歩道橋の招き手 その2
その場でナツコは歩道橋の上で見た影のことを話した。それを聞いたさなえは快活に言った。
「そりゃあ『歪み』だね。しかもウワサをまとってる。かなり強力なやつだな」
「なんなのそのゆがみってのは?」
「暴食者かな。何でも喰うんだ。そしてそれを自分のものにする。そういう存在だよ」
「へんなの」
「まあね。さっき見たように食べることには見境がないからさっさと駆除しないといけない。たぶんナツコさんの話を聞く限りだとそいつはそのうち人間も喰うかもな」
「じゃあ来てくれるの?」
「うん。その歩道橋まで連れて行ってくれると嬉しいね」
こうして二人は件の歩道橋まで向かうことになった。
日は暮れていた。紅い地平線が夜空を滲ませて、アスファルトに二つの影を映している。車がその影を踏んでいく。制服を着た少女たちは横断歩道で信号待ちをしていた。
「あそこの歩道橋だよ」
「ふーん。ぱっと見なんもないね」
「そうなん?」
「ああ。ニオイっていうのかな。そういうのがあるんだけど。まあいいさ。とにかく行ってみよう」
「においねえ。なんかワンちゃんみたい」
それから二人は歩道橋の脇に立った。ナツコは階段に足をかける。さなえは周囲を見てから言った。
「気配がない。どうやら条件があるみたいだね。ウワサによるとそれは受験生を恨む怨霊なんだろ。となるとそういう条件に合う人物を連れてこないといけないんだろうな」
「じゃあ私たちが今行ってもなんもないってこと?」
「たぶんね。だって無差別に誰も彼も橋から落としていたわけじゃないんだろ。条件があるんだ。条件が。おもしろい。こんなやつあったことがないな」とさなえは考え込むように呟いた。
「どうすんのよ。そのゆがみってのを野放しにしちゃうわけ?」
「ん。そうだねえ。とりあえず予備校に行ってみないかい? こういう場合はウワサを詳しく聞く必要があるんだ、きっと」
「いいけどさ、誰に聞けばいいんだろ」
「最初に話してくれた人に聞くといい。まだこのウワサには続きがあるはずだよ」
「つづき?」
「うん。いやいいね。おもしろくなってきた。こっちだろその予備校って。行こう行こう」とさなえはナツコを置いてさっさと歩き始める。ナツコは首をかしげながらもその後ろを付いていくのだった。
ナツコは予備校一階のロビーでだらけている瓜生ヤスエを捕獲した。その首根っこを掴み尋問を開始する。
「やっすう、あのウワサつづきあるんでしょ?」
「え、え、え、なんよ、いきなり。ウチは何も知らんとよ?」
「あの歩道橋の怨霊のウワサだよ」
「え、ああ、あれね。北山先輩がまさかウワサ信じてたなんてさ、思いもしなかっただわさ」
「え、あの人と知り合いだったの?」
「知り合いもなんも同じ高校の先輩」
「へえ。で、どういうことなの? ウワサを信じるとか信じないとか」
「あれ、話してなかったっけ」
「うん。怨霊が出るってとこまでしか聞いてない」
「ありゃま。うんじゃ続きを話すと、どうやら出会った怨霊から逃れられると志望校に受かるとか何とか。そういうジンクスが連綿とこの予備校で続いてたみたいだね。でよく聞くと実際は怨霊とかじゃなくて、あの歩道橋の欄干の上を歩き切れたらって話みたいなんだわさ。北山先輩はそれを信じちゃって落ちちゃったんじゃないかって。なむむ」
「欄干ってあの手すりの上を歩くってこと?」
「なむ。何かにすがりたくなる気持ちは分かるわさ。実際それをやって受かってる人たちもいままで居たみたいだし」とヤスエは神妙な顔で頷く。
「えーと、そうなのね。ありがと」とナツコは呆然とした面持ちで予備校から出ていく。ヤスエはその背中を不思議そうな顔で見送った。
「なるほど。で、実際は欄干の上を歩いてたのかい?」
「ううん。ちゃんと橋の上を歩いてた」
「そうか。幻覚を見せられてたのかもな」
「どういう意味?」
「行ってみれば分かるかもしれない。たぶん私たちはもう条件を満たしてるからね」
そう言ってさなえは歩道橋の方へと歩き出した。
「その条件ってなんなのさ」
「たぶんだけど、ウワサを全部聞くことだね。そしてそのウワサをやってみようと思うこと」
「じゃあ欄干歩くの?」
「うん。とりあえず歩く気持ちであの歩道橋を上ってみよう」
「怖いんだけど」
「大丈夫、私がついてるからさ」と言ってさなえはナツコの肩を叩いた。
二人は歩道橋にたどりつく。ほかに人通りはない。日は完全に沈んだ。虫と風の声が響いていた。かたんと階段を鳴らしてさなえはのぼりはじめる。ナツコは不安そうにしながらもその後ろを付いていった。
ナツコの記憶はそこで途絶えた。
