九十八 沙奈子編 「共感」
他人からはどう見えてるか知らないけど、僕と沙奈子の関係は、純愛とか親子愛とかそういうのじゃ全然ないというのが僕の実感だった。どちらかと言えば、心を病んだ人間同士が傷を舐め合って生きてるって言った方が近いと思う。
でも、それの何が悪いんだ。そうすることで他人に迷惑を掛けずに穏やかに生きていけるなら、それで何の問題もないじゃないか。傷を舐め合うような生き方をしてそれで僕たちが充実したポジティブな晴れ晴れしい生き方ができなくても、それが誰を不幸にするって言うんだ。僕たちはただ、平穏に生きていたいだけだ。
明るくて活発で他人の賞賛を集めるような生き方しか認められないって言うのなら、認められなくたっていい。むしろ誰にも知られずに誰にも注目されずに誰にも干渉されずにひっそりと生きていけるならその方が僕たちは平和に生きられる気がする。もちろん、完全に誰とも関わらずに生きていけるなんてのは無理だって思い知ったけどさ。だけど、人間には分相応っていうものもあると思うんだ。他人の注目とか期待とかを受け止めて生きられるような人とそうでない人がいるはずなんだ。
僕や沙奈子はそうでない側の人間だと思う。だって、そもそも他人を信じ切れないんだから。他人を信じて裏切られてそれでも前を向いて生きてられるほど僕たちは強くない。
それに、ポジティブっていうのは、失敗しても懲りないっていう意味じゃないはずだ。僕の兄なんかは、典型的な<失敗しても懲りない人間>だった。自分の欲求や思い付きで周囲を振り回して失敗しても反省さえしない。あいつに関わってどれだけの人間が傷付いて不幸になったのか、想像するのも怖い。そんな生き方はまっぴらごめんだ。
他人や社会とどう折り合って生きていくか、僕たちはこれからも模索していくことになると思う。でもそれは殆どの人がそうじゃないのかな。自分と他人、自分と社会との関係をどう築いていけばいいのか、手探りしながら生きてるんじゃないのかな。誰かがそれをちゃんと教えてくれてれば、掛けなくていい手間かもしれないけれどね。
それを教えてくれる役目だったかもしれない両親は、残念ながらその役目を全く果たしてくれなかった。それを今さら恨んでもどうにもならない。だったら僕たちは僕たちにできることをやるしかない。たとえそれが、傷を舐め合って生きることだとしてもね。それが最も他人に迷惑を掛けずにいられる生き方なら、僕たちはそれを選ぶよ。
いつもの僕自身への言い聞かせをして、沙奈子が寝付いたことを確認して、腕と枕を入れ替えた。これももうすっかり毎日の儀式になった気がする。それから彼女の寝息を聞きながら、僕は眠りについたのだった。
『山下って、すごく媚びてくるよな。だからちょっと信用できないな』
……。
朝、アラームが鳴る前に僕は目を覚ましてた。また夢を見たんだと思った。ただ、今日のは僕自身の過去の夢だった。今では顔も満足に思い出せない中学の時の同級生の夢だ。
媚びてる…か。
それを言ってきた同級生の顔も満足に思い出せなくても、そう言われたことだけは今でもはっきり思い出せる。普段は忘れてるけど、ふとした時によみがえってくる。
媚びてるなんて、あの頃は別にそんなつもりはなかった。ただ、数少ない友人と言えそうな相手だったから僕なりに気を遣ってるつもりだっただけだ。それを媚びてるから信用できないとか言われても、どうすればいいのか分からない。思えばあれも、僕が他人を関わることを怖いと思うようになったきっかけの一つだと思う。
目の前にいる、沙奈子の寝顔を見る。
媚びてるから信用できないなんて、僕はこの子に対して言いたくないし思いたくもなかった。自分がそれを言われてどんな気分だったか思い出せば、言っちゃいけないことだって気がした。沙奈子が努力しようとしてることは、認めてあげたいと思う。たとえそれが本当に媚びであってもね。そう思えば自分が納得できた。この子が誰かを傷付けようとでもしない限り、怒る必要も機嫌を損ねる必要もないってことを。
なんてことを一通り考えてたら、アラームが鳴った。沙奈子が寝ぼけ眼で僕を見て、「おはよう」って言ってくれた。僕も「おはよう」って返した。そして一日が始まった。
いつも通りの休み明けの朝だ。ただ今日は月曜日じゃなくて火曜日だっていうだけだ。朝食を済まして会社と学校に行く用意を済まして、僕は玄関に立つ。沙奈子の行ってらっしゃいのキスを頬にもらって、行ってきますのキスを額に返す。もうほとんど照れはない。だけど良い気分にはなる。毎日の習慣として定着したってことだと思った。
先に家を出て、会社に向かう。ラッシュのバスに揺られるのも以前ほど苦痛じゃない。すごい効果だと実感する。会社に着いてオフィスに入ると、隣の席の英田さんが忌引きを終えて出社していた。あまりはっきり顔を合わせたことはなかったのに、憔悴してるっていうのはすごく分かった。
なんて声を掛けていいのか分からなかった。どう声を掛けたって他人事で空々しい言い方になってしまいそうな気がした。だから英田さんが何も言わずに会釈だけをしてきたことで僕も会釈を返すだけで済んだのはむしろありがたかった。
英田さんが戻ってきたことで仕事の内容は元に戻った。ただ、憔悴しきった感じの英田さんの姿が時折目に入る度に僕も重苦しい気分になって、仕事のペースが上がらなかった。沙奈子のキスもさすがに及ばないんだと思った。英田さん自身も、時々手が止まって虚ろな表情になってるのが分かった。仕事どころじゃないんだって感じた。
以前の僕ならたぶん、そんなに気にしなかったと思う。他人の事情なんて僕には関係ないと思って無視して仕事をしてたんじゃないかな。なのに今の僕は、勝手に英田さんの気持ちを想像してしまって、いや、ちょっと違うかな。英田さんの状況を自分に当てはめて考えてしまって、勝手に辛くなってしまってるんだと思った。
それがどちらがいいのか僕には分からない。無視して仕事を続けられる方が会社にとってはいいのかも知れないけど、人としては何か違う気もする。かと言って、僕まで落ち込んでたってそれが英田さんのためになるのかどうかも分からない。力になれない以上は、僕は僕の仕事をこなすしかないんだとも思う。
沙奈子が相手だといろいろ考えが頭に浮かんでくることもあるのに、他の人だとやっぱりまるで頭が働かない。どんな風に思ってるかとか、何を感じてるかとかいうのが全然感じ取れなくて、何もできない。改めて僕は、沙奈子でないと駄目なんだなっていうのを思い知らされた気がした。
それでも何とか仕事をこなしていく。さすがにまだいろいろとあるのか、英田さんは残業せずに先に退社した。それからは僕も割と普通に仕事ができた。でも、英田さんがいなくなった途端に仕事がはかどる自分がまた嫌で、僕は気分が沈んでしまうのだった。




