九十三 沙奈子編 「料理」
家に帰った僕は早速、非常用持ち出し袋の中身を確認してみた。水とカンパンとLEDライトと折りたためる水タンクとアルミシートとティッシュと軍手と携帯トイレとウェットティッシュと笛と三角巾とブルーシートと使い捨てマスクと簡単な救急セットだった。それで気が付いた。これって、一人分なんだな。アルミシート二枚とヘルメット二つを買っておいてよかった。
他に何が必要なのか、今はまだピンと来ない。気付いた時に順次買い足していく感じでいいか。水と保存食は別に用意しよう。僕が非常用持ち出し袋の中身を広げながらチェックしてるのを、沙奈子は不思議そうに見てた。
「地震とかの時に要るものを入れておくやつだよ。玄関のところにこうやって掛けておいたら、逃げる時にすぐに持って出られるだろ」
そう言いながら中のものを改めて詰め込んだそれを玄関脇に掛ける。でも、
「でも、もし沙奈子が一人の時に地震とかあって避難する時は、無理に持っていかなくてもいいからね。とにかく安全なところに避難することだけ考えてたらいい。こういうのも後で僕が取りに行くから」
そんな僕の言葉に頷く沙奈子を見ながら、とりあえず今日のところは防災の話はこれくらいかなって思った。あとはもう、夕食の用意をする時間まで寛ぐ感じかな。
いつものように沙奈子を膝に座らせて本を読む。彼女の方は昨日と同じように裁縫セットを出してきて、また練習を始めた。こういう練習をしようと思うっていうのがすごいと感じる。僕なんか練習とか面倒くさいから実際にやってみてそれで慣れていこうかなって思ってしまうのに。
チクチクチクチクと、僕には何をやってるのかよく分からない細かくて地味な作業がずっと続く。つい、退屈じゃないのかなって思ってしまったりするけど、もしかしたら彼女にとっては自分がやりたいと思ったことができるっていうの自体が楽しいのかもしれない。そう考えたら、これはこれで楽しそうに見えなくもない気がする。だけど僕は同じ事をしたくはならないんだよな。ただ、それで口出しするのだけはやめておこうと思う。別に悪いことしてるんじゃないんだからね。
そうして、のんびりとした時間が過ぎていく。天気が良くなったせいか少し暑い。それでも窓を開ければ気持ちいいかもしれない。ただ、例の変なカメラがあったせいで最近はずっと、掃除の時に空気を入れ替えるために開けるくらいで、それ以外は窓は締め切ったままだ。今日は少し暑いからエアコンを点けた。それほどじゃない日は換気扇を点けっぱなしにした上で扇風機を使ってる。あまりいい状況とは言えない気がしないでもない。何か、外からの視線は遮りつつ窓を開けておく方法は無いものだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えながら沙奈子を見る。彼女はその辺りについてはそんなに気にしてないようには見える。だけどもし本当に覗かれていたりしたらさすがにそれは嫌だと思う。まったく、子供を持つと心配事が尽きないなあ。なのにそれがそれが苦痛とかじゃないのが不思議だ。言い方は変だと思うけど、あれこれ心配するのさえ楽しいような気もする。何故そういう気がするのか、説明は難しい。ただ何となくそんな風に感じるっていうだけだ。
不意に彼女の頭を撫でたくなって、でも我慢する。今は針を使ってるから余計なことをすると危ないと思った。そう言えば昨日ほど『痛い』っていう声を聞いてない気もした。指を突かなくなってるっていうことだろうか。指を突いた時のビクッていう反応そのものがあまりなかったんじゃないかな。もしそうならそれだけ上達してるっていうことかも知れない。
時計を見るともう一時間以上経ってる。その間、ほとんど口もきかず黙々とそれを続けてる沙奈子に軽く驚かされた。すごい集中力だ。勉強の時以上かも。これは本当に洋裁の技術とかを身につけたら将来にも役立つんじゃないかな。そんな風に思う。手元を覗き込んでみると、使い古した僕のハンカチはもはや元がどんなだったか分からないくらい縫い目だらけになっていた。縫い目の上に縫い目が重なって、まるで模様みたいにも見える。これはまた別の布を出してあげないといけないかな。古くなったハンカチはまだあったはずだ。
技術的に見て沙奈子のがどれくらいなのか僕には全く分からない。ただ、4年生にしては上手な方なんじゃないかとは僕でも思う。これを活かしてあげられたらなあ。
そんな風に思ってた時、不意に沙奈子が「ふう…」と溜息をついて手を止めた。そして針をケースに戻して裁縫セットを片付け始める。今日の練習はここまでってことかな。改めて時計を見たら一時間半以上経っていた。集中力が途切れたんだったら終わった方がいいのかな。
裁縫セットを机に置いて彼女はトイレに行った。なるほどトイレに行きたくなって自分が疲れてきてるのに気付いたのかも。まあそれがどうであっても、もうすぐ夕食の支度を始める時間だし、ちょうどいい気はした。
「ちょっと早いけど、晩御飯の用意始めようか?」
せっかく一区切りついたところだとしたらと思って聞いてみる。「うん」って頷いてくれたからそれじゃあと今日もカレーを作ることにした。またいつもの手抜きカレーだけど。
二人で一緒にキッチンに立つ。ただ、実際に作業するのはほとんど沙奈子だった。僕は危なくないように見守るだけだ。鍋を用意して水を入れて、そこに煮物用の冷凍野菜を入れて火にかける。実は僕も沙奈子も肉より魚が好きだから、うちのカレーは肉なしだ。別に嫌いっていう程じゃないし、沙奈子も肉はちゃんと食べる。ただ別に食べたいっていう気にならないだけだ。
でも、そう言えば沙奈子にカレーに肉がいるかどうか聞いてなかったことを不意に思い出した。そこで、彼女に聞いてみる。
「沙奈子って、カレーに肉が入ってる方が好き?」
すると彼女は首をかしげてちょっと考えて言った。
「おうちのカレーが好き」
『おうちのカレー』?。それは、うちで今作ってるカレーのことかな。
「今作ってるカレーのこと?」
そう聞いた僕に沙奈子は「うん」としっかり頷いた。そうか。こんな手抜きカレーでも、彼女にとっては『おうちのカレー』なんだな。
そんな風に思ってなんだか胸がつまるような感じもしつつ、彼女には何か思い出の味みたいなものはないのかなっていうのがふと頭をよぎった。うちのカレーは特に何か手を加えてる訳でも何でもない、冷凍野菜を軽く煮てそこに固形のカレールウを溶かしただけのものだから、誰が作ってもたぶん同じになるものだ。それを『おうちのカレー』って言ってしまうほど、沙奈子は手料理っていうものを食べたことが無いのかなっていう気もしてしまった。
それが不幸なことかどうかは僕には分からないけど、ただなんだかもったいないような気がしてしまったのだった。




