九十六 沙奈子編 「祝日」
『わたしを捨てないで』
この部屋に置き去りにされたあの日、沙奈子は自分の実の父親に対してもそうは言わなかった。ただ黙って、自分を捨てて去っていく父親の姿を見送っただけだった。どんなに泣いてもすがっても無駄だということを、彼女は知ってたのかもしれない。だけど僕に対しては、『捨てないで』と言ってくれた。そう言えば自分を捨てないでいてくれるかもしれないと思ってくれたんだという気がした。
たとえそれが演技だとしても、言っても無駄な相手にはそんな演技さえしてくれないと思う。だから本当の本音か演技かなんてどうでもいい。実の父親にさえ言わなかったことを言ってくれたって事実だけで僕には十分だった。
それから30分くらい、僕と沙奈子はそうしてた。彼女が落ち着くまで、ただ抱き合ってた。しゃくりあげてたのが収まって、それでも僕の胸に顔をうずめたままの彼女を抱き締めていた。すると不意に沙奈子が顔を上げるのが分かった。見ると涙と鼻水とですごいことになってた。
「落ち着いた…?」
僕がそう聞くと小さく頷いたから、ティッシュで涙と鼻を拭いてあげた。それから頭を撫でて、もう一度抱き締めた。
「沙奈子…、愛してる」
僕の言葉に彼女がまた頷いてくれたのを感じてた。
本当に落ち着いたらしいのが分かって、さすがに泣きはらした顔のままじゃ出かけるのもどうかと思ったから顔を洗ってもらってる間に、僕も服を着替えた。こっちも彼女の涙と鼻水ですごいことになってたし。
お互いにさっぱりして、見つめ合った。彼女はちょっと照れ臭そうに微笑んだ。僕はまた頭を撫でて、問い掛けた。
「じゃあ、一緒に買い物に行く?」
頷く沙奈子に「ありがとう」って言ってしまってた。ありがとうは変かなと思わなくもなかったけど、何となくね。
二人で自転車に乗って、いつもの大型スーパーに向かう。その途中、何度も彼女の様子をうかがった。だけどどうやら大丈夫そうだった。信号待ちで横に並んだ時にニコッて笑いかけると、沙奈子もニコッて笑い返してくれた。
スーパーに着くと、さっそく婦人服売り場に向かった。以前見たストールのところに行く。沙奈子はまだちょっと複雑そうな顔をしながらも、怒ってるような感じはしなかった。納得はできなくても理解はしようとしてくれてるんだと感じた。だから伊藤さんと山田さんへのプレゼントのストールを手にした後、もう一つストールを手に取った。先の二つよりちょっと高くて、フックがついてるやつだった。そのフックを止めると、ポンチョみたいになるやつだ。
「これは、沙奈子へのプレゼント」
黙って僕の様子を見てた彼女にそれを見せながら言うと、ハッとした表情をした後で、ちょっと拗ねたような顔をした。だけど頬もなんだか赤くなってた。伊藤さんと山田さんへのプレゼントのついでみたいに買ってご機嫌を取ろうとしてるのが気に食わないって感じかも知れないって思った。
以前ならそんなこと考えもしなかったのに、沙奈子の表情を見てるといろんなことが分かってくる気がする。でも僕が分かるのは、彼女の表情だけかもしれない。他の女の人がそんな表情をしても気付かないかもって思ったりもする。
それらの品物を持ってレジで清算をしてもらう。その上でプレゼント用のラッピングもしてもらった。伊藤さんと山田さんへのものはもちろん、沙奈子へのものもね。
「はい、何でもない日、おめでとう」
スーパーの外に出たところで、僕は沙奈子にそう言ってラッピングされたストールを差し出した。何でもない日だけど、何でもないからこそおめでとうっていうことで。
彼女はちょっと唇を尖らせるような仕草をした後、それでも僕からの何でもない日のプレゼントを受け取ってくれた。それをぎゅっと抱き締めて、微笑んでた。
帰る時には僕からのプレゼントのストールを大事そうに自転車のカゴに入れて、僕の後についてきてくれた。でも、家に帰ってから沙奈子が早速プレゼントを開けてポンチョ風にして羽織ってみると…。
大きい…、明らかに大きすぎた…。まっすぐ立てばぎりぎり地面には着かないけど、ちょっとでも屈めばすぐに地面を擦ってしまう。そりゃそうか。だってこれ、大人用だもんな。
それでも彼女は嬉しそうだった。ストールを羽織ったままでくるっと回ったりしてた。部屋の中を歩き回って、ストールがなびくのを興味深そうに見てた。そしてその後はずっとストールを手放そうとしなかった。よっぽど気に入ったらしい。まあいいか、沙奈子が気に入ってくれてるんなら。
ストールを羽織ったままの沙奈子を膝にしばらく寛いで、二人で本を読む。気が付くと6時を過ぎてたから、夕食にしようと思った。今日の夕食は、彼女のは宅配のお惣菜だ。
「晩御飯にしようか?」
そう聞くと沙奈子も頷いた。さすがに食事中にストールを羽織ってると汚してしまうかもしれないから脱いでもらった。「汚しちゃったらいやだろ?」って言ったら納得してくれて畳んでクローゼットの引き出しに仕舞ってくれた。それから二人で冷凍庫の中のお惣菜を見た。書かれてる通りにレンジで温める。
レンジから出して改めて見ると、うん、お惣菜だな。どこからどう見てもお惣菜だって思った。いろんなおかずが小分けにされて入ってて、ご飯がついてないお弁当っていう風にも見えなくもないか。
これは焼き鮭がメインなのか。他にはホウレン草っぽいのとか、大根の煮物っぽいのとか、ヒジキの和えたものとか、地味だけど確かに栄養バランスは考えられてそうだった。ご飯をよそって並べて、よし、それではいただこうか。
以前は箸の持ち方がおかしかった沙奈子も、最近ではかなり上手に使えるようになってた。そのおかげか、鮭の身をほぐすのも難なくできるようになってる気がする。僕が手を出さなくても、自分でちゃんと骨を取れてる。しかも小骨くらいなら平気で食べるようだ。この辺りは虫歯をしっかり治したおかげかも知れない。元々煮干しが好きだから抵抗がないというのもありそうだ。
食べ物の好みはあっても、あまり好きじゃない食べ物でもゆっくりとなら食べられる彼女は、子供なら割と残しそうなお惣菜を全部きれいに食べてくれた。こういうところはすごく助かってる。僕の方のおかずは昨日ついでに買っておいたアジフライだった。
どうやら、今後は宅配のお惣菜で問題なさそうだ。沙奈子がもう少し大きくなって一人で料理しても心配なくなって、それで自分で作るとか言い出したらその時は任せてもいいかもしれないけど、それまではこれで行こう。それにこっちの方が栄養のバランスは確かそうだし。
夕食の後は、いつものように二人でお風呂に入った。もうすっかり当たり前になってた。恥ずかしいとか照れ臭いとかは全然ない。ただやっぱり、沙奈子の痣を見てしまうと、今でも胸が少し痛む気はした。でもむしろそういうのは慣れてしまわない方がいいのかもしれないとも思う。
お風呂から上がってすっきりして、後はもう寝るだけだ。明日からまた会社と学校が始まる。何もない一日とはいかなくても、だけど決して不幸っていうわけじゃない三連休だった。それでもう十分だと僕は思った。




