恋人の霊
西暦二〇〇一年、東京。
和彦の婚約者の真理が死んだ。
真理の親から報せを受けた和彦は、急いで着替え、家を出た。電車に飛び乗り、椅子に腰掛けたとき、漸く、悲しみが込み上げた。
込み上げたのは悲しみだけではなかった。そこには、悔恨の念もまた、渾然となっていたのだ。
やがて病院に到着すると、真理の父親が待っていた。
「和彦君、よく来てくれた」
そう言われたが、返す言葉が見つからなかった。父親は、そのことを察し、黙って和彦を霊安室に誘った。
霊安室には、幾体もの遺体が並んでおり、その中に、真理の遺体があった。
昨今の整形技術は進んでいると見えて、恋人の顔を巧く再現していた。とは言え、そのマネキンのように人工的な顔が、今朝の爆発事故の凄惨さを物語っていた。
その夜、和彦は悔恨の念に苛まれ、眠ることができなかった。
三日前、和彦は真理と口論になった。真理のポケットから、他の男の写真が出てきたのだ。真理は、これは友達の恋人だと言い張った。和彦は、なぜそんなものを持っているのかと問い質した。真理は、友達から借りた服のポケットに入っていたのだと言った。和彦はそれを訝しんだ。
「友達から服を借りたりするものか」
「仲の良い友達なんだから、別に不思議じゃないでしょう。あなたは、いつだって女の文化を理解しようとしないのよ」
そう言って、喧嘩別れをしてしまったのだ。それが、和彦の見た真理の最後の姿だった。
もう少しよく話し合っておくべきだった。そう思うと、涙が溢れた。
そのときだった。
「和彦」
耳元で呼ぶ声がしたので、和彦は驚いて飛び起きた。
そこには、死んだ真理の姿があったのだ。その姿を見たとき、和彦の恐怖心は、不思議にも消え去った。
「真理!」
「和彦さん、私は別れを告げに来たのよ」
「そこまで僕のことを!それなのに、僕は君を疑ってしまった」
「いいのよ。和彦、どうか幸せになってね」
そう言って、真理は和彦に口付けをしようとした。
幽霊の顔が迫っても、和彦の胸に恐怖心が湧きあがることはなかった。
「物理的な意味で」存在しない、目の前の幽霊が、それでもなお存在しているのだとすれば、それは、「和彦の認識の中に」存在するものなのだ。即ち、この幽霊は和彦の所有物と言えるのだ。そんな漠たる観念があればこそ、恐怖を感じなかったのだ。
二人の唇が交わろうとした瞬間、和彦のPHSが鳴った。彼は、その画面を一瞥した。
和彦は、幽霊を見ても驚かなかったのに、画面に表示されている名前を見て仰天した。
彼は、急いで通話ボタンを押した。
「和彦?夜遅くにごめん」
「真理!君は死んだんじゃなかったのか?」
「変なこと言わないでよ」
「昨夜の爆発事故に巻き込まれたんじゃなかったのか」
「え?まさか、私の友達が巻き込まれたの?服を貸していたから、ひょっとして・・・」
それを聞いて、和彦の心中で、全てが繋がった。
「兎に角、お父さんに電話して上げるんだ。お父さんも、君を死んだと思っていらっしゃるから」
そう言って、彼は電話を切った。
さて、それでは、この幽霊は何なのだ?
和彦と幽霊は、しばし見詰め合い、気まずい空気を共有せねばならなかった。
真理の幽霊は、徐に口を開き、
「私、もう行くね」
と、さも気まずそうに言うと、消えてしまった。
だが、本当に気まずい思いをする羽目になったのは、後に残された和彦の方だった。
「あれは、僕の認識の産物だったのか。ああ、恥ずかしや!」
2017/03/25起筆