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遠目なルーザー

作者: 森本泉

先生と生徒の恋愛が書きたいと思っていた時に作りました。島本理生さんの「ナラタージュ」のイメージから離れたかったので、学校、という舞台よりピアノ教室というステージを選びました。芸術家同士の恋愛の困難と不運を描いてみました。

 一番最初に白い骨がある。これだけではいのちと言えない。次に骨を動かすために筋肉があり、それに寄り添って血管が這っている。でもまだいのちとは言えない。そしてそもそもの要として神経が張り巡らされている。リンパ腺という考え方もある。そして最期に皮膚がすべてを隠して、きちんと爪が十枚付いているし、てのひらと関節には無数の筋が畳まれていて、ついでに少しくらい産毛も生えている。

 しかしまだこれでもいのちとは言えない。

 いのちとは「行うこと」だと私は考える。よって、私の手は行使されなくてはいのちとは言えないのだ。生きてさえいないのだ。

 朝六時。目覚まし時計が鳴る。私は目を覚まし、アラームを止める。私は階下に降りて洗面所で歯を磨き顔を洗い、髪の毛を結んで、台所で牛乳をコップに一杯だけ飲む。そして日課を始める。

 ピアノに向かう時なんとなく、私は自分が農婦であるように感じることがある。毎日ただただ決まった作業を繰り返す。違いなく、狂いなく。同じ作業を繰り返す。天体の運行にしたがって一日を営むように。どの音も、間違いなく同じ長さで弾けるように。音を生み出す作業を体に刻み込む。そうでもしないとどんな時でも同じように弾くことなんて出来ないのだ。私はそう思う。己を律して、容易に変化してしまわないように。

 ピアノはなんといっても練習量。もちろんそれだけじゃないけどそれがなかったら何も無いのと同じ。私は朝起きてから学校に行く前の時間を毎日必ず音大受験のための時間に中てることにしていた。どんなことがあっても、毎日、必ず。

 私はまず暗譜しているポップスを何曲か繰り返し弾いた。ウォームアップだ。眠っていた指を起こす。柔軟体操のように軽いテンポの曲を弾いて指先の先までしっかりと血を通わせる。私の指がすべて、柔らかく、行儀よく動くように。

 ひとしきりそうして指を慣らした後で、次は指の健を一本一本鍛える練習をする。筋力トレーニングだ。和音を弾きながら特定の指だけを連打する練習。繰り返し繰り返し。

 十本の指が充分温まってしっかり目を覚ましていると納得で来たら、次の練習は持久走だ。まったくスポーツと同じね。それぞれが同じ力で打鍵できるように、力を一定に込めたまま曲を弾きつづける。指の体力づくり。集中して、自分の音がどんな顔をしているのか耳で見つけるように。一本でも私の意志に逆らって勝手な音を出している指がないか注意しながら。このメニューを繰り返しているとあっという間に一時間くらいは経ってしまうので、最期に一番難しいスピード練習をして朝の練習を終わることにしている。結構体力を使うので、朝はお腹が空きにくくても練習の後は台所に母が用意している朝ごはんがすんなり入っていくのだ。それから私は学校に出かける。 

 でも毎朝、同じメニューをこなしながら私の心は乱れる。音を成そうとする自分の手が私を混乱させる。想ってしまうからだ。そのひとの手を。自分の手が動くのを見ながら、その人の手が敏捷な獣みたいに鍵盤を駆ける様を私は思ってしまう。

鍵盤の上で動いている自分の手を、私は時々その人の手と見違えてしまう。もちろん、手の形も音の形もまったく似てなんかいないんだけど、私にこの日課を指導したときのその人の手の動きが私の空白な眼球の向こう側に鮮やかに甦るのだ。毎日。どうしても。そして私の音は乱れる。

 その人の手の、なんて決定的だったことだろう。荒い藪を躊躇なく踏みしめて進む白い象みたい。そして鍵盤は情け容赦ない音で騒ぐ。

 その手がいつも私のこころの中にある。そして私は、その手を持っているひとのことを、きっとものすごく憎んでいる。


 その人は私のピアノ講師だった。音大受験対策塾で私は先生のレッスンを週に三回受けている。週に三回は必ず会わないといけないというのに、私は未だに先生に慣れない。怖いのだ。

