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僕に突然扶養家族ができた訳  作者: 太凡洋人
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七十六 沙奈子編 「自傷」

「山下さん、もし私たちが、彼女のリストカットを止めさせてあげられてたら、彼女はまだ生きてたと思いますか…?」


「……」


伊藤さんの問い掛けに、僕は答えることが出来なかった。『生きてたと思う。リストカットを止めさせるべきだったと思う』って言うのは簡単だ。でも、伊藤さんは言っていた。その亡くなった友達がリストカットをしてたのは、自分が生きてることを確かめるためだったって。だとしたら無理やり止めさせてても、根本的な解決にはなってなかった気がする。自らを傷付けることでしか自分が生きてることを確認できない程のものを抱えてたんだったら、リストカットを止めさせても余計に危険な他の何かに変わってただけかも知れない気がした。


根拠はない。それを裏付ける証拠もない。ただ、僕自身や沙奈子のことを合わせて考えると、そんな気がしてしまうっていうだけだ。


そして伊藤さんは言った。


「山下さんは、沙奈子ちゃんの体にある傷のことは、もう気付いてますか?」


その言葉にハッとなり、伊藤さんを見詰めてしまった。


「やっぱりちゃんと気付いてくれてたんですね。私たちも、海に行った時のシャワーで気が付きました。あの時はあんまり軽々しく触れるのはマズいかもと思って言わなかったんですけど、山下さんがちゃんとそれを気付いてくれる人で良かった…」


潤んだ目で真っ直ぐ僕を見詰めながら、伊藤さんが微笑んだ。


「私たちは沙奈子ちゃんに嫌われてるから直接関わろうとするのは控えようと思ってます。その代わり、沙奈子ちゃんを守ってあげられる山下さんの力になりたいと思うんです。だからこれからも、もし何か困ったことがあったら力にならせてください。お願いします」


伊藤さんがそう言って頭を下げて、山田さんも顔は上げなかったけどそのままもっと深く頭を下げた。そんな二人の姿に僕は背筋が伸びる思いだった。たった一度、海水浴に一緒に出掛けただけの沙奈子のことをこんなに想ってくれる二人に、胸が締め付けられる気さえした。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


僕も深々と頭を下げていたのだった。




何だか今日は、昼食に何を食べたかもよく思い出せない感じだった。


英田あいださんのこともそうだし、伊藤さんと山田さんの友達のことも僕には衝撃的だった。リストカッターと呼ばれる人たちがいるのは知ってたけど、これまで実感はあまりなかった。


生きるために自分を傷付けるか…。僕にはその感覚は理解できそうにない。だけどそういう人がいるんだっていうことは、認めないといけない気がした。虐待を受けてたからそうなったということは、沙奈子だってもしかしたらそうなるかも知れないんだから。あの子がそうなってしまった時、僕はどうやってそれを受け止めよう。そもそも受け止められるのか、それすら分からない。それでも、僕は沙奈子を受け止めてあげたい。それは僕の正直な気持ちだった。


いろんな気持ちや思考が頭をぐるぐる回りながらも、僕は仕事に集中しようとした。決められたことを決められた手順でやればいい仕事もこなせなくて何ができるんだって、自分に言い聞かせた。


伊藤さんや山田さんもちゃんと仕事できてるんだろうか。それも少し気になったりもした。でもそれは僕にはどうにもできないことだから今は気にしても仕方ないと思った。


定時を過ぎ、残業に入るということで社員食堂で夕食を食べながら僕は一人放心していた。単純に仕事の量だけじゃなく、いろんな意味で今日は疲れた。今日だけじゃないな。この前の金曜日から何だかまた立て続けにいろんなことが起きてる気がする。月曜日からこれじゃ、身がもたないかなあ。


だけどそんなことは言ってられない。気合を入れ直してもうひと踏ん張りだ。


残業が終わったのは結局、9時前だった。とにかく家に帰ろう。いつものように沙奈子のことを心配してる僕がいる。ドアを開けたらあの子がいなかったらどうしよう、血まみれで倒れてたりしたらどうしよう、沙奈子は大丈夫でも、他の部屋から火が出て火事になってたりしたらどうしよう。そんなことが頭の中に次々と浮かんでは消える。


最寄りのバス停で降りてアパートの方を見たら特に変わった様子はなかった。火事とかだったらきっと騒ぎになってるはずだからそれは大丈夫みたいだ。歩いていくとアパートが見えた。やっぱり大丈夫だった。だけどまだ分からない。沙奈子の無事な姿を見るまで分からない。


少し焦りながらドアの鍵を開けて、「ただいま」って声を掛けた。その僕の耳に「おかえりなさい」っていつも通りの声が聞こえた。人形を手に僕を見る沙奈子の姿が見えた。


ああ、良かった。今日も無事だった。


安心して力が抜ける。ホッとしてちょっと込み上げるものがあった。沙奈子の無事な姿を確かめるだけでこんな気持ちになれるんなら、映画なんか観に行く必要ないよななんて、自嘲めいたことを思ってしまう。


「ごめんな、遅くなって」


僕がそう言うと、彼女は首を横に振って、それから僕を真っ直ぐに見上げて言った。


「お父さん、お仕事頑張ってるんだもん。わたし、平気だよ」


『お父さん』。沙奈子が僕のことをそう呼んでくれてることは知っていた。日記にもそう書いてくれてるし、担任の水谷先生も沙奈子が僕のことをそう呼んでると言ってくれていた。だけど、面と向かってそう言われると…。


もしかしたらそれも、彼女の処世術かもしれない。僕に気に入られようとしてそう言ってるだけかもしれない。でもそんなことはどうでもいい。たとえ本心でなくても彼女が僕のことをそう言ってくれてるという事実だけで、たまらない気分になる。


きっと、僕って女性とかに騙されやすい性格してるんだろうなあ。またそんな自嘲めいたことが頭をよぎった。だけど沙奈子になら、騙されてもいいや。騙されて利用されてボロボロになって人生を終わっても、この子の為だったら本望だって気さえする。もしかしたら親って、本来はそういう気持ちで子供を育ててるのかな。だから大変なことでも耐えられるのかもしれないな。もしそうだとしたら、そんな気持ちになれない親は辛そうだ。ほとんど報われることもなさそうな努力を延々と続けるなんて、耐えられなくて当然かもしれない。僕の両親や、沙奈子の両親みたいに。


僕は自分がどんな子供だったかあまり覚えてないけど、沙奈子はこんなにいい子じゃないか。僕が熱を出したら濡れタオルを頭に乗せてくれたり、居眠りしてたら心配そうに見てくれたり、仕事で遅くなった僕に気を遣うようなことを言ってくれたり、僕を労わってくれるような様子を見せてくれる子じゃないか。どうしてこんないい子を大切にできないんだろう。あいつは…。


ただそれは、もしかしたら僕が沙奈子に対してそうしてるから、それと同じものが僕に返ってきてるだけかもしれないっていう気もする。僕が彼女に冷たく当たってたら、彼女からも同じものが返ってきてたのかもしれない。


そうだよな。僕に対する彼女の気遣いがただの演技だとしても、その演技をする価値もない相手にはそれさえしてくれないよな。そんなことも思う。


でも何だかそれって、人間関係そのものにも当てはまるような気がするのだった。


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