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思考実験劇場  作者: 坂本小見山
善悪の国境線上で
13/32

トロッコ問題への答え

 明治七年夏、蝦夷島(えぞがしま)の警察の取調室。


「すだら、なして猟銃なんぞ持ってただ?

(それなら、なぜ猟銃など持っていたのだ?)」

 そう警官に質されて、里見は答えた。

(わだす)(すと)ば殺さねばなんねぐなったら、けづで()ぬべ、って(おめ)え定めでたんす

(私、人を殺さねばならなくなったら、こいつで死のう、と思い定めていたのです)」


 それは、まことに里見の本心であった。彼は、この杜撰な即席の鉄道の建設に従事してからというもの、職務上、大勢の人命を優先するために、少数の人命を犠牲にせねばならぬ状況に遭うことを覚悟していた。


 そしてその状況は、来るべくして来た。

 彼の乗っていた建設用のトロッコが暴走し、停車できなくなったのだ。

 トロッコの進行方向の線路は二股に分かれており、分かれた二本の線路はその先で合流し、ちょうど輪の形になっていた。そして、その途中に大きな石材があったので、それにぶつければ、トロッコを止めることができるのだ。


 だが、左右どちらの線路にも、作業員がいたのだ。そして、線路すれすれの高い壁に遮られ、彼らに逃げ場はなかったのだ。


 右の線路を選べば、トロッコは即ち十人を轢殺することになろう。しかし、左の線路を選べば、犠牲とならざるを得ぬ作業員は、ただ一人で済むことになったのだ。


        ⁂


「なんちょに詭弁ば(ろう)すても、けづぁ事故(ずご)でねえ。事件(ずげん)だ」

 警官が里見を責めた。

「解ってがんす。んだども、あんときは、彼を殺さねばなんねがったんすおん!」

「それが、おめえ自身(ずすん)の手ば汚すことさなってもが?」

「んだ・・・」


 あのとき里見は、確かに、その一人をどうしても殺さねばならない状況に追い遣られてしまったのだ。


 彼の育った温かな家庭では、常々こう教えていた。

『人には優しくせねばならない』

『自分がされたくないことは、人にもしてはいけない』

『人を傷つけてはいけない』

『人を殺してはいけない』

 と。


 これらの教えは、彼にとって、疑う余地のない真理となっていた。火が熱く、雪が冷たいのと同じように。


 そんな彼にとって、あのときの苦悩が如何ほどのものかは、想像さえ絶しよう。

 どちらにトロッコの進路を取っても、彼はこれら真理に背くことになってしまうのだから!

 ああ、願わくば、停車機能のみならず、ハンドルまでもが壊れていればよかったのだ。そうすれば、少なくとも、この背徳に「彼の意志」は関与せずに済んだのだ!

 しかし、悲しいかな、ハンドルは生きていた。ハンドルを切らねば、トロッコは自動的に左に曲がり、十人を殺してしまうだろう。これもまた、「ハンドルを切らなかった」という彼の意志なのである。


 彼は、彼の意志で、この殺人を為さねばならなくなったのだ。

 十人分の背徳を退けるために、一人分の背徳を受容せねばならなかったのである。

 はるか前方に、逃げ惑う作業員の姿があった。逃げたところで、前方には石材があるのに、それを知っていて尚、「生物としての生存本能」のまにまに、彼は逃げ惑ったのだ。

「許すてがっせん!許すてがっせん!」

 里見は何度も謝った。



 里見は、覚悟を決め、例の猟銃を取り出した。

 自分の手が血で汚れる前に、自殺すべく用意していた猟銃であった。


 ・・・だが、奇妙なことよ!里見の心は、里見自身気付かぬ間に、変わっていたのだ。

 それは、件の「生物としての生存本能」の為せる業としか言えないだろう。


 猟銃は、里見自身ではなく、目の前を逃げ惑う作業員に向けられたのだ。


 そして放たれた弾丸は、作業員の足に当たり、逃げ惑う手段を奪った。

 作業員の怯える顔が、こちらを向いた。


 更に作業員の頭を狙って銃を構えた里見の顔には、冷たい微笑が浮かんでいた。

()ね!」


 銃口は火を噴いた。

2017/05/29起筆

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