怖いというのか。気持ちが張り詰めて落ち着かない。確かにリラックスし過ぎた状態でレッスンを受けるわけにはいかないのだけど。

 先生は恐ろしく寡黙なひとだった。レッスンルームはピアノの音が鳴っていない時は埃が床に落ちる音が聞こえてくるくらい静まり返っている。そこに先生の錐みたいな声が刹と降って来る。私の音はピンで止められた昆虫みたいに、動く力を失って伸びてしまう。恐ろしかった。でもそれ以上に気まずい理由もあったのだ。

 今日も私は塾で自分の順番を待ちながら、まったく落ち着かずイヤホンで動画サイトのコンサート音楽を聴いていた。こういうことはあまり勧められていない。楽譜の内容は均一でも、弾く人間はそれを「自分の演奏」にしないといけないから。それは感受性の表現でもあるし、楽曲が作られたときの作者の精神や時代を空想する知性でもある。人が演奏しているピアノから学ぼうとするのは、テストでいうとカンニングみたいなものだ。敢えてしているのは、先生に会うことの恐怖感を紛らわすためである。あんまり紛れないけど。

 私の順番が回ってくるきっちり二分前に、前の人のレッスンが終わる。今日、先生は先のレッスンが終わると受講した女の子と一緒にレッスンルームから出てきた。ソファーに座って待っている私には一瞥もせず足早に事務室に向かっていく。私は、きっと一時間後自分もこんなふうになっている、と思うくらい疲労した顔の同級生にちょっと手を振って慰労する。彼女もそれによってやっと一息、少しだけ笑って見せるのだった。

 何の用事だったのか。先生はレッスンの時間ぴったりにはまたレッスンルームに戻ってきた。

「よろしくお願いします。」

 私はピアノの前に座って、先生のほうに顔を向けて頭を下げる。

「始めてください。」

 先生が静かに言う。私は課題曲のソナタを弾き始める。

 逃げられない、という気持ちになる。レッスンが始まると私はそれまでとはまったく違った存在に「変えられて」しまって、先生の講義終わって今日一日が赦されるまでけしてもとの姿に戻ることは出来ない。私はさっきまでの自分とは違うものに「変って」いるので、自分の意思や力でこの空間から逃げていくことができない。そもそもレッスンから逃げる理由もない。でも、どうしても、この僅かな時間はいつだって私を途方もない気持ちにさせる。

 何がどう途方もないのか。自由を限りなく制限されながら、同時に限りなく自由という途方もなく矛盾した状態。しかしこのとき私は今以外のどこでもありえないくらい、

 自由

 を感じているのだ。逃げられないというのは、むしろそういう気持ちが正しい。自由という依存症なのだ。

 先生の耳が私の存在を限定する。そこに私のアイデンティティは「無駄」となる。余計な修飾。名前も表情も、肉体もいっそ人間であるということすらも。

 今この瞬間私はみたこともない珍奇な生物でも、ましてや道端の小石であっても構わない。先生の前ではそんなことは一切構わない。この瞬間に私に求められている唯一のこと。それは音の媒体となることだ。音楽を生み出すマシンであること。解釈するための精神も、表現するための両手も体も、そのマシンの一部分なのだ。

 そんなことを思いながら一心にソナタを弾いていると、見透かしたように先生が言った。

「止めて。」

 先生はけして、不遜に手を鳴らして私を遮ったりしない。でもだからこそそのジェントルな姿勢が私には恐怖だ。

「君は何か、自分が音楽を生産する機械みたいであればいいと思っていないかな。」

 起伏の一切感じられない声で先生が話した。私は答えない。怖くて答えられないのだけど、でも先生が返事を必要としていないことも私は分かっている。

「あるわけ無いでしょう、そんなこと。」

 突き刺すというよりは切り分けるように続ける先生。

「譜面に忠実に、実直に弾くだけなら機械に弾かせたらいい。音楽好きな店主の居るレストランにでも行ったいい。電子ピアノがワンコインで弾いてくれる。でもそういう問題ではないから人間は人間の弾くピアノを聴きたがる。両者の違いを意識しながら弾いて、君は持っていて、PCにはないもの。」

