なぜ私はあなたなのか
摂津国の若い侍・中川郷蔵実光は、武芸練達の藩士として、その名声を赫々とあらしめていた。
いま、彼は果たし状を握りしめ、蝉時雨の姦しい、山中の荒れ寺に至った。待ち受けていたのは、齢五十にしてますます矍鑠たる剣豪、安西家太郎兼頼であった。
中川は、以前、藩の命により、安西の息子を斬った。安西はそのことを恨みに、中川に決闘を申し込んだのだ。
「安西殿。あれは上意討ちでござった。そのことを恨まれれば、お上をお恨み申すことになりまするぞ。さすれば、たとえ拙者を討ち得たとて、貴殿にも咎が及ばずには済みますまい」
「お上とて、御天道様の下に位置するるものでござろう。せがれは潔白でござった。お上の不正を剔抉せんとしたために、詮議もそこそこに、せがれを討てと其許に命ぜられた。それに従うた其許も、如何にも卑怯千万なれば、天の正義に則って、ここに誅伐仕り、倅の無念を晴らし申す」
そう言って、安西は刀を抜いた。
「刀を収められよ。命を奪い合うは不毛でござる。貴殿の令息も、草葉の陰で、貴殿の幸せを第一番目に考えておられましょうぞ」
息子のことを言われ、安西の決意は、一瞬ゆらいだ。しかし、すぐにまた、中川への憎悪が、開かれた傷口より出でる血液のごとくに、胸の奥から湧出した。
「其許、子息はおられるか」
「いや、まだござりませんが」
「ならば尚のこと分かりますまい。子を斬られた親の気持ちは。たとえ、其許に子息がおられたとて、それは同じこと。なぜなら、其許はそれがしではござらぬ故」
かく叫び、安西は一気に間を詰めた。中川の腰より白刃が滑り出、安西の刀を食い止めた。
ふたりは刀を噛み合わせたまま、境内をくるくるめぐった。そして、安西が隙きを突いて中川の刀を押上げ、二振りの刀は一瞬離れた。二人は頭上に降ってくる相手の刃を避け、同時に飛び退った。
そのとき、中川の顔を木漏れ日が直撃した。そのまばゆさに、中川は、一刹那正体を失くした。
自分が何者なのかが忘却された瞬間であった。
中川が光に目を眩ませた隙きを逃さず、一気に斬りかかってきた安西の刃を、中川はほとんど反射的に防いだ。悔しげな安西の顔を、中川は間近に見た。中川には、不思議に、安西の心情が手に取るように分かった。
そのとき、中川は気付いたのだ。
「其許はそれがしではござらぬ」
と安西は言ったが、そうは言い切れないのだと。自分は、たまたま中川なのであって、安西で有りえなかった所以などはないのだ。
中川は、俄に得た悟りの力にてや、安西を押しに押し、ついに境内の端まで押し出すと、安西の刀を払い飛ばし、同時に峰を返して、安西の肩を打った。宙を舞った安西の刀は、地に刺さってキンと鳴いた。
痛みにうずくまる安西に、中川は言った。
「拙者は貴殿でござる」
「おのれ、愚弄するか」
「聞かれよ。拙者は、前世において貴殿でござった。刀を交えた拍子に、かつて貴殿であったころの記憶が、吹き出でて参った」
「かたぶくか」
「その証拠に、拙者は俄に貴殿の太刀筋を見切ったでござろう。拙者は、間違いなく貴殿の生まれ変わりなのでござる。貴殿は、将来の自分自身を斬ろうとなさったのじゃ」
安西は弱々しく立ち上がり、慄然として中川の顔を見た。
「それがしが昔飼うておった犬の名は」
「シロでござる」
「それがしの母が今際に申したことは」
「『火の用心』でござった。火の元にうるそうあられた母上らしい遺言でござったな」
そう言って微笑した中川に対する親近感を、安西は禁じえなかった。
しかし、安西はいまだ釈然としなかった。
「其許がそれがしの来世であることは信じましょう。しかれども、やはり其許はそれがしではござらん」
「なにゆえでござる」
「其許は、『将来の』それがしであって、この『今の』それがしではござらん故じゃ。将来のそれがしが、今のそれがしの気持ちを、自分自身のこととして知ることはできまい。
それがしは其許ではござらん。情けは無用故、尋常に立ち会われよ」
「いや、貴殿から既に殺意が失せておることを、拙者はよく記憶してござる。貴殿が拙者にまみえることは、二度とござらなんだ」
「それがそれがしの運命と申すか。なれば、いつの日か運命を変え、それがしが其許ではござらんと証明してご覧に入れましょうぞ。この時間逆行の神秘を解き明かしたときこそ、またお会いし、論破の上、必ずや倅の仇を討ちましょう。先ず、それまでは、さらばでござる」
こうして安西は去っていった。
文政五年の、ある暑い日のことであった。
2017/12/25起筆