狂気の芝居
西江の妹が妄想に取り憑かれてから、もう一年以上になる。
原因は、恋人の裏切りである。恋人の目的は、はなから彼女の懐にあり、金を騙し取ると、忽然と姿を消したのだ。
彼女が恋人に寄せていた信頼が大きかっただけに、その絶望もまた大きかった。
彼に囁いた愛も、彼にだけ語った秘密も、すべて、彼の金銭欲の成就に向かう道路の傍らに聳える廃墟に過ぎなかったのだ。
その事実を受け容れるのに、彼女の精神の器は小さすぎたのだ。
彼女の狂気は、彼からの電子メールを待ってコンピュータの前に座り続けることから始まった。恋人が、全ては冗談であり、実は今でも愛しているのだ、と言ってくれることを信じ、待ち続けたのだ。
だが、いかに待っても、ついにそんなメールは来なかった。友人から来る慰めのメールは、読まずに削除するのが習慣となり、彼女は次第に孤立していった。
いよいよ、彼からメールが来ることが期待すべからぬものになると、彼女の精神は、自滅を防ぐべくして、彼から来たメールを「捏造」し始めたのだ。
西江は、そのときの自分の気持ちを忘れることができない。
妹が狂喜乱舞し、
「正彦からメールが来たわ!今、ルクセンブルクで仕立て屋の修行をしているんだって!」
と言ってきたときの、半信半疑の驚きと、一抹の希望とが混淆した感覚。そして、そのメールとやらを見せられたときの、それが衣類のダイレクト・メールに過ぎなかったことへの落胆と、妹の狂気を確信したことによる戦慄。
勿論、精神科に診せたが、改善の兆しは一向に現れなかった。
思案の末、西江は、一つの突破口を思いついた。
自分が恋人になりすまして、妹のメールの相手をするのだ。そして、徐々に、穏当な破局に持ち込むのだ。
彼は、早速メールを書いた。
『正彦です。メール・アドレスが変わったので、宜しく!』
と。
西江は、妹の欣喜を期待した。
しかし、意外にも、妹の態度は、ありもしないメールが来たときの狂喜に比して、普段とあまり変わらなかった。
メールを送ってから半日ほど経って、漸くよこしてきた返信も、
『わかった』
と、そっけないものであった。
西江は、よもや、あのメールが偽物だと見破られたのではあるまいかと案じ、試しに訊いた。
「今日は正彦君からのメールは来なかったの?」
「ええ、来たわ。メールアドレスが変わったって」
妹は、首尾よく、西江が送ったメールを、恋人のものと認識していたのだ。
それから何日か、西江は恋人の名でメールの応酬を重ねた。その間、妹の方から送ってくることは一度も無く、そっけない返信も、来たり来なかったりであった。
ある日、珍しく妹の方からメールが届いた。
『仕立ての修行はどう?』
西江はすぐに返信した。
『順調だよ。今日、師匠から褒められたんだ』
『変ね。昨日、仕立ての修行はやめたって言ったじゃない』
西江は焦った。妹は、西江が送ったメールのみならず、ありもしない妄想のメールをも今まで通り認識していたのだ!
彼が返信に困っていると、妹からまたメールが来た。
『気にも留めてなかったけど、そう言えば、どうして、アドレス変えたのに、古いアドレスからもメールを送ってくるの?』
西江は困り果てた。だが、『気にも留めてなかったけど』と書いてあるからには、まだ、騙し果せる希望があるのだ。西江はそう思い、懸命に言い訳を考えた。
そうするうちに、妹から更にメールが届いたのだった。
『そもそも、正彦は私を騙していたのよ。メールが来るはずないじゃない。あなた、お兄ちゃんでしょう?』
2017/06/20起筆