 私は鍵盤に手を添えたまま先生の言葉を待っている。

「精神。」

 私は、声を掛けられたときの二つ前の小節から弾き始めた。「精神」を持って。

 私はレッスン中ほとんど声を出さない。出したとしてもはい、と意味の無い返事するだけだ。それについて先生は何も言わない。私はただ指を動かして、先生はそれによって生まれる音を睨んでいる。そして時折手を止めさせては、私の音を切り分けていく。

「情緒が感じられるように弾かなければだめだ。情緒でなければ表情でも、個性でも。誰が弾いても同じに聞こえるようならどうして弾くんだ。ここ以外のどこにもない音でないならば、そもそも音である必要すらない。」

 私は黙って弾き続ける。

 他の生徒のレッスンでは、先生も執拗に彼らの返事を促すのだそうだ。意図しない返事をしたものには遠慮なく罵声を浴びせることもあるらしい。先生はこの塾で文句なしの鬼講師なのだ。だれもが恐怖する恐ろしいピアノの先生。

 でも私が先生を恐れているのは、罵倒されるからではない。逆で、罵倒されないことを恐れている。私が恐れているのは、「知られてしまっている」ことだ。そして「知っていること」なのだ。

 先生は、私が先生の語る意味をあまさず理解していることを知っている。そして私は先生にとって自分がそういう存在であることを知っている。話す必要がないのだ。何も言わなくても、先生は私のことが分かっているし私には先生のことがすべて伝わっている。

 だから恐ろしいのだ。

 私は先生の前でピアノを弾くことで、先生にありとあらゆることをさらけ出してしまう。先生の耳と皮膚感覚にありとあらゆることを探られてしまう。

 私達はならんでピアノに向かうことで、手の施しようがないくらい繋がってしまうのだ。開かないドア、隔てない壁の向こうとこちらにいて、それ以上の存在になれない。それ以下の存在にもなれない。これはほとんどアクシデントだ。人と関わって行くうえでのアクシデント。起こるはずないことが起きているのだ。

 そして、私一人がこういう意味の恐怖を持っていることを、先生以外誰も知らない。


 塾から帰って来て寝る前の一時間、私は電子ピアノにヘッドホンをつけて弾く。自らの心を慰めるために、そうしないととても眠れないのだ。いつまでもいつまでも先生が隣に座っているように思えてどうしようもなくなる。

 「繋がって」居る以上、先生の存在は私のこころの中に常にある。私が先生を憎んでいるのはそういうところである。

 その人の存在が、私の中に居てしまう。

 なんて心もとないんだろう。心臓の裏側に点けられた秘密の験みたいに。誰にも知られない代わりに誰にも助けを求められない。私の中でそれは「すべて」で、それは「その人」だった。

 先生はいつも、何を見ているのか分からない遠い目をしていた。聴覚に集中するために他の感覚をわざと鈍らせているみたいに。でもそうである以上に先生の目は力がない。見つめるべき対象を失っているように。目に映るものになんの興味も湧かないから、見る必要がない。遠くを彷徨うその人の視線。

 大いに問題であるのは、先生は私を教えているくせに私の未来にまったく興味を持っていないことだ。

 一応、一応もないが、私は音楽大学を受験して合格するためにその人のレッスンを受けている。よって私の未来は音大生になることで、その人はその未来にまったく興味を持っていない。どうすればいいのか。

 先生が指導に手を抜いているわけではなかった。むしろ先生はいつも熱を込めて私に接した。でも先生が、本心では私に受験を辞めさせたいと思っていることは顕かだった。

 レッスン室でピアノを弾きながら、私は時々先生が静かなため息を着いているのを感じた。

 それは呆れのため息ではない。強いて言うと同情、と言ったところか。哀れみ。どうしてなのかは分からないけど。

 ともかくも先生が私の大学受験に消極的なのは明らかなのだし、当然問題なので私は塾に訴えて講師を変更してもらうという選択しもあるのだけど、それはしない。なぜなら。

 

 私は先生がピアノを弾いているのを見ていた。聴いているのではなく、見ていた。視覚だけがその空気の中で生きていた。それ以外にはなにもなかった。

 色がない分、形がつかない分、音はなんて水に似ているんだろう。色も形もない分どんな色にもなるしどんな形にもなる。人はそのこころ一つでどんなにでも音を作ることができる。本当ならば。だからこそ、先生は音をどんなにも「作らない。」

