九十一 沙奈子編 「笑顔」
別れ際、石生蔵さんは笑顔で「またね」って言ってた。だからホットケーキの件はそれほど心配しなくていいのかなって思った。ただ、もし本当に何かあるのならと思うと、胸が痛くなる気がする。だけど僕には何もできないっていうのも事実だと感じた。沙奈子一人を守るのもやっとの僕が、他の子まで守れるはずがない。それが残念だった。
そういう引っかかるものを残したまま、僕たちはアパートに戻ってきた。沙奈子の希望通りにホットケーキを作る為に。引っかかるものはあるけど、とにかく今はホットケーキだよな。
「よし、じゃあホットケーキを作るぞ」
僕が気持ちを入れ替えるためにそう言うと、彼女も「うん」と大きく頷いた。そこで今日は、ホットケーキをひっくり返すのも沙奈子にやってもらおうと思った。さっき、『自分で作れる』と言ったのを完全に本当にしなくちゃいけないもんな。
そこでまた、ボウルを出して卵と牛乳を用意して、計量カップと泡立て器も用意して、ホットケーキミックスを出してきて、準備万端、始めるぞ。
ボウルに、計量カップで測った牛乳を入れて、卵を入れて、泡立て器でよくかき混ぜる。それをいったん置いて、沙奈子はホットケーキミックスの袋をハサミで丁寧に切った。慌てないように急がずに慎重に粉をボウルに入れて、またかき混ぜた。それが終わったら今度はフライパンを温める。僕はなるべく手出しをせずに、見守るだけだ。
畳んだ濡れ布巾を調理台に置いて、そこにフライパンを載せて少し冷ます。弱火にしたコンロにフライパンを戻して、お玉で生地を流し込んだ。沙奈子の背じゃフライパンの中がよく見えないから、踏み台に乗ってやる。二人でフライパンの生地を見守ってると、表面がちょっと凸凹し始めた。そろそろだと思ってる目の前で、凸凹がぷつっと弾けた。よし、いいんじゃないかな。
二人で顔を見合わせて、沙奈子はフライ返しを持ち、生地の下に差し込んでいった。フライ返しに生地が完全に載ったら、彼女はそれをフライパンのふちに沿わせて斜めにしたのだった。そしていよいよかと見守る僕の目の前で、えいやって感じで大きく体ごと動かして、生地をひっくり返した。
「おおーっ!」
二人して、思わず声が出た。ちょっと勢いをつけすぎたのか固まってない生地がべちゃっと広がったけど、見事にフライパンの中には収まったし、うん、成功って言っていいんじゃないかな。
「やった、できた!」
僕がそう言うと、沙奈子も「うん!」って弾むように大きく頷いた。すごく嬉しそうな顔だった。これで本当に完全に「自分で作れる」って堂々と言える。ただし、火を使うから作るのは僕が一緒にいる時しかだめだけどね。
それからも同じようにしてさらに二枚焼いた。ひっくり返すのも、何とかうまくいった。すごい、すごいよ沙奈子。彼女の前に手のひらを出すと、ハイタッチしてくれた。思わず、
「イエーッ!」
って声が出た。
何だろう。ただホットケーキが作れたっていうだけでこんなに楽しい。こんなに盛り上がれる。なんだかすごい。僕の前で自慢げに笑う沙奈子がすごく幸せそうに見える。子供って、本当にすごいなあ。
自分で焼いたホットケーキを美味しそうに食べる彼女の姿も、キラキラして見える気がする。
でもこの時、僕は、ふと思ってしまったのだった。ここに石生蔵さんもいたら、どんな感じになってたんだろうって。この沙奈子と一緒になって笑ってくれてたのかな。石生蔵さんは、自分の家でこんな風に笑ってるのかな。それを考えると、やっぱり胸が痛いような、つかえるような気持ちになってしまった。
すぐじゃなくていい。いつか、石生蔵さんが沙奈子と一緒にホットケーキを作れるようになってくれたらって思う。今日見た石生蔵さんは、ただ意地悪なだけの子とは僕には思えなかった。恋心が暴走してしまったのかそれとももっと他の理由があるのかは僕には分からないにしても、あの子だって沙奈子と同じように笑えればきっと可愛いんじゃないかな。子供がそんな風に笑っていられない環境って、それだけで不幸なんじゃないかな。
そんな風に思いながらも、だけど何もしてあげられない自分の無力さが悔しいっていう気持ちもあった。よその子まで助けられるなんてそんなの思い上がりだって分かってる。でもあの子も生きてるんだって思うと、もっといっぱい笑えるようになってほしいって思うのも、人間として正直な気持ちなんじゃないかな。
本当に不思議だ。沙奈子と一緒にいると、こうやってどんどん、自分がどういう世界で生きてるのかっていうのが実感できていく感じがする。自分以外の人たちだってちゃんと生きてて心があって、幸せを感じたり不幸を感じたりしてるんだっていうのが分かっていく気がする。
自分一人で生きてるって思ってた頃の僕も僕だけど、今、こんなことを考えてる僕だってやっぱり僕なんだよな。それがすごく変な気分だ。ぜんぜん違うのにどっちも僕なんだって。
しかも、自分の親からまともに愛してもらえずに捨てられたみたいになって、他人から見たらすごく不幸そうに見える僕たちのはずなのにこんなに楽しかったりもする。本当に驚かされることばかりだ。
お互いを必要としてお互いを支え合って、その上でお互いをちょっとだけ穏やかな気持ちになれるようにしてたらこんな風になれるんだな。
沙奈子はまだ子供だから本当は一方的に僕に守られててもいいはずなのに、時々僕を気遣うような様子を見せてくれるだけですごく報われた気持ちになれる。熱を出した時に濡れたタオルを頭にのせてくれるとか、お疲れさまのキスをしてくれるとか、たったそれだけのことで苦労とか大変さとかが全部どうでもよくなる気がする。だけどそれは、沙奈子にとって僕がそうしたいって思える相手だっていうのもあるんだろうな。僕が沙奈子を大切にしたいと思ってるから、沙奈子もそう思ってくれるんだろうな。
すごいなあ。
そんなことを考えてる僕の前でホットケーキを二枚分ほど食べきった彼女の顔がまた、びっくりするほど可愛く見えた。満たされて柔らかく微笑むその姿が、たまらなく愛おしい。
こんなことって本当にあるんだ。
僕たちの場合は少し特殊な事情だとしても、親子だったらいつだってこんな風になれるよな。こんな風になれない親子って、ものすごく、とんでもなく、とてつもなく損をしてる気がする。僕の両親や、沙奈子の両親なんて、この気分を味わえなかったんだとしたら、腹が立つより可哀想だなって、本気で思えてきてしまう。
だから沙奈子が大人になって親になった時に、今のこの気持ちと同じものを自分の子供相手に持てるようになってほしいと思った。彼女がそうなれるようにするために、どうしたらこんな気持ちになれるのか沙奈子自身が理解できるまで今みたいな笑顔にしてあげたいと、僕は改めて思っていたのだった。




