3 逃走
男は息を殺し、雑居ビルの薄暗い階段の裏に身を潜めた。
湿ったダンボールや、腐って悪臭を放つ生ゴミの陰に隠れ、必死に気配を消した。
全力で200メートルほどダッシュしたため、心臓は破裂しそうだ。
大量の汗が噴き出す。
膝がガクガクで、よろけて古びた階段に手をつく。錆びてざらついた鉄の感触が気色悪い。
「ぜぇ、はあっ、ぜぇ・・・」
息が白く漂う。
「くっせぇ・・・」
思わず声が漏れる。
なるべく口呼吸で悪臭を緩和しつつ
「30分・・・耐えろ・・・」
「俺はゴミだ、ゴミの一部だ・・・」
男はブツブツと自分に言い聞かせた。
男は追われていた。
追っ手は愚連隊と呼ばれる、チンピラだ。
正式な組織に属していないぶん、規律が無くタチが悪い。
バタバタと複数のチンピラの足音が近づいてくる。
男は湿ったダンボールを纏い、息を殺す。
「・・・の野郎」
「近くにいるはずだ」
チンピラたちはすぐそこで立ち止まり、男の行方を捜している。
「おらぁっ!どこだボケ!?」
ドカッ!
ガランガラン!
ガチャン!
「フギャッ‼︎」
野良猫が逃げ出す。
首から刺青を覗かせたひときわ気性の激しい奴が、向かいのゴミ置場を無茶苦茶に蹴り始めた。
山積みのビールケースやゴミが狭い路地に散乱する。
ガラッ!
「安踏你在做什么!」
雑居ビルの二階の窓が開き、年配の中国人の女が怒鳴る。
「んだとぉ!?ババァ!」
単細胞がビールの空き瓶をひっつかむと、思いっきり投げつける。
ガシャン!
「ババア火ぃつけんぞ!」
「不是不值得一提怎么死的!」
ぴしゃりと二階の窓が閉まる。
「こいつら…マジか…」
男の額を冷や汗が流れる。
男も若い頃は愚連隊に居たが、今は指定暴力団の構成員だ。
だから、プロのヤクザのルールというか規律を守って生きている。
一番タチが悪いのが、目の前にいるこいつらだ。しかもこいつらは群れになるほどヤバイ。
人を狩り、時には死に至らす。
チンピラ7、8人に対してこっちは一人。
捕まったら終いだ。
トレーナーの上下にカジュアルなブルゾンを羽織ったチンピラ達は、男の目と鼻の先にうんこ座りで車座になり、煙草を吸ったり缶チューハイを煽っている。
皆、決まりごとの様にゴールドのネックレスを着け、服装とのギャップが輩感を醸し出す。
男はひたすら気配を殺し続けた。
一秒がクソ長く感じる。
焦れて貧乏ゆすりが出掛かるのを、意識して抑える。鼻に止まった小蝿が痒いが耐える。
「俺はゴミの一部だ・・・」
心の中で呪文のように唱え、じっと気配を消す。
しかし、さっき向かいのゴミ箱から飛び出た野良猫が、男のすぐ近くまで寄ってきた。
「フーッ!」
ゴミの陰に隠れた男に気づき、警戒したネコが威嚇する。
「まずい!・・・あっち行け」
男は心の中で念じ、さらに身を縮める。
冷や汗が噴き出す。
「フーッ!シャーッ!」
「あ!?」
チンピラが気づいた。
「おい」
仲間に合図すると、車座の奴らが立ち上がり、のっそりのっそりと男に近づく。
猫がサッと逃げる。
一人が身をかがめ、段ボールの隙間に目を細める。
ふーっと、酒臭い息と煙草の煙を吹きかけてくる。
数秒沈黙が流れたが、男は見つかったと気配で悟った。
角刈りに眉毛の無いでっぷりした奴がゴミの山の前で立ち止まると、トレーナーをずり下げ、男に向け高々と小便を放った。
ジョボジョボジョボ
ジョボジョボジョボ
ジョボジョボジョボ
ビール臭い小便だ。
「ヒャハハハ」
男は頭から小便まみれになった。
チンピラは、これから始まる残酷なリンチの余興で放尿した。
「チッ!」
男は段ボールの陰から飛び出し、勢いでチンピラの一人に激しく突っ込む。
ゴツ!