 先生はピアノを弾き続けていた。色も形もない音だ。なんの表情もない。情緒で曲を作れと私に言ったのに、そこにはこころを感じさせるものは存在しない。

 でも、先生は分かっている。分かっていてそうしている。何をか。これが本当の目的だからだ。

 何も混ざらない音を作ること。まっさらな空気、まっさらな水。それと同じように、淀みやけがれがいっさい入らない音を作ること。

 不可能だ。しかしだからこそ私達は強く惹かれる。

 だから先生はいつもトライしている。

 ただ、ただ、音であるだけの音をつくることを。何もないその音は、ゆっくりと息をするように膨らんだり、閉じたりを繰り返す。いのちをそのまま表現するみたいに。


 冬が近づいていた。受験の準備もいよいよ厳しくなるある夜、食事の後で父が言った。

「ちょっと話したいから、上にあがらず待っていなさい。」

 深刻な表情だった。母はそれとなく一人立って食器の片付けを始めたが、それによって私は母がこの話し合いに参加したくないんだと思う。気不味い話題になる。私は覚悟したがおっくうでもあった。両親の小言はどんなシーンで聞いてもおっくうなものだ。たとえ父がこれから死んでしまうんだとしても。

「ピアノの練習は、どんな調子だね。」

 意味もなくめがねを外してまた掛け直してから父が問う。私は思っていることを答える。

「普通。先生から指導されている通り練習してるだけ。毎日同じメニューをどれだけこなすかが問題だから。」

 私が話していると、どういうわけか父は苛立った目をした。何にも分かっていないな、という顔。十代の子どもがその十年の間にあってなんども見ることになる、その目。

「まあお前が熱心に練習しているのは知っていたからね。お父さんたちとしても話したものだろうか迷っていたんだけど。」

 練習じゃなくてトレーニング。私は自分の体を鍛えているの。体も、精神も。アスリートみたいなものだから。お稽古じゃないのよ。

 父は自分たち、という言い方をした。自分一人の意見でないことを強調する。いざという時に母に片棒を担がせるため。

「音大の受験は見送ることにしないか。」

 父はこともなげに言った。さも当たり前のことを言って聞かすように。ものわかりの悪い子どもに言って聞かすように。

「こないだの面談で学校の先生にも言われたんだけどね。音大に行くことはたいそう冒険であるよ。お前、大学で音楽の勉強をして将来どうしようというつもりなんだ。」

 私は答えられなかった。

「ピアニストになるつもりか。コンサートを開いて食っていこうというのか。見ず知らずの人達がお前のピアノに金を払って聴きに来ると思っているのか? そんなはずはないだろう。」

 なおも黙っていた。

「先生の話では、お前が音大を受験して合格するかどうかは五分五分なんだそうだ。難関はまず通らない。さほど人気のないところならまあ見込みないこともなさそうだが、名もない音大に行ってどうするんだね。

 さっき言った通りね、クラシック音楽を逐一学んでも今の時代なんにもならないんだよ。分かるかい。音のよしあしなんて一切意に介さない人間がほとんどなんだ。賞をとった有名な人物だから、素晴らしい演奏だ。そういう世界だよ。誰がお前を評価してくれるかね。

 それに正直塾の費用だけでもかなりなものなんでね。これが投資なら利益が見込めるものにたいして行うべきなんであってね。お前の見込みがこれ以上伸びていかない以上私は今後投資し続けることが正しいとは思わない。音楽が好きで音楽を学びたいというのなら、専門学校ではなぜいけないんだ。危険を敢えてしてまで、どうして音大なんだ。」


 私は夜の街を目的なく歩いていた。ちょっと散歩して考えてくる。そういってうちを出た。9時までには戻るように言われた。

 本当ならピアノに向かっているはずの時間。手袋でもはめてくればよかったかな。手がそわそわしているように感じる。立ち止まって私は自分の手を見つめた。

 ほら、生きていない。

 父は何も分かっていないのだ。なんにもしていないから私の手は今生きていない。弾いていなければ。音を作るための存在なのでないなら私の手にはなんの意味も無いのだ。

でも死んでいるわけでもない。手はちゃんと私にくっついていて、私はちゃんと生きているんだから。

 でも、手は生きていない。死んではいないけれど生きてもいない。生きていないことと死んでいることは絶対に違う内容なのだ。たくさんの人が分かって居ないこのほんとうのこと。

