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僕に突然扶養家族ができた訳  作者: 太凡洋人
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八十六 沙奈子編 「裁縫」

食料品売り場では、ホットケーキミックスの残りが少ないから買っておくことにした。後は牛乳と餃子も。今日は荷物も多くなったし、これくらいにしておこう。今日の夕食はまた餃子だ。


会計を済まして、雨の中を歩いて家に帰る。沙奈子は新しい雨の日用の靴が割と気に入った感じで、一歩一歩を確かめるように楽し気に歩いてる気がする。


家に帰ると、沙奈子はまず、新しい服のタグを切って自分の引き出しに仕舞い始めた。僕はその間に彼女の新しい靴を箱から出して、元の靴と一緒に並べておいた。沙奈子の靴が一気に三足になって、決して広くない玄関のかなりのスペースを占めていた。このアパートは備え付けの下駄箱とかないから、今度は靴を入れておくラックでも買わないといけないかなと思った。


箱はつい残しておきたくなるのを我慢してすぐに潰して捨てた。残しておくと邪魔になるからね。要らないものはできるだけ部屋に置きたくなかった。僕と沙奈子がなるべく広く使うために。


ホットケーキミックスは棚に。牛乳と餃子は冷蔵庫に入れて、図書館で借りた本をテーブルに置くと、さっそく沙奈子が読み始めた。リュックを片付けて僕も座椅子に座る。そこに沙奈子が座ってきて、いつもの感じになった。


夕食の用意まではまだ時間がある。まだ降り続いてる雨音を聞きながら、僕はぼんやりと沙奈子の体温や重さを感じてた。最近はずっとこうしてるのに、全然飽きるということが無い。むしろ今でもいつまででもこうしていたいっていう気さえする。


そして起きてるのか寝てるのかよく分からない時間を過ごして、はっと気が付いたら六時を過ぎていた。


沙奈子と一緒に餃子を焼いて、二人でじっとフライパンを睨んで頃合いを見計らって、ここぞという時にお皿に移した。よし、今日もいい出来だ。ご飯をレンジで温めて、いつもの煮干しを小皿に入れて、一緒に並べた。餃子に煮干しなんて他に人が見たら驚くかも知れないけど、うちではある意味デザートみたいなものだった。


夕食を終えたら今度はお風呂だ。それもいつもの通り二人で入った。沙奈子が自分で体を洗ってる間に僕が彼女の髪を洗って、それが終わったら今度は僕の背中を彼女が洗ってくれてってした。それからやっぱり一緒に湯船に浸かって、二人でぐだ~っとなった。


このままいつもの調子でのんびりした時間が過ぎるのかと思ってたら、不意に沙奈子が言った。


「さいほうセット、使っていい?」


もちろん反対する理由はないから「いいよ」って応えた。


机に置かれた裁縫セットを持ってきて、裁縫箱を鞄から出して、彼女は蓋を開けた。でも今日はそれをただ眺めるだけじゃなくて、ビニール袋から出し始めたのだった。いよいよ本当に使うのかなって思った。


だけど僕としては、このついでに名前を書いておかなくちゃってことも思い出していた。裁縫箱の中には小さなシールも入っていて、それに名前を書いて道具に貼れるようになっていた。沙奈子が袋から出したものに僕が名前を書いたシールを貼っていく。


すると沙奈子は、針がたくさん入った小さなケースを開けてそれを眺めてた。どうやって使ったらいいのか頭の中でシミュレーションでもしてるのかなって気がした。しばらくそうしてたかと思うと今度は針と糸を手に取って、糸の端を口に咥えて整えて、針の穴にすっと通した。


僕はそれを見て正直驚いてた。いきなりそんなに上手くできるなんてって感じた。


「糸の通し方知ってたの?」


思わずそう聞いた僕に、彼女は答えた。


「テレビでみた」


テレビで視たっていってもこれはなかなかすごいと思った。お米を研ぐのとか料理とか掃除とか割と上手にするからそんなに不器用な方じゃないとは思ってたけど、むしろ、けっこう器用な方なんじゃないかな。


「お父さん、いらない布とかある?」


そう聞かれて僕は、くたびれて使わなくなったハンカチがあるのを思い出した。捨てなきゃと思って忘れてたやつだ。


「じゃあ、これ使って」


クローゼットの引き出しから古くなったハンカチを沙奈子に渡す。その時、僕は気付いた。欲しいものを僕が聞く前に彼女の方から言ったのって、ひょっとしたら初めてかもっていう気がした。以前にもあったとしても、珍しいことじゃないかな。そのことに気付いて、なんだか嬉しくなった。僕の顔色をうかがいながら言いなりだった沙奈子が、ちゃんと自分から欲しいものを言ってくれるようになったってことなのかな。もしそうならすごい進歩かもしれない。


自分の意志とか気持ちを自分で言える。それは簡単そうに思えて実は意外と難しいというのは、僕にとってもそうだった。自分にとってはそこまで重要じゃなかったからというのも確かにあっても、僕も自分の意志とか気持ちをあまり表に出さないようにして状況に流されるままに従ってきた。


その一方で、そのおかげで沙奈子と一緒に暮らせるようになったというのも事実だけどさ。あの時、もし僕が迷惑だっていう自分の気持ちに正直になって彼女を施設とかに預けてしまってたら、この光景はなかったんだっていうのを今さらながら実感する。もしそうしてたらどうなってたんだろうと思うと、胸が苦しくなる。もし僕がそうしていたら、今の沙奈子はいなかったんだろうか。それはどうか分からない。僕に分かるのは、今の彼女が少なくとも不幸そうじゃないっていうことくらいだ。


そうか。自分の意志とか気持ちを表せるのも大切だけど、その時に自分にできることを努力するっていうのも大切なんだっていうのを改めて感じる。自分の選択を後悔しないためにね。


そんなことことを思ってる僕の前で彼女は、ハンカチに針を刺していく。波型にして何度も刺してから針を引っ張って糸を通して、ハンカチをまっすぐに伸ばした。さすがにミシンで縫ったみたいな細かくてきれいな縫い目じゃなかった。だけど初めてにしては上手な方なんじゃないかな。よく知らないけど。


それから何度もハンカチに針を刺していった。練習のつもりなんだろうな。勉強もそうだ。彼女はそういう地道な努力が得意なのかもしれない。だけどそれは大事なことだって思う。地道な努力が出来るのって、それそのものが才能なんじゃないかなって僕は思ってた。そういう地道なことをするのが苦手な人ってけっこう多い気がするし。楽をして結果を出したいって思うのが普通っていうくらいだから。


これは沙奈子の長所だって気もする。これを活かしてあげられれば、大人になってからでも役に立つかも。たとえ裏方とかでもいい。スポットライトが当たるような表舞台でなくてもいい。きちんと自分の能力を活かして真面目に仕事ができるなら、必要とされる場面がきっとあるはずだ。裏方の仕事だって大事なんだから。


世の中から注目はされなくていい。そういうのは彼女には合わない気がする。ただ、彼女の存在が必要とされる仕事のできる人になってほしいと僕は思ったのだった。



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