男の右肘がチンピラの右頬に喰い込み鈍痛が骨を伝う。
「ツ!テメェ!」
他のチンピラが男の左腕を掴む。
男は身体を左に反転し、チンピラの鼻骨に頭突きをぶち込む。
チンピラが両手で顔面を覆い踞る。鼻血が吹き出す。
「やろう!」
男の足を取りに他のチンピラが右から突っ込む。
男はチンピラを迎え撃つように、体重を乗せた右膝を突き出す。
チンピラの顎を男の右膝がカウンターで捉え、チンピラが吹っ飛ぶ。
ニヤけていたチンピラ達の顔色が一瞬にして険しくなる。
男も腕には覚えがあった。殴り合いも何度もある。
相手に大怪我を負わせたこともあり、極力喧嘩は避けてきた。後味が悪い。
しかし今は仕方ない。
喧嘩は先手必勝、怯んだらやられる。
三人潰した隙を突き、男は姿勢を低くし反転すると全力でダッシュした。
「手前!まて!」
男の視界には人で溢れる大通りが見えている。
あそこまで逃げ切れば、人ごみに紛れて逃げ切れる。
男は振り返らず全力で大通りを目指す。
その時、チンピラが全力で投げたビール瓶が男の背中を直撃した。
ゴンッ!と肩甲骨に重い衝撃が走る。
足元がよろけたところに、またビール瓶が飛び砕け散る。破片を避けようとした足が縺れる。チンピラの一人が猛然とダッシュする。
前のめりになった後頭部に飛び膝蹴りが食い込んだ。
男はもんどり打って倒れこむ。
大通りから20メートルほど手前だ。
ダダダっと足音が迫る。
慌てて両手を地面に着いて半身を起こそうとした瞬間、振り下ろされたビール瓶が脳天を直撃した。
衝撃は首の骨から背骨を伝い、尾てい骨まで痺れる。
頭蓋骨が砕けた気がした。
正面に回り混んだチンピラは、男の顔面に容赦なく、渾身のサッカーボールキックをぶち込む。
鼻の軟骨が潰れ、折れた前歯と鮮血が吹き出す。
「ゴォォォール!!」
手応えに興奮したチンピラが奇声を上げ、変なダンスを踊る。
「最高のクリスマスイブだなぁ!」
「おい!ヤカラ(身柄)隠せ」
小便を放ったチンピラが指示を出す。
男は腹ばいのまま両足を持たれ、すぐそこの路地にずるずると引き込まれた。
ここからはチンピラのオモチャだ。誰が一番この中年男にダメージを与えられるか。
チンピラ内マウントランキングを掛けた勝負だ。
格闘技をかじったチンピラが、
「アームロック!」
と叫び、無茶苦茶な体勢で男の右肘に全体重をかける。
肘がありえない方向に曲がり、腱が限界まで伸びる。
「う、ううっ・・・!」
「おい!もうちょい!気張れ!」
「ふんっ!」
チンピラは最後の一押しを加えた。
ゴキ
肘は男の悲鳴とともに砕けた。
「シャー!」
骨を折った手応えに、ガッツポーズで歓喜の声をあげるチンピラ。
「選手交代」
今度は上気した他のチンピラが、男の左腕をL字に極め捻り上げる。
左肩の関節をぎりぎりと負荷が圧迫し、腱が伸びきる。
ゴクン!
という鈍い音を発し、左肩が外れた。さらに曲げられた指がボキッと折れる。
「うう・・・!」
あまりの痛みに涙が溢れ出る。
「や・・・やめろ・・・やめでぐで」
男の懇願はスルーだ。
「しゃ!よし、次は俺がグレイシー仕込みのアキレス腱固めだ。交代交代!」
男はもはや、どこがどの程度の痛みかも判らず、徐々に目の前が暗くなるのを感じていた。
遠ざかる意識の中、男はチンピラ達と接触したことを後悔していた。




