると、おじいさんはどんどん話を続ける。
「わしは絵の中で、彼女を自分の望む姿に捻じ曲げた。見たままのモデルを描けなかった。彼女に、自分の望みを押し付けてしまった」
おじいさん、めっちゃ落ち込んでた。励ましてあげたかったけど、私がなにを言ってもダメだと思ったよ。
「だからのう、教会のお方にお願いじゃ。わしには家族はおらん。きっと、死んだら遺体は教会に委ねられるじゃろう。その時は、共同墓地ではなく海に流してもらえんか。棺桶に、わしの遺体と一緒に画材も入れてくれ。そうすれば、わしは再びデビー・ジョーンズ・ロッカーに行ける」
そこでようやく、おじいさんの声色が明るくなった。
「そうしたら、今度こそモデルをゆっくり見ながらあの子の絵を描くことができる」
私は、つとめてはっきりした声で答えた。
「必ず、そのようにとりはからいます」
その一週間後、おじいさんは天に召された。いいえ、海に召された、って言った方がいいかな。
私は教会のみんなに事情を話して、おじいさんとおじいさんの家にあった画材一式を棺桶に詰めて、海に流したの。
葬儀が終わったあと、神父様が私に声をかけた。
「海に出てみるつもりはないかね?」
なぜ急にそんな話をされたのか、最初はわからなかった。
「どうしてです? あっ、もしかして、ちょくちょくサボってるから追い出される感じですか!?」
神父様は呆れて笑った。
「サボっている件に関しては、また話し合おう。そうではなくね、宣教師を誰か派遣することになったのだけれど、私は君が適任だと思うからだ。君は、人の話を聞くのがうまい。昔から懺悔室を担当していたおかげかな」
「宣教師? それなら話が上手な人の方がいいのでは?」
「先日の画家のご老人のことがあっただろう? 他の者であれば、悪魔崇拝を否定して石を投げかねない。人の話を否定しない君は、異教の地を旅することに、この教会の誰よりも向いている」
そんなところに才能を見出されるなんて思ってもみなくて、なんだかちょっと誇らしかったな。
「心配な点といえば、一人旅の道中、我々の監視の目がない君は戒律を破り放題ということくらいかな」
私は即答した。
「行きます」
いや、戒律破っても怒られないから来たわけじゃないんだよ?
好きな時に酒が飲めるとか、だるい時はサボっても怒られないとか、他にも魅力的な部分はあるんだけど、それだけじゃなくてさ。
ほんとだって、疑いの目で見ないでよ〜!
あのおじいさんが、生涯をかけて愛した海の魅力を、この目で見てみたかったの。海岸からでも見えるけどさ。せっかくだし行ってみようと思って。
そうだ、デビーちゃん。せっかくだし、よかったら答えてくれない?
あのおじいさんは、デビー・ジョーンズ・ロッカーにはたどり着けたの?