表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
クオリア—あゆむとヤクザの約束—  作者: Tatsuya.Miwakami
1/30

1 意識の底

 佐藤歩さとうあゆむが入院したのは4歳の時だ。

交通事故に遭い、大学病院に救急搬送された。


 手術は十二時間におよび一命はとりとめるも、遷延性意識障害せんえんせいいしきしょうがい、いわゆる植物状態となり、歩は、心拍数や血圧などを計測するベッドサイドモニタ(生体情報計)、人工呼吸器、脳波計などの生命維持装置に繋がれた。



 歩が存在するのは、光も音も匂いもない真っ暗な世界だ。

時間の感覚はもちろんなくて、上下左右もない。

自我とか、生や死すら別次元のことと思えるような世界に、歩は長い間漂っていた。

もちろん、漂っている自覚すら無かった。

歩は永遠と思える長い時間、無意識という意識の底に沈んでいた。


 しかし、事故からおよそ一年後のある日突然、もやが晴れたように意識を戻した。

なぜ意識が戻ったのか、歩にも理由はわからない。

暗い谷底から明るい地上に急に出てきたように、突然意識が戻った。


 歩は自分の状況がわからずに混乱した。

自分が寝たきりなこともわからないし、身体があり手や足があることも忘れていた。

自我と、目の前に無限に広がる暗闇だけが在り、それ以外は何も無い。

だから、意識が戻ってからしばらくは、自分は意識だけの存在だと思っていたし、自分以外の存在に囲まれているなんて、思ってもみなかった。


 でも、ある時気がついた。

うすーくぼんやりとした光を感じる。

だけど、自分が居る場所から光源までは、遮るものが幾重にもある。

 音も同じだ。

飛行機の気圧で耳が遠くなったような、音の輪郭がぼやけて近くの音が遠くに聴こえる違和感。

 歩の身体はおよそ一年の間、脳と五感や手足の間で活発な情報伝達が行われていなかった。そのため、身体のあらゆる器官と脳のつながりが寸断され、錆び付いていた。

それがある日、意識のスイッチが再びONになり、脳と身体をつなぐ回路が懸命に復旧を試みていた。歩は意識だけが戻ったまま、身体が全く動かない状態にあった。


 そしてある時、母が自分の名前を呼んだ気がした。


「あ・・・ゆ・・・む・・・」

はじめは母の声だと気づかなかった。

単語ではなく、途切れ途切れの微かな音。

しかし、聴覚よりも心が先に、母の声に反応した。

温かく懐かしい存在が僕を探してる。

心がそう感じた。


 母の懐かしい声は、最初はとても遠くから微かに聞こえた。

歩は母の声に意識を集中した。

声は、すごく遠くからほんの微かに聴こえる。

だから意識が散漫になると、すぐに見失ってしまう。

聴こえた瞬間に全力で集中しないと、捉えることはできない。

まるで、砂漠に落としたピアノ線をさがすようで、とても精神が消耗する。

わずか5歳の歩には大変な労力だ。


 しかもようやく捉えても、声はだんだん小さくなり、いずれ消えてしまう。

そうなると、無限の暗闇と自分の意識だけの世界に戻り、孤独の中で何十時間も過ごすことになる。


 初めは、この繰り返しだった。


 だけど、気が遠くなるような時間繰り返すうちに、微かだった声がはっきり聴こえる様になり、やがて、母が懸命に自分に呼びかけていることを歩は確信した。


 母の声が聴こえるようになると、今度は父の声が聴こえた。

次に他の大人のひとの声。

足音。

物が動く音。

空気の動き。

匂い。香り。

暖かいか、寒いか。

こうしたことが少しづつ判るようになった。


 時々、ママが一人で泣いてるのもわかる。

ママは黙って歩の手を握り、寝顔を見ながら目を潤ませる。

歩には、涙の匂いでわかる。

そしていつも自分の頬に頬を寄せてくる。

ママの体温がすごく近くて空気が動くから、歩にはわかる。


ママ、ぼくは生きてるよ。

だから、泣かないで。

生きてるから。


歩は声に出して伝えたかった。


 でも今の自分は身体が1ミリも動かず、声も出せないため、想いを伝えることが出来ない。歩は自分の置かれた状況を、すこしづつ理解した。


 歩が誰にも気付かれることなく意識だけを取り戻してから、一年が過ぎようとしていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