1 意識の底
佐藤歩が入院したのは4歳の時だ。
交通事故に遭い、大学病院に救急搬送された。
手術は十二時間におよび一命はとりとめるも、遷延性意識障害、いわゆる植物状態となり、歩は、心拍数や血圧などを計測するベッドサイドモニタ(生体情報計)、人工呼吸器、脳波計などの生命維持装置に繋がれた。
歩が存在するのは、光も音も匂いもない真っ暗な世界だ。
時間の感覚はもちろんなくて、上下左右もない。
自我とか、生や死すら別次元のことと思えるような世界に、歩は長い間漂っていた。
もちろん、漂っている自覚すら無かった。
歩は永遠と思える長い時間、無意識という意識の底に沈んでいた。
しかし、事故からおよそ一年後のある日突然、靄が晴れたように意識を戻した。
なぜ意識が戻ったのか、歩にも理由はわからない。
暗い谷底から明るい地上に急に出てきたように、突然意識が戻った。
歩は自分の状況がわからずに混乱した。
自分が寝たきりなこともわからないし、身体があり手や足があることも忘れていた。
自我と、目の前に無限に広がる暗闇だけが在り、それ以外は何も無い。
だから、意識が戻ってからしばらくは、自分は意識だけの存在だと思っていたし、自分以外の存在に囲まれているなんて、思ってもみなかった。
でも、ある時気がついた。
うすーくぼんやりとした光を感じる。
だけど、自分が居る場所から光源までは、遮るものが幾重にもある。
音も同じだ。
飛行機の気圧で耳が遠くなったような、音の輪郭がぼやけて近くの音が遠くに聴こえる違和感。
歩の身体はおよそ一年の間、脳と五感や手足の間で活発な情報伝達が行われていなかった。そのため、身体のあらゆる器官と脳のつながりが寸断され、錆び付いていた。
それがある日、意識のスイッチが再びONになり、脳と身体をつなぐ回路が懸命に復旧を試みていた。歩は意識だけが戻ったまま、身体が全く動かない状態にあった。
そしてある時、母が自分の名前を呼んだ気がした。
「あ・・・ゆ・・・む・・・」
はじめは母の声だと気づかなかった。
単語ではなく、途切れ途切れの微かな音。
しかし、聴覚よりも心が先に、母の声に反応した。
温かく懐かしい存在が僕を探してる。
心がそう感じた。
母の懐かしい声は、最初はとても遠くから微かに聞こえた。
歩は母の声に意識を集中した。
声は、すごく遠くからほんの微かに聴こえる。
だから意識が散漫になると、すぐに見失ってしまう。
聴こえた瞬間に全力で集中しないと、捉えることはできない。
まるで、砂漠に落としたピアノ線をさがすようで、とても精神が消耗する。
わずか5歳の歩には大変な労力だ。
しかもようやく捉えても、声はだんだん小さくなり、いずれ消えてしまう。
そうなると、無限の暗闇と自分の意識だけの世界に戻り、孤独の中で何十時間も過ごすことになる。
初めは、この繰り返しだった。
だけど、気が遠くなるような時間繰り返すうちに、微かだった声がはっきり聴こえる様になり、やがて、母が懸命に自分に呼びかけていることを歩は確信した。
母の声が聴こえるようになると、今度は父の声が聴こえた。
次に他の大人のひとの声。
足音。
物が動く音。
空気の動き。
匂い。香り。
暖かいか、寒いか。
こうしたことが少しづつ判るようになった。
時々、ママが一人で泣いてるのもわかる。
ママは黙って歩の手を握り、寝顔を見ながら目を潤ませる。
歩には、涙の匂いでわかる。
そしていつも自分の頬に頬を寄せてくる。
ママの体温がすごく近くて空気が動くから、歩にはわかる。
ママ、ぼくは生きてるよ。
だから、泣かないで。
生きてるから。
歩は声に出して伝えたかった。
でも今の自分は身体が1ミリも動かず、声も出せないため、想いを伝えることが出来ない。歩は自分の置かれた状況を、すこしづつ理解した。
歩が誰にも気付かれることなく意識だけを取り戻してから、一年が過ぎようとしていた。