八十九 沙奈子編 「守人」
以前、個人面談で来た時には気付かなかったけど、沙奈子の学校の前にはイタリアンレストランがあった。おしゃれな感じで見た目にはけっこう本格的な気がした。
「これからどうしよう。ピザでも食べていく?」
僕は、そのイタリアンレストランを見ながらそう言った。まだちょっと早いけどもうすぐお昼だし、せっかくだからそこで食べて帰ったらどうかと思って聞いてみた。だけど沙奈子から返ってきた答えは、僕の予想とは違ってた。
「帰って、ホットケーキ作りたい」
ああそうか。そうだったよな。日曜日のお昼は二人でホットケーキ作ることにしてたんだ。彼女はそれを楽しみにしてたんだな。ごめん。
「じゃあ、帰ってホットケーキ作ろうか」
僕がそう言うと、沙奈子は「うん」と大きく頷いた。彼女にとってはレストランでのピザより僕と一緒に作るホットケーキの方が大事なんだな。しかもそれをちゃんと自分から言えるようになってくれたんだ。
僕たちは、来た道をそのまま歩いて戻る。沙奈子が家に帰る時もこの道を通る筈だった。それにしても、学校が見えるようになる直前の道は、改めて見てもかなり狭かった。自動車が一台、辛うじて通れる広さだ。両側には家が隙間なく建ってる。玄関がすぐ道路に面してる家も多い。これだともし道路側に家が倒れたら道が塞がってしまうかも知れない。あと、火事になってても危なそうだ。
ただ、この道と並行してちょっと広い道もあるのは僕にも分かった。そっちは自動車の通行量もまあまああるから、交通事故のことを考えてこっちの道を通学路にしてるんだと思った。こっちは狭くて自動車もスピードを出せないし、住んでる人しか通らないような道なんだと思う。
「沙奈子、もし地震の時に家が崩れてたり火事でこの道が通れない時は、あっちの広い方の道を通ったらいいからね」
と、家と家の隙間から少しだけ見える広い方の道を指さして言った。沙奈子もそれに「分かった」と言って頷いてくれた。避難の時に気を付けないといけないのは、それくらいかな。それよりは普段の防犯の方が気になる感じだ。石生蔵さんが不審者と出会ったというのも、こういう感じのところなのかな。
登校の時は集団登校で、しかもPTAの人があちこちに立って見守ってくれることになっていた。だからそっちはそれほど心配ない気がする。問題は下校の時だ。
ただそれも、僕が聞いた話だと、なるべくまとまって帰れるように、校門を30分ごとに開けたり閉めたりして、しかも決まった通学路を通って帰るように指導されてるらしかった。実際にこうやって歩いてみると、人の目が無くならないようにかなり考えられてる気がした。できれば僕もそういうことに協力したいという気持ちになってくる。だけど、平日はずっと仕事だからなあ。
沙奈子は6月に入ってから学校に通いだしたことで、僕はPTAの活動とかについて何も言われてなかった。既に今年度の役員とか委員とかは全部決まった後だったし。でも来年度には僕も無関係ではいられないのかな。だけど僕は仕事もあるし、どうすればいいんだろう。
石生蔵さんのことではすごく学校にお世話になった。助けてもらったと思うし、何度も家まで報告に来てくれた担任の水谷先生にも感謝してる。そこまでしてもらったんだから、僕としても何か学校に対して協力しなきゃいけないんじゃないかっていう気持ちになっていた。
これがもし、僕が通ってた小学校みたいに、イジメられてるのを担任とかに言っても何もしてもらえなかったら、そんな気持ちにはなれなかったかもしれない。学校は何もしてくれないのに協力だけしろって言われても、いい気はしなかったと思う。だけどあれだけのことをしてもらえた以上は、こっちとしてもお返しをしたいって素直に思えた。なのに、僕のスケジュールを考えたら何もできそうになくて、何だか申し訳ない気持ちになってしまう。それでも何かしたいって気はする。沙奈子が五年生になった時に、僕にできそうなことを確認してみる必要がありそうだ。
防災も防犯も、結局はそういうことなんだろうな。誰かに任せきりにするんじゃなく、自分が積極的に協力することで、意識することで、効果を発揮するんだって今なら分かる。大したことはできなくても、協力しようって意識することが大事なのかもしれない。こんなこと、以前は考えたこともなかった。どうせ誰かがやってくれるんだろうって思って、自分には関係ないことだって思ってた。それが、沙奈子がいることでものすごく自分に関係があることなんだって感じることができた。
石生蔵さんが不審者に会ったっていうのもそうだ。以前ならそんな情報、気付くこともなかったかもしれない。ましてや自分に関係があるとか想像もしなかったんじゃないかな。でも今は違う。全部、沙奈子に関係することだ。沙奈子に関係するということは、僕にも関係することだ。彼女を守りたかったら、知らなかった、関係ないと思ってたじゃ済まされない。僕が自分で関わることで、沙奈子を守ることになるんだ。
親ってすごいな…。こんな風にして子供を守るんだ。
素直にそう思えた。だから余計に、僕の両親や沙奈子の両親のダメさが実感できてしまう気もする。どうしてあの人たちは、こんな気持ちになれなかったんだろう。こんな気持ちになれない人が親になってしまったんだろう。それは、親になってしまった人にとっても不幸なことだし、そんな親のところに生まれてしまった子供はもっと不幸だと思った。
もし沙奈子が僕の見た夢のように、何十年後かに里親として、親に成りきれなかった人たちの子供を助けられるようになるのなら、そんなすごいことはないって感じた。僕の前を歩く、こんなに小さくて儚げなこの子がそんなことができるようになるとしたら、それはとてつもないことなんじゃないかな。僕はこの子をそんな風に育てられるんだろうか。
そんな風に思ったら自信なんかまったく無いけど、ただ、僕は沙奈子を守ってあげたいと確かに思ってる。彼女を守る為に自分に何ができるかってのを考えてる。ほんの何か月か前には想像もできなかったことをしようとしてる。そうか、これが『誰かを守りたい』っていう気持ちなんだ。誰かを守りたいっていう気持ちに突き動かされるってことなんだ。
誰も守りたい人がいなかった頃の僕は、僕自身さえ別にどうなってもいいと思ってた。生きてても死んでてもどっちでもいいって感じだった。だけど今は違う。沙奈子を守る為には僕自身も大事にしないといけないって思う。僕に何かあったら、彼女のことだって守れない。事故とかに遭ってもいけないし、病気になってもいけないし、ましてや犯罪とかするわけにはいかない。そんなことになったら沙奈子を守ってあげられなくなる。それは嫌だ。絶対に嫌だ。
前を歩く沙奈子の姿を改めて見たとき、そんなことを考えながら自分が少し涙ぐんでるのに、僕は気付いたのだった。




