歩道橋の招き手 その1
春野ナツコがそのウワサを聞いたのは予備校の帰りのことだった。自習室を出ると瓜生ヤスエに声をかけられた。
「やっ、勤勉勤勉!」
「おっ、やっすう! どうしたん?」
「どうもこうもウチも勉強してたのよ。なっつんはもう帰り?」
「うん。課題終わったし。お腹も減った!」
「じゃあコンビニ寄ってこ。肉まんはむろうぜ」
「はむるはむる!」
二人はそう言い合い、予備校を出て最寄のコンビニに向かった。肉まんを買い、店先にあるベンチに座って頬張っているとヤスエが思い出したようにそのウワサを語りだした。
「あの歩道橋、おばけ出るんだって」と目の前の交差点にかかる歩道橋をヤスエは指差す。
「ほええ」
「やんけ歩道橋なんて小学校以来渡ったことないわさ」
「わたしも。よっぽどじゃないと渡らん」
「なむ。一説のよるとそのおばけってのはうちの予備校生なんじゃないかっていう。どうも受験失敗した人があそこから飛んじゃったらしいのね」
「げええ。笑えない」
「なむむ。まだ高二と言えど明日はわが身」
「はあ。さっさと逝っちゃってほしいね」
「なむなむ。肉まんでもお供えしとけば成仏するかもしらん」とヤスエは肉まんの包装を丸めてゴミ箱に捨てる。
「今日はもう食べちゃったなあ」
「じゃあ帰ろう。まっくらだ」
それから一週間後のことである。
五月の下旬。その日も予備校を終えたナツコは家路を歩いていた。ときおりぬるい風が吹いてナツコの生白い腕を撫でていく。空には三日月が輝いている。ふとあのウワサの歩道橋が目に付いた。誰かがのぼっている。
ナツコは立ち止まりその姿を見つめた。見知らぬ制服を着た女子学生だ。同じ予備校生かもしれない。その女は歩道橋の階段を登りきり、橋を渡り始めていた。その中ほどにはなにか影のようなのものが渦巻いている。ナツコはそれを見てひどく不快な心地になった。根源的な嫌悪だった。
その影から青白い手がぬっと出てきた。橋を渡っていた少女はその手を避けるようにして欄干へとよった。だが手は長く伸び、少女の腕を掴む。それを見たナツコは歩道橋へと駆け出していた。
短い悲鳴がした。それから土のうを地面に放ったような音。
ナツコは慌てて道路を見る。先ほどまで橋にいた少女がアスファルトの上に横たわっていた。目の前の信号で止まっていた車から男が慌てた様子で出てくる。ナツコは構わず歩道橋をのぼった。息を上がらせながら橋の上に立つ。先ほどまであった黒い影は消えていた。
ナツコは呆然とする。サイレンが遠くのほうで鳴っていた。
18歳の少女が歩道橋の上から飛び降りたという事件は瞬く間に街中へと広まった。各社新聞の地方版に記事が載ったのだ。どうやら少女は受験ノイローゼをこじらせたらしい。楽になるから飛び降りよう。そういう理由で少女は歩道橋から飛び降りた。少女の意識は戻っていないが人々はそうやって納得した。
ナツコはまったくもって納得していない。学校の昼食時にショートウェーブの髪を揺らしてクラスメイトの瀬田カナにその旨を伝える。
「だからね、あの人は飛び降りたんじゃなくて落とされたんだっちゅうねん。わたし見たもん。なんか変なキモチワルイ影から手がぐにゅーんって伸びてさ、あの子の手を掴んだの」
「オカルト」とカナはドーナッツをかじりながら答える。
「そう言っちゃそうだけど。とにかくあれはね、ウワサのゆーれいなんだと思う。怨霊ってやつ。上手くいきそうな受験生を妬んで落としに行ってるわけ。物理的に」
「幽霊が物理的にやるとは面白い」
「しゃれにならん! マジで! どげんかせんといかん!」
「その子は新聞が言うように参っちゃってたんでしょ。フラフラして落ちたとかそういう感じじゃない」
「わたししっかり見ましたもん! なまっちろい気持ち悪い手が伸びてたよ!」とナツコは机をぱんぱん叩きながら抗弁する。
「影、ねえ」
「ねえ、ほんとどうしよう。もしかもっと被害者増えちゃうかも」
「オカルトじみたことはどうでもいいとして、ああいう事件が起きたわけだから当分はあの歩道橋に近づく人はいないはずだ」
「あ、たしかに」
「だからナツコもほっとけばいい。時間が解決する」
カナはそう言ってストローを使いコーヒー牛乳を飲んだ。しかしナツコは納得しない面持ちで空になった自分の弁当箱を見つめていた。
その日の放課後、図書委員の仕事でナツコは図書室の受付をやっていた。ナツコの通う高校の図書室はその蔵書数と凝った内装で有名だった。図書室だけで特別教室棟の2フロア分を占有している。その分自習スペースも多く、放課後になると多くの生徒がやってきた。
ナツコはそんな放課後の図書室で過ごすぼんやりとした時間が好きだった。貸し出しカウンターで暇そうにしていると同じく暇そうな司書さんから蔵書点検の任務を渡されることもあった。