気がついたら欄干の上に立っていた。平均台よりは少し太い幅だった。風も音もなかった。だが自分が揺れているのは分かっていた。鼓動だ。ナツコの心臓がその身を震わせるほど跳ねていた。息をいくどか深く吸う。ナツコは歩き出した。この状況を抜け出すにはここを渡りきるしかない。
下を覗くなと言い聞かせながらナツコは前を見据えたまま歩いた。端までは二車線分ある。横断歩道と同じだ。なんてことない。いつもなら一分以内に渡りきれる。ナツコは両腕を広げてバランスをとりながら慎重に歩を進めていく。
中間地点に至ったときそれは突然現れた。
その二人は浮いていた。見知った顔。だがもう見ることはない顔。ナツコはそんな顔を見て息をとめた。どうして逝ってしまった両親がここにいるんだろう。
「お父さん、お母さん?」
二人はふっと笑い、欄干の外へと移動した。ナツコは思わず手を伸ばした。浮いた足元には暗い奈落が口を開いていた。
さなえが気がついた時にはナツコはすでに橋の上に居た。中ほどに渦巻く『歪み』から伸びる青白い手に捕まろうとしているところだった。
「ああ言っておいてこれじゃあ情けないね」
そう言って、さなえは自身の歪曲を展開する。それは『対象との距離を歪ませる』というものだ。
はじめにさなえはナツコとの距離を歪ませた。一瞬でナツコのそばへと移動する。すばやくナツコを抱き寄せつつ、黒い渦との距離を拡大させる。途端にそれは浮かび上がり歩道橋を包み込むように広がった。
「固有結界まではれるのか」とさなえは呟く。
気を失っているナツコを抱えながら橋のたもとへと移動し、頭上に渦巻く『歪み』を観察する。その様態は出現したばかりの『歪み』に近い。だがここまでの固有能力はないはずだ。本体は別にある。おそらく人型にまで到達しているようなやつだ。
さなえは階段をのぼる足音を聞いた。それはゆっくりとした足並みだった。対岸のたもとに一人の男が現れた。黒のスーツで身を包んでいる。さなえは舌打ちをした。『歪み』が服を着ている。それはつまり服を着た人間をすでに捕食しているということだった。
『歪み』は人の姿に近づけば近づくほどより強力な能力を持つ。そしてその思考もより人間らしくなる。カタチは人でも言葉を解さない『歪み』はまだ気軽に倒せるレベルだ。しかし人語を話し、より人間じみた振る舞いをする『歪み』は相当の覚悟と準備をしなければ倒せない。今はなき『学園』に居たころ、さなえはそう教わっていた。
さなえと対峙する『歪み』は口を開いた。
「その表情、貴様はこの服を知っているな?」
言語を使用する。そして推論も出来る。十分だ。この『歪み』は『学園』でいうところの幹部級、もしかすればその上の本部幹部級に達している。
質問に答えずにさなえは自分とナツコの周囲に歪曲による膜をはった。その膜は何かが触れれば自動的に歪曲を用いて跳ね返すことができる。高度な防衛機構だがその分体力の消費量が激しかった。
男は目を細める。
「貴様のその油断の無さ、警戒心、そして淀みの無いカゲの流れ。すべてが貴様はこの服を着ていたモノの仲間だと物語っている。なるほど。そうであれば貴様は我輩に食べられる資格を持つようだ。最近はくだらぬ味しか持たぬ人間が多いのに辟易していたところであった」
その時さなえの背後で何かがはじけた。膜が反応したのだ。さなえは立ち上がる。
「いきなりだね」
「貴様は奇妙な能力を使う。いまのを弾かれたのは初めてのことだ。我輩は非常に遺憾である。数多の求める手、這いよる手よ、不届き者を捕らえろ」
無数の青白い腕がさなえたちの周囲を埋め尽くした。とどまることなく一度に掴みかかってくる。
さなえは膜に触れたそのすべてとの距離を拡大した。そして『歪み』と自分の距離を一気に縮小する。男のカタチをした『歪み』の二ヶ所にすばやく触れ、その距離を広げた。『歪み』は一瞬で膨張し弾ける。
さなえは上を見ると、まだ『歪み』は渦巻いていた。結界も解かれた様子はない。いぶかしんでいると左のほうから拳が飛んでくる。さなえはそれを振り払い、ナツコの元へと戻った。
さなえが居た場所に黒いモヤが集まり、そして人のカタチを成した。無傷の男は膝に手をつくさなえを睥睨する。
「貴様の能力は対象に触れなければならない。そしてその様子だと貴様をまもるそのカゲも長くは持たぬのだろう。なれば幾千もの腕を用いて貴様をなぶり削るのみ。そして貴様の生身の、剥き出しの体を捕まえ、喰らってやろう」
そうして男の周囲に先ほどよりも多くの腕が出現した。
さなえはそれを見てため息をつきながらも、襲いかかってくる腕を迎撃していく。
そう。戦いはまだ始まったばかりだ。