細胞の塊になりはてた女
「私の病気、うつるかも知れないわよ」
大学の同窓生である加奈子の家に見舞いに行くと、彼女は布団の中からそう言った。
細胞学者である加奈子は、奇病に罹っていた。彼女によると、それは、「細胞の塊になる病」なのだそうだ。
「私の姿は、松やん(共通の友達)から聞いてると思うけど、実際に見て驚かないでよ」
そう言って、彼女は布団をはねのけた。
私は、想像を絶する彼女の姿に驚いた。
加奈子は、ことの顛末を語った。
発端は、半年ほど前。彼女は、自分の手の甲の一箇所だけが、皺がなく、産毛もなく、つるんとしていることに気づいた。最初は気にも留めなかったが、その箇所と他の箇所との違いが、見る見る鮮明になっていったのだ。
あるとき加奈子は、更に恐ろしいことに気づいた。その一箇所に気を取られている間に、体の他の部位にも、列島のように、そのような箇所が点々と現れ始めたのだ。
加奈子はことの重大さに気づき、これをつぶさに観察した。その結果、これが、なんと巨大な細胞だとわかったのだ。
通常、目に見えないほど小さい細胞が密集して、ひと連なりの組織を成す。しかし、この箇所に関しては、一つの細胞から成っていたのである。
加奈子は、最初、癌を疑った。だが、癌検査の結果は陰性だった。念のため、自分でも検査を行ったが、この巨大な細胞は癌細胞ではなく、普通の細胞となんら変わらなかった。ただ、目視できるほどに巨大なのだ。
一つの細胞が巨大化して周りの組織を侵食したのか、はたまた、多くの細胞が融合して、一つの細胞になったのか。
とにかく、この現象は瞬く間に全身に広がり、今では、彼女は、巨大な細胞が人型に固まった土人形のようになってしまったのである。
加奈子は涙ながらに言った。
「それでも、私、意識があるのよ。こんな細胞の寄せ集めになっても、私は私なの。信じて!」
僕は、彼女の肩を叩いた。
「信じるとも。あたりまえじゃないか。君の姿を見たとき、僕はすべてを悟った。松やんが、内科医ではなく、精神科医である僕を呼んだのは、正しい判断だった」
「え?」
「僕は、君の体が変わり果ててたから驚いたんじゃない。何も変わっていなかったから驚いたんだ。君の病気は、『細胞の塊になる』病気じゃない。『細胞ひとつひとつに意識を集中してしまう』やまいなんだ」
・・・。
加奈子は僕の病院に入院し、心理療法を受け、順調に快方に向かっている。
その一方で、僕の中には、今までになかったひとつの考えが芽生えはじめていた。
加奈子の場合は、病気のために細胞に意識が向けられていたのだが、実際、人間は、一定のサイズをもつ細胞の凝り固まった土人形に過ぎないではないか。そして、その細胞のどこにも、この、今あれこれ考えている「思考者」たる僕自身はやどっていないのだ。つまり、「僕」とは、細胞どうしの「関わり合い方」に過ぎないということになる。言ってしまえば、僕は、「もの」ではなく、「こと」なのだ。「もの」としての僕など、どこにもいないのだ。こんなにもはっきりと、僕が僕であるという自覚があるというのに・・・。
加奈子は誤った認識に取り憑かれていたわけだが、あの日、ひとつだけ、僕に正しいことを言ったのだった。
『私の病気、うつるかも知れないわよ』
果たして、彼女の病は僕にうつったわけである。
2018/06/28起筆