時間の流れる速度
二〇世紀最後の秋のこと。
若い大学教員の戸田雄一郎は、香川県某所の野中の一軒家で、見るべき月も雲に蔽われて見えず、聞くべき虫の音も雨音に紛れて聞こえぬ無聊を託って、読書に耽っていた。
さっきからドアを叩くのも、来訪者ではなく篠突く雨だろう。更けた嵐の夜にしあれば。
かと思えば、
「雄一郎!雄一郎!」
と呼び声があった。
雨は呼ぶまじ、人こそ呼ばめ。
「どなたです」
「私よ。和美よ。助けて!」
それは、かつて恋人であった物理学者の女性だった。
無視するわけにもいかず、雄一郎は和美を招き入れた。
タオルにくるまり、盥に張られた湯で足を温めながら、和美は徐に語った。
「私が学界から追放された切っ掛け、覚えてる?」
「ああ、宇宙の時間の流れる速度が変わりょおる(変わってきつつある)って説だろう」
「ええ。私のあの説が、あるカルト教団の目に留まったのよ。彼らの教義を否定する恐れのある理論やって、私は命を狙われる身になってしもうて・・・」
「君はまだあんな、証拠もない説を唱えよるんか」
「証拠がない?・・・まあ、それはそうかもしれんわね。でも、この宇宙の時間の進み方は、着実に遅くなってきよる。誰もそれに気づいとらんだけよ。
例えば、あの時計を見て。一分経ったら、秒針は三六〇度回るでしょう。でも、宇宙全体の時間が遅くなって、本来の『一分』が流れるのに、二分かかるようになったら?時計の秒針も例外じゃなく、ゆっくり動くきん、本真は二分経っとるのに、秒針は一周しか回らんことになるでしょう。
同じことが、人間の感覚にも言えるのよ。神経伝達速度も遅くなって、『一分』流れたと感じるのに二分かかるようになれば、誰も気づかんわけよ」
我を忘れて語っていた和美の前にコーヒーを差し出された。そして、テーブルを挟んで反対側の椅子には、かつての恋人が座ったのだった。
口にふくんだコーヒーから、熱さが、『通常の』速度で伝わった。
この狂った説にいかに反駁しようか悩んでいよう雄一郎に、和美は一種の優しさをもって答えた。
「勿論、証拠がないことぐらい、解ってる。でも、否定はできんでしょう」
「『否定できんものは誤りではない』。これはその通りや。でも・・・」
そのとき、窓ガラスが割れ、白い仮面と黄色いローブを着た一団が侵入した。
「神の定めたもうた物理法則の絶対性を揺るがすこの魔女に、天誅を与える」
雄一郎は和美を庇った。
「よさんか!時間に速度があるという考え自体、間違いよるんや!」
「貴様、神が速度を作られなんだっ言うんか!」
「違うわ。良う考えてんまいや。彼女の理屈に従うなら、時間が本来より速く流れよったとしてもおかしゅうなかろう?」
その一言が、凶徒を却って震撼させた。
「なんと!そなに恐ろしい理論やったんか!」
雄一郎は心底呆れ返り、溜め息まじりに
「和美。ほんで君ら。一言言わせてくれ」
と前置きしてから、続けて高らかに言い放ったのだった。
「君ら、アホだろ」
2019/12/07起筆