 父はきっと、ピアノならなんだって同じだと思っている。幼稚園児に音感を教えるのだって、バーの演奏者になるのだって、同じ音楽をやっていることだと思っている。でも違う。それは「行う」こととは違う。

正直私にだってそれがどうして音楽を行うことにならないのか分からない。でも私の手は、どうしたってクラシックを弾くためにあるのだ。時間に美しく鎧された楽譜のために存在しているのだ。だってそれこそが、生きている音楽なんだもの。

しかし私は分かっている。知っている。本当は私は、ちゃんと知っている。

 私では音楽を生かすことが出来ない。私が弾いても音楽は生き生きとしない。

 どうして。何が足りないのか。あるいはお金を投資するのか。あるいは時間を費やすのか。あるいは持って生まれてくるものなのか。分からない。

 だって生きている音楽っていったいなに? 何をどうしていればいいの? 私はどんなに時間をかけても分からないもの。だからピアノを弾いているしかなかったのに。

 寒かったからマフラーをぐるぐる巻きつけて、口の辺りが息で湿った。苦しくなったから少し緩めた。バスターミナルのアーケードの柱の影で風を避けるようにしながら、帽子の男の人がギターを弾いていた。アコースティックギターだ。何の曲を弾いているのか分からないけどやけに熱を込めて弾いていた。一生懸命弾いていないと寒いのかもしれない。傷だらけのぼろぼろのギターで、つくりが悪いのか腕が悪いのかべこべこと不細工な曲が歌う。

 ぼうっと立ち尽くしたまま聴くでもなく聴いていた。後ろの方から歩いてきた人が私の隣に立ち止まった。その人も、なんとなく気をとられたみたいにタバコを吸いながら無言でギター演奏を聞いていた。通行人が一人二人、私たちとギター弾きの間を通り過ぎて言った。定められた二つの目印の間を、何も言わずに通り過ぎるという祈りの儀式をしているみたいに、私たちの存在に気がつかないように。

 やがてカデンツアを弾いてギターは演奏を終わった。男の人は観客に小さく頭を下げる。便宜上私は手をたたいた仕草をしておいた。隣の人は何もせず、吸っていたタバコを道に捨てると突如ギター弾きに近づく。

 先生だった。

 ポケットを探りながら先生は

「千円上げるから一曲弾かせてくれないか。」

 とギター弾きに言った。言葉通り財布のなかから千円紙幣を一枚取り出して彼に差し出す。路上演奏していて楽器を貸せと言われることなんて珍しいだろう。ギター弾きは戸惑った様子を見せた。でも不都合であることも別に無かったんだろう。間おおかず彼は、

「いいですよ。」

 と言ってシールドを肩から外して先生にギターを手渡した。

 ありがとう、と言いながら先生はギターを受け取って、彼がつけていたシールドを自分の肩にかけなおすと、手早く調弦して音階を何度か確かめる。その時確かに私のことをはっきりと見つめた。

 そして驚くべきバッハを弾き始めたのだ。

 最小の数小節で先生の指から生まれた音が弾丸になって夜のバスターミナルを弾き飛ばす。舗装路も街路樹も鞭を打たれたように突然しゃんと背を伸ばす。何事か起きたことに世界が気付く。協和と不調和が同時に起こる。

 先生の指が弦を抑えて、魔物のようにせわしないバッハの小品を鳴らしていた。古いギターは美しい声で、でも震え上がるくらい恐ろしい言葉を叫んだ。断頭台に上がった最期の囚人みたいに。いかんともしがたい結果に終わりつつある自分の人生を嘆くような、それを見ているだけの観衆を厭うような。さえずるような吐き捨てるような。反吐を吐きながら歌い舞う幻の小鳥。数人の男女が先生の音にはっとして、歩くのを止めた。

 グラスの中で美しい泡が割れては生まれるように先生は巧みに奏でる。目にも鮮やかな音調。地域が違うくらいでは追いつかない。タイムスリップしてきたひとくらい。おぞましいほどの違和感が場を支配する。でも誰も声も出せない。只為らず為されているそのことを見守ることしかできない。

