九十五 沙奈子編 「誠心」
「ピザ、美味しかったね」
レストランからの帰り、僕は沙奈子にそう声を掛けていた。
「おいしかった」
彼女も僕の方を振り返りながらそう言った。嬉しそうなその様子が、すごく可愛いと思った。
その後は特に何事もなくアパートに着く。しばらく寛いでそれから昼の勉強をした。順調にこなしていく様子が頼もしい感じさえした。このままちゃんと勉強を続けられれば、十分、小学校に通ってる間に遅れを取り戻せそうだ。それどころか、こうやって地道な努力が出来るのなら、それなりの学校にさえ行けるかも知れない。
僕も沙奈子もそんなにお金を使う方じゃないから今の僕の収入でも生活するだけならそれほど苦しくないと思う。ただ、学費とかを考えると、公立に行ってもらわないとたぶん難しい気もする。大学までは行かせてあげたいな。僕自身が自分で学費を稼ぎながら自力で大学まで行ったからって、彼女にまでそうしてもらおうとは思ってない。それに正直、そこまでして大学に行ったのに、今の僕はそれに見合った仕事をしてるかと言えばどうかなとも思う。これが僕の実力だって言われれば、まあそうなんだよなとも思うけどさ。
大学まで行くかどうかも、彼女自身が決めればいいかな。行きたいのなら行かせていあげたいし、高校を卒業してすぐ就職とかするんならそうしてもいいし。って、さすがに高校までは行くっていう前提で考えてるなあ。中学卒業で就職って、自分のことを思い出してもまだぜんぜん子供だし、想像してもピンとこない。
沙奈子の様子を見てても、勉強そのものは嫌いじゃないはずなんだ。最初の頃から、分からなかったものが分かるようになるのが楽しいっていう様子もあったと思う。だから勉強したいと彼女自身が思うなら、そうすればいいしそうさせてあげたい。
僕がそんなことを考えてる間に一時間が経って、切りのいいところで今日の勉強は終わった。
「それじゃ、今日も買い物に行こうか」
ドリルを片付ける沙奈子にそう言うと、彼女は「うん」と頷いてくれた。ただ今日の買い物は、いつものとはちょっと違う。一緒に行くのなら、それも分かった上で来てもらいたい。だから僕は誤魔化さずに言った。
「だけど今日の買い物は、僕と沙奈子がお世話になってる、海に行った時に一緒だった女の人二人へのお礼の品物を買いに行くんだ。だからもし、沙奈子が行きたくないって言うんだったら留守番しててもいい。どうする?」
僕がそう言うと、彼女はハッとなって僕を見た。困ってるみたいな、どこか悲しそうな表情にも見えた。でも僕は、沙奈子に嘘を吐きたくないし誤魔化したりもできるだけしたくない。それにこれは本当にやましい気持なんか何もない、単純に普段お世話になってることへのお礼の品を買いに行くだけなんだ。それを分かってほしいと思った。
「沙奈子があの二人、伊藤さんと山田さんのことを好きじゃないのは知ってる。けれど、前にも言ったけど、僕も沙奈子も伊藤さんと山田さんにとてもお世話になってるんだ。そのお礼をするための品物を買いに行くんだ。だから僕は、沙奈子が嫌だと言っても買い物に行くし品物も買う。お礼もする。これは、僕自身がやらなくちゃいけないと思うからすることなんだ」
静かに、とにかく穏やかに、命令するとか抑え付けようとかする感じにならないように気を付けて、ゆっくりと話す。沙奈子は、黙って僕の言葉を聞いてくれていた。
「僕は沙奈子のことが好きだ。沙奈子のことを一番大事に思ってる。その上で、伊藤さんと山田さんは、僕にとってはお世話になってる人たちだ。それ以上の気持ちはない。僕は沙奈子と一緒にいる。沙奈子が僕のことを必要だと思ってくれる限りどこにも行かない。誰のものにもならない。それは誓ってもいい。僕は今、沙奈子のものだ」
『沙奈子のもの』と言った時、それまでは少し視線を泳がせていた彼女が僕を見るのが分かった。だから僕は言った。
「何度でも言うよ。僕は沙奈子のものだ。それは信じてほしい」
彼女をまっすぐに見詰める。彼女も僕をまっすぐに見てくれた。けれどこの時のそれは、まるで僕の心の内を見透かそうとするみたいに、僕の言葉が本心かどうかを確かめようとするかのように、僕の目の奥にあるものを覗き込んでくる感じにも見えた。
その姿は、彼女がこの部屋に来たばかりの頃、部屋の隅にうずくまって僕の様子を窺うように感情のこもってない視線を向けてきた時のそれと同じにも思えた。不信と言うか警戒と言うか、もしくは目の前にいる人間が自分にとって敵か味方か、有害か有益かを見極めようとするかっていう視線にも見えた。同時にそれは、沙奈子が苦しんできた時間そのもののような、彼女が閉じ込められてきた闇そのもののような気もした。
だけど僕はそういう視線を向けられてもいいと思った。彼女に信じてもらうためには、それに向き合う必要があると思った。そこまでしなければ、ずっと大人に裏切られ続けた彼女の信頼を得ることはできないと思った。僕はもう、沙奈子のそういう部分とも向き合っていこうと覚悟を決めたんだ。
長いような短いような時間が過ぎ、やがて沙奈子は小さく頷いた。
「…分かった。お父さんの言うとおりにする」
決して大きな声ではなかったけど、彼女は確かにそう言った。そう言いながら僕を見たその目は確かに、僕のことを『お父さん』と呼んでくれる時の目だった。
嬉しかった。ものすごくホッとした。沙奈子に認めてもらえたような気がした。いい歳をした大人としては恥ずかしかったけど、涙まで込み上げてきた。だから思わず、彼女に抱きついてた。
「ありがとう。ありがとう沙奈子」
そう言った僕の背中に、何かの感触があった。それが僕の背中に回された沙奈子の腕だということに気付くのに時間はかからなかった。
思えば、これまでは僕が一方的に彼女を抱き締める感じだった気がする。お互いにぎゅーってしてる時も、彼女の腕はただ僕の体に添わせていただけかも知れない。だけどこの時の沙奈子の腕には、僕をしっかりと抱きとめようとする力が込められてる気がした。あなたは私のものだっていう気持ちが込められてるもののような気さえした。
「お父さん…」
不意に沙奈子が呟くように言った。
「何…?」
と、僕が応えると、僕の背中に回された腕にまた力が込められた。
「お父さん…、どこにも行かないで。わたしを捨てちゃいやだ…。わたしを捨てないで……」
沙奈子は泣いていた。泣きながら、うわごとのようにそう言った。それが彼女の本心だということは、痛いくらいに伝わってきた。沙奈子は怖いんだ。自分がまた捨てられるんじゃないかと不安で不安で仕方ないんだ。捨てられないように良い子になりたいのに、捨てられるかも知れないと思うと感情を抑えきれなくなって良い子じゃいられなくなるのが怖いんだ。そんな気がした。
「大丈夫。僕はどこにも行かないよ。ずっと一緒にいる。僕は沙奈子のものだからね」




