第16話 エルモの話①
懺悔室、って行ったことあるかな。
メンタルの参ってる人がやってきて「お許しください神様」って言う部屋。
部屋は真ん中で板に仕切られていて、カーテンのかかった小さな窓がある。仕切りの向こうにいる者の顔は見えないから、やってきた迷える子羊は安心して自分の罪を告白できるっていう場所だよ。
そんな部屋に神様なんているわけないから、私が代わりに「神は許してくれますよ」って勝手に言うの。で、みんな元気になって帰ってく。要はお悩み相談室だね。
だからねえ、私には街のみんなの裏の顔が丸見えなんだよ。懺悔室で聞いた話を他所で話すのはご法度だから、みんな喋ってスッキリして終わりなんだけどさ。声だけでもわかっちゃうもんはわかっちゃうし。
え? ご法度なのに喋っていいのかって? えーと、じゃあ、今からこの船は私専用の懺悔室ってことで。
で、話を続けるんだけど、重い話から些細なものまで色々来るけど、多いのが恋愛相談なのよ。
好きになってはいけない人を好きになっちゃったー、とか。こんな気持ち初めてでどうしたらいいかわからない、とか。色欲を抱いた自分は罪深いって言い出す奴もいたよ。
懺悔室の存在意義は、悩んで立ち止まっている人間の葛藤を吐き出させて心を軽くし、背中を押すこと。だから、恋に悩んでる人が来た時、私は「全ては神のお導き」って言うの。
すると大体の人は、「この気持ちも神の導き」って結論出して当たって砕けに行くんだよ。成就するかどうかは、その時々だけど。
ある日、画家のおじいさんがやって来たの。
そのおじいさんは海が好きでね。いつも海岸にキャンバスを持って行って、海の絵を描いてた。日光ガンあたりだから、よく日に焼けててね。その辺の農夫より焼けてたんじゃないかな。シワの多い焼けた肌に、ポツポツシミが浮いてた。いつも被ってた大きい帽子がトレードマークだったよ。
売れてる画家ってわけじゃなかったみたい。教会の炊き出しの時によく来てたし。
芸術とか、私にはよくわかんないけど、綺麗な絵だったのに。
朝の海、夜の海、波の高い海、べた凪の真っ平らな海。晴れの海、雨の海、雪の海、嵐の海。おじいさんが描いた絵で、私は海に表情があるって知ったの。
その絵には、いつも決まって綺麗な女の人が描いてあった。
すらっとした、髪の長い人。日光に当たったことなんてないんじゃないかってくらい肌が白くて、浮世離れした雰囲気だったな。
ずっと不思議だったの。そんな人、街にはいなかったから。知り合いって感じじゃなさそうだったし、誰かにモデルを頼んだわけでもない。
おじいさんは海と、その女の人の絵を何枚も何枚も描くの。
絵の中の女の人は、いつも楽しそうだったな。
晴れた日には砂浜に足跡をつけて、雨が降れば木陰で雨粒が海面を叩く音を聞くの。朝日の眩しさに目を細めて、夜には海に映る星を数えてた。
多分、おじいさんと同年代だと思う。昔の絵の中の女の人は若かったけど、最近のやつほど年をとってる。一番新しいやつは、すっかり白髪になってた。
あのおじいさん。絵にしか興味ない、って感じのちょっと浮いてる人だったから、来た時はちょっと意外だったな。懺悔するような悩み、この人にもあるんだ、って思った。
「そのう、恋の話なんだが。笑ってくれて構わんから、わしが死ぬ前に聞いてくれんか」
正直めちゃめちゃテンション上がった。
いや、ほんとはダメなんだけどね? 懺悔の内容を娯楽にするとか、よくないと思うよ私だって。
でもさー、ちょっとすごいなーって思ってた人のそういう生々しい話、興味わくに決まってるでしょ?
「笑うはずなどありません。全てを告白してください。神もそれを望んでおられる」
ついでに私も望んでた。
おじいさんは、軽く咳払いしてから、ゆっくりと話を始めた。
わしはな、大昔に一度だけ、船で海に出たんじゃ。
まだ子供の頃だった。なんでだったかのう。確か、両親に連れられて乗ったような気はするんじゃが……。
まあ、ええわい。
その時以来、わしは海の虜になってしまった。延々と海の絵ばかり描いておる。
海はいい。毎日眺めていても飽きはせん。あと五十年寿命があるなら、わしはあと五十年海を眺めて暮らすに違いない。
当時から、わしは絵が好きじゃった。
知っとるか? 水は絵に描くのがものすごく難しいんじゃよ。
止まることなく動き続ける流動体である上に、光の反射も不規則で捉えづらい。動くモデルは画家泣かせだけども、まさか水に「動くな」と注文をつけることもできん。
流れる水をスケッチできる者は、本当に絵が上手い者のみ。まあ、手前味噌な自慢と思ってくれて構わんよ。
子供のわしは、船の上から海面をスケッチしようとしていた。
動いている船の上で、絶え間なくたゆたう海面を紙の上に映し出そうと言うのだから、今思えばそんな無理難題によく手を出したものよのう。初心者は壁の高さがわからんのじゃ。
もっとよく見よう、と身を乗り出して、わしは海に落ちた。
母親の悲鳴がかすかに聞こえた気がしたが、船には戻れんかった。
みるみるうちに服が重くなり、スケッチブックとデッサン用の炭とパンが波にさらわれてどこかへ行ってしまう。
息ができなくなって、気が遠くなる。
なるほど、これが水の重さか。これほど重たいのであれば、もっと強い色を使うのもありだな、と思ったのを最後に、わしは意識を失った。
気を失っている間に、潮がわしを運んだのだろう。
目を覚ますと、古い街のようなところにいた。
土壁の街並みはいつからそこにあるのか、色あせてボロボロになっておった。
どこかの島に流れ着いたのかと最初は思ったが、どうもおかしい。
街には誰もおらなんだ。
それに、空は真っ暗なのに、わしは不自由なく街の様子を見て、つまづくことなく歩くことができた。
月でも出ているのだろうかと見上げても、それらしいものは見えない。
代わりに、高い塔が見えた。そのてっぺんから光が漏れていて、目が見えるのはあれのおかげだとわかった。
コツン、と小さな足音が聞こえた気がした。
振り返れば、当時のわしと同じくらいの年頃の女の子がこっちを見ておる。
綺麗な黒髪の、小柄な子じゃったなあ。ぱっちり開いた大きな瞳が海のような深い藍色で、「好きな色だな」って思ったのをよう覚えとる。
「ここはどこ?」
わしは聞いた。
「デビー・ジョーンズ・ロッカーよ」
女の子は、冷めた笑みを浮かべて、そう答えた。
わしは震え上がったよ。
怒った母親が「悪い子はデビー・ジョーンズ・ロッカーに送ってしまいますよ!」などと脅しに使うような場所に、うっかり来てしまったのじゃから。