でも短い曲だったので、やがて動いていた先生の指が、剃刀見たいな鋭いコードを弾いて止まった。聴いていた人達が拍手を捧げる。まばらでもそれぞれは強い賞賛が人々から挙げられた。ギターを貸した彼はなんとなくとぼけた顔をしている。

「いいギターだね。」

 そういって先生がギターを返しても、なんとなくぽかんとした顔をしていた。

 先生は体中を固くしてじっと立っていた私の方に歩いてくると、

「行こうか。」

 とだけ言った。私は答えない。でも、先生が歩く後ろについていく。

 先生はなんでこんなところにいるんだろう。塾で会うときはいつもきちんとしたグレーのズボンを履いているのに、今日は濃い藍のジーンズ姿だった。黒いショート丈のダッフルが温かそうに見える。

 先生は何処に行こうとも言わずに何処までも歩いていった。私は何と言ったら言いか分からなくて、別に着いていく必要もないのにただ後ろをついて歩いている。

「音楽は本当はただ好きなんだよね、僕は。」

 先生が言った。昔からの友達に話すような柔らかい声言うので驚いた。陶器やガラスを磨くような、よく慣れたクロスで耳元をなぞられたような気分。私も普通に答えていた。

「先生はギターも旨いんですね。」

「学校で調弦くらい勉強するし、音階はどの楽器でも共通なんだから仕組みさえ分かっていれば曲を弾くことは出来るよね。数学と同じなんだから。」

 先生がため息をついた。夜に息が白く浮かぶ。

「僕は本当は音楽が好きだったんだ。」

「今は好きじゃないんですか。」

 こんな風に先生と話をするのは初めてだった。

「うん。」

 先生はポケットからハンカチをだして口元を少しぬぐう。

「昔はね。学生だったころまではただ音楽を好きなだけでいられた。大学の勉強は面白いと思えたしね。学部演奏会で大きなホールの舞台に上がるのもいい気分がした。自慢するようなんだが僕は結構学校の成績が良かったんだ。教授や交響楽団の評判も悪くなかったと思う。N饗は難関だけど、トライしてみようというやる気はあるつもりだったんだ。大学の途中まではね。

 しかしね。卒業試験の準備をしながら僕は突然不安になったんだ。」

「何にですか。」

「専門業者であることにだよ。いや違うか。その道のプロに僕は本当になろうとしているんだろうかということを急に思って。とても不安になった。君はプロという職業ならなんでも共通していることが何が分かる? 」

「技術が高いことですか? 」

 違う。そう言って、先生は唐突に私の右手を先生の左手で掴んだ。スリがしのび寄ってくるように私は先生に手をつながれた。

「客の注文に答えられるかどうかだ。」

 これは犯罪のごとく卑劣だった。いや、私個人なら全く犯罪だ。他のどんな危機に遭ったとしてもこれほど意外性はない。ああなんて酷いことをするんだろう。キライダキライダ。

「仕事だからね。賃金をもらうからね。聴衆でなくなるんだ。お客になるんだ。コンサートは聴いてから金を払うんじゃない。聞く前に金をもらっている。金を払って僕の演奏を聴いた客がもし僕の音を自分の注文とは違うと感じたら、きっともう僕の音を買おうとはしなくなるだろう。それに気がついたんだ。

 自分の思う様に弾いてそれが賞賛されればいいと思っていた。でもそうではないことに気がついた。そして動けなくなったんだ。」

 これは全く性犯罪。陵辱行為。私は今見せ付けられている。そして見世物にされている。この手がどんなに長い指で、どんなに柔らかい筋を持っていて、そしてどれだけの時間音を奏でてきたのかを。それに比してつながれている私の手がどんなに貧相なのかを。

 この手でも。この手でも満員のスタンディングオベーションには出会えなかった。先生が今言葉を発してるのは口唇ではない。この手だ。先生の手が私に語るのだ。理解しなさいと。なんて教育。

「それからは僕は自分が人からどんな音を望まれているのかそればかり気になるようになってね。必死に考えたよ。自分なりに。どんな風に弾いたら、どんな風に鳴らしたら僕を買ってくれる人がたくさん現れるんだろうって。そんなことを考えた。僕はモノで僕は品物だから僕が売り出さないといけない。