プリントされた目録を眺めながら室内をうろうろして、誰も借りたことがないだろう本たちの所在を確認する。ときおり指定の位置になかったりするので直したりする。そんなふうにやってると時間はすぐに過ぎていった。
閉室時刻が迫ると自習している生徒たちを追い出す仕事が始まる。イヤホンしてる生徒には机を叩いてそれとなく知らせた。フロアの片隅で乳繰り合ってるカップルには大きな足音で近づいて威圧する。居眠りしている人にはその肩を軽く叩く。ときおり痙攣するように起きる生徒が居て面白かった。
その日も追い出しのためにナツコは室内を歩き回っていた。一階を無人にしてから吹き抜けの階段をのんびりと上っていく。
二階は人文系の書物や各種全集系で埋っている。自習スペースはない。おかげかわざわざ上まで行く生徒は少なかった。ときおりカップルたちの密会場になっているだけだ。
壁に沿ってぐるりと巡回していく。タワーシェルフに並んでいる古い全集のにおいが郷愁を誘った。角に至り、方向を変えると一人の少女が座っているのが見えた。そこは三人掛けの黒革ソファが置かれているところで、よく恋人たちが愛をささやいている場所でもあった。
少女は分厚い本を読んでいる。脇には何冊も同じような規格の本が積まれていた。そっと近づいて少女の横顔を観察する。鼻筋がすっきりしていて、無意識なのか口がわずかに開いていた。全体的に肌の色素が薄い。しかし病的というわけでもない。細い指がページをめくった。額にかかる黒髪がわずかにゆれた。ナツコはその横顔をじっと見つめる。視線を感じたのか少女は顔を上げた。
「ん?」
「え、あ、もう閉室時間だよ」
「そうか。気がつかなかった」と少女は笑って本を閉じた。
「それ、全部借りるの?」とナツコは積まれた本を指差す。
「いいや。調べてただけ。借りない」
「じゃあ元の場所に戻さないと。手伝うよ」
「それは嬉しいけど自分でやるよ。自分で取ってきたものだし」
少女はそう言って積んだ本を両手で抱えて立ち上がった。しっかりとした足取りで本の森へと入っていく。その背中を見送りながらナツコは言い知れぬ懐かしさを覚えた。初対面のはずだった。少なくともナツコはそう記憶していた。だがそれでも懐かしく、もどかしい。
そうこう考え込んでいるナツコの耳に落下音が届いた。去っていった少女の行き先からだった。ナツコは早足でそこに向かった。
少女の足元には本が広がっていた。それらは開かれており、そして開かれたページからは黒いモヤが立ち上っている。よく見るとそのモヤは細やかな文字で構成されていた。
「ああここにいたのか」と少女は呟く。
「なんなのそれ」
驚いたように少女はナツコを見た。
「見られるんだ」
「見られるも何も、とにかくどうなってるん?」
少女はナツコのその不安そうな表情を見て微笑んだ。
「これは本の虫だね。ほらよく見ててごらん。だんだんムカデみたいになるから」
確かに見ているとそのモヤは一筋にまとまっている。触覚、甲殻、そして無数の足。カタチを成したそれは本棚へと飛び移りへばりついた。
「コイツは文字を喰う。そのつらなりが上質な物語であるほどより強力に、そして強靭な存在となれるんだ。ほっとけばこの図書室のすべての文字を食い荒らすかもしれない」
「え、やだ」
「だろ? だから私が探していたわけだ」
少女はそう言って右手をその虫に向ける。
「こいつはまだまだ初歩的な『歪み』だからこっちの歪曲を打ち込むだけで霧散する。まあキミにはなんのこっちゃって感じだろうけど」
少女は右手を握った。黒いムカデは押し潰れるように霧消していった。再びモヤとなったそれは本の開いたページへと戻っていく。少女は落ちていた本を拾い集め、ぱらぱらとめくっていく。ナツコはそんな少女の元へ近づいた。
「もとにもどったの?」
「ん? ああ。たぶん大丈夫かな。元凶は取り除いたわけだから」と少女は言って本を棚に戻していく。
「ねえ、その、いまのどういうことなん?」
「どういうことなんだろう。私にもよく分かってないよ。けど、キミが気にすることではないのは確かだ。今日見たことは忘れてもいいし忘れなくてもいい。なんかあったなって思うだけでいいんだ」
少女はそう言ってナツコに笑いかける。ナツコはその労わるような笑みを見て胸の奥が締め付けられるような心地になった。
「ねえ、私あなたに会ったことある?」
「え? どうかな。ないと思うけど」
「私、春野ナツコ。あなたは?」
「ああ。まだ名前言ってなかったね。私は前島さなえっていうんだ。以後よろしく」
前島はそう言って右手をナツコにさしだす。ナツコはいちどその手を不思議そうに見てから握った。