 でもそんなこと考えたって埒が明かなくてね。会ったことも言葉を交わしたことが無いそもそも存在するかも分からないような人達がどんな嗜好かなんて分からないよ。

 僕は子どものころからずっとピアノと小部屋に軟禁されて過ごしたようなものだからそもそも世界にはどんな人間が居て何をして生きているかなんて分からない。分からないことだけか目の前に山積みでね。どれ一つとしてどうにも出来ないで居るうちに、当然だけどまるで弾けなくなった。」

 動いている自分の体が頭の中の空洞にすっぽりと包まれてしまった。真っ暗で、空と地面だけがただあった。為すすべのない空から悲しい雪があとからあとから降って来る。しんしんと冷えていった。私と先生は手を繋ぎあったまま二人きりで歩き続けた。こんなにも二人だけということは又となくて、いっそ一人きりだったほうがより希望を持てたくらい、あんまりに二人だけなので私達は二度と手を離すことが出来ない。

「僕は音を楽しんでいるつもりだった。何時間練習したって辛かったことはない。ピアノは自分の体みたいだった。

 違うな。この世に存在している自分とは違う姿をしたもう一人の自分。そんな気がしてた。生まれてくる時に僕の魂が半分に割れて、片方が僕、残りがピアノに宿っていたと思う。だから辛いはずが無い。僕は弾くのが好きだったんだ。

 でもある日気がついたら僕が引いているピアノはただの道具になっていた。息をしない道具。モノ。同時に残り半分の僕も今までとは違った姿になっていた。知らない間に鍵穴を取り替えられているのに、それに気がつかずに合わない鍵でずっとがちゃがちゃしていたようなものだったね。

 僕の中でピアノの意味が変ってしまったんだから、相対していた僕が変化しないはずがない。結局僕は大学を最低な成績で卒業して、楽団のオーディションも受けられなかった。

 僕は君が必死にトレーニングしているのを見ているのが嫌になったんだ。教師としてこういう言い方は間違っているな。僕は教える人間としてもプロでいられない。君が必死で曲に向かっているのがなんでだか僕は知っているはずだからな。教え子の熱意を理解しない僕は駄目だ。

 でもね、僕はどうしても君にピアノを必死で弾いていてほしくないんだ。理由は良く分からないんだけどね。なんと言うのかな。僕は君には楽しんでピアノを弾いていてほしい。勝手な言い分だ。しかし本心だ。それ以上のことはやって欲しくない。」


 私は両親と話し合って塾をやめることにした。その代わり高校を卒業しても一年間は何もしない時間を欲しいと条件を出した。進学もしないし働きもしない。せめて一年はそういう時間が欲しいと言った。父はいやな顔をしていた。

 最後にもう一度先生のレッスンを受けてから退会手続きをしてもらうことにしていた。私は学校が終わったあといつもの時間に先生のレッスンルームに入って、塾を辞めます、大学にも行きません、と言った。

「ごめんなさい。」

 と私は言った。

「何故。」

 先生は心からの疑問を返した。

「教え子が受験すらしないで断念したとなると、先生の職歴に傷がつきます。」

「確かに僕が教えて合格しなかった者とて無い。君は大きな例外だ。それ故に忘れえぬ例外だ。でも気にすることは無い。僕は君に、ただ勉強を教えただけのつもりはない。」

 私は空洞になった私の体に響いて消えていく先生の言葉が、すっかり消えてしまったのを感じてからいつも教わった課題曲を弾き始めた。

「待ってくれないかな。」

 しかし三音も弾かないうちに先生が私を止めた。

「今日は君が好きなように弾いてみてくれ。」

「え。」

「僕が今までいろいろ言ったことは全部忘れていい。全部記憶から消してしまって、百パーセント好きなように弾いてみてくれないか。弾きたいように弾いて見てほしい。曲も好きなもので構わない。もう僕が何かいう必要もないから。」

 そんなことが出来るだろうか。先生の言ったことを全部忘れて、思うままに弾くことなんて出来るんだろうか。それはほとんど私にとって

「今後一切弾くな。」

 と言われているようなものだった。

 いや、まさしくそうだ。これが最後です。これで最後です。二度と弾きません。葬列が行くようです。

私は自分の音を葬り去る。私の音が棺に入れられて、道を運ばれていきます。さあ皆さん、お別れを言いましょう。お花をささげましょう。

 私は思っても見ないような曲を弾き始めた自分意驚いた。ほとんど聴いたことも無いような曲だった。映画音楽だったと思う。居なくなった君に対して私が語りかけるような音楽。砂が風に飛ぶみたいに、弾いたそばから消えてなくなっていくような、かさかさで物悲しい音楽。

 何処で耳にしたのかも良く分からない曲なのに、私はすらすらと弾いていた。果たして正しいコードなのかは分からない。でも即興ではないような気がした。私はちゃんとこの曲を知っていて、そして今こうして弾いていることもずっと前から知っていたような気がする。私は今日ここでこの曲を弾くために今まで先生に導かれてきたのではないだろうか。

「ありがとう。」

 先生が言ったとき、私は演奏が終わっていることを知る。私は小さなお墓の前に立っていた。棺はもう地面の中に埋められてしまって、今掘り起こして今埋め直したばかりのほかほかした土に触れることが出来そうだ。

「君が弾いている時だけこんな風に思うのは、君の事が好きだからなのかとも思ったんだけど、そういうことを考えるのははきっと正しくないことだから、君のレッスンが今日で終わるのはいい事なのだ。必ずね。だからありがとう。」

 先生は椅子に座っている私よりも少し下がった位置でやっぱり椅子に座っていたから、私は先生を見るためにその人を振りむいた。

「ありがとう。感謝するよ。」

 先生はやっぱりそういって、目だけで確かに微笑んで見せた。先生が笑っているのを見たのは初めてだった。そして二度とない。

 ありがとうございました。

 修了時間よりは速かったけれど、私はそのまま事務局に行って塾の退会のための手続きをしてもらった。こんな時期に突然やめる生徒はまず居ないので、事務長のおじさんが露骨に不快な顔をしていた。

 これはきっと不祥事ということになる。そしてその責めを先生が負わされることになる。でも私には関係のないことだ。私はもう楽譜の一枚だって捲らないんだから。

 塾の玄関から外に出てしまったら、知らない国の空港に降りた気持ちになった。初めて来る国。みたことも無い人々。聞いたこともない言語。私は今日からこの異郷で生きていかないといけないのに頼るべき何者も無くしまっていったいどうするつもりなんだろう。真っ直ぐ進もうにも目の前は線路だ。

 どっちに転んでも同じことならば、私は自分が今哀しんでいるんだと言うことにしよう。私は急に一人ぼっちになって訳も分からなくて哀しくて仕方が無い。胸空にいっぱいに満ちているもう一つの感情を押さえ込んで私はひたすらに哀しんでいたい。

 アンビバレンツ。相反する二つの感情がある。反対する二つの存在は二つ同時に存在するから常にそこが世界であるのに、実際目にしてしまうとどちらかを否定したくなって私は狂う。

 先生にもう会えないことが悲しくて仕方が無いのに、共有されすぎてしまう時間からの開放が私を狂喜させようとする。

 結局私のこころはどこから始まって、どこに向かおうとして、どこにたどり着いたのだろうか。あんまり凄惨で泣くこともできない。

 少なくとも、私はもう生きていくことが出来ない。生きていけると思っていた方法が私から逃げていってしまった。私は自分を生かす方法を失った。今ここに残って誰かの視線に触れる私はいったいなんの生き物なんだろう。この上さらに何かの意味が残っているんだろうか。

 右に進むとうちへ帰るための電車に乗る駅があって、左に進んでもうちに帰るための電車の駅があるんだけど、どっちに向かっても進んでいくことが出来ない私の体はやがて街の空気が沁みこんで石みたいに固くなってしまった。


結局、先生と生徒だった2人はお互いに大切に思いながらも、ピアノという壁を越えられなくて別れる道を選ぶ。君のことが好きだから、君にはずっとピアノを好きでいてほしいという先生の願いを叶えるために音大受験を断念した彼女でしたが、実は先生と繋がっていられないのならピアノを弾く必要などないのです。不運な2人は不運なまま別れの道をたどってしまいました。もし再会することができたなら、その時、二人の人生はどんなものになっているでしょうか?

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