七十五 沙奈子編 「友達」
英田さんのお子さんの事故のことは、僕に、何もないということがどれほどの幸せなのかというのを改めて教えてくれた。
仕事中はなるべく集中するようにしてても、ふとした時にどうしても気になってしまう。視線が英田さんの机の方に行ってしまって、重い気分になる。英田さんの分の仕事を振り分けられてしまったのは仕方ない。こういうのはお互い様だと思うから、頑張ってこなそうと思う。僕の仕事を他の人にお願いするようなことはあってほしくないと思った。僕の仕事を誰かにお願いするような時は、何かがあった時だから。それは嫌だ。だから、僕ばかり引き受けることになってもそれを不公平だとは思いたくない。
昼休み、いつものように伊藤さんと山田さんが僕の前に座ってた。でも今日は、少し様子が違ってた。
「山下さん…。山下さんのところの英田さんのこと、聞きました?」
伊藤さんが神妙な顔でそう言ってきた。そうか。この二人は総務だから、社員の忌引きとかの手続きもするんだろうな。そこで知っても不思議はないか。その二人に僕は黙って頷いた。
「辛いですね…」
伊藤さんが呟いた。なのに山田さんは黙ったままだった。何だか、初めて見る感じだった。以前、落ち込んだ様子だった時はそれでも話してたのに、今日は口を開く気配すら無い。どうしたんだろう…。
僕がそう思ってると、伊藤さんがまた口を開いた。
「大切な人が突然亡くなるって、こんな理不尽なことないですよね…」
伊藤さんの言い方に、誰か大切な人が亡くなった時のことを思い出してるんだろうと思った。それに答えるように、伊藤さんが続ける。
「交通事故じゃないし、事情はぜんぜん違うんですけど、ちょっと、友達が亡くなった時のことを思い出しちゃって…」
伊藤さんがそう言うと、山田さんがさらに顔を伏せた。肩が震えてるようにも見えた。
その山田さんに目を向けていた伊藤さんが、僕に向き直って言った。
「山下さんは、私たちのこと、似てるって思ったことありますか?」
思いがけない質問に、僕は軽く混乱した。どうして今、それを聞いてくるんだろうと思った。
「山下さんが私たちのことちゃんと区別できてなかったの、気付いてましたよ」
伊藤さんがふっと微笑みながらそう言ったことに、僕はさらに混乱した。バレてたのか。戸惑う僕に伊藤さんが続ける。
「私たちがこういうメイクをしてるのは、亡くなった友達の姿を忘れないようにするためなんです。写真じゃない、動画じゃない、生きていてちゃんと表情がある彼女のことを覚えていたくて、その友達の顔に似せてメイクしてるんですよ」
…そうだったのか。双子になろうとしてるっていうのはぜんぜん違ってたのか。
「私と彼女が出会ったのは就職してからでしたけど、絵里奈と彼女は中学の頃からの親友でした。いつも一緒で、本当に姉妹みたいだったそうです。私はこの会社に就職して絵里奈と出会って意気投合して、絵里奈が彼女を私に紹介して、彼女ともすごく意気投合しました。ずっと昔から友達だったみたいに気が合って、会社は違ってたけどよく三人でショッピングとかも行きました」
俯いてる山田さんの背中を伊藤さんがそっと撫でる。それは、僕が沙奈子を撫でる時の感じに似ていた。
「でも実は、彼女には秘密がありました。すごく重くて、一人ではとても抱えきれない秘密でした」
山田さんの背中を撫でながらそう言う伊藤さんも、すごく辛そうに見えた。でも僕はこの時、何故かは分からないけどその伊藤さんのことを見届けないといけない気がしていた。
「彼女の手には、いくつもの傷がありました。彼女はリストカッターだったんです。そして彼女がそうなった原因は、親からの虐待でした。それでも普段の彼女はとても明るくて、私たちの中では一番のお姉さんって感じでした」
虐待。伊藤さんの口から出たその言葉に、今度は僕の体がビクッと反応してしまった。けれど伊藤さんの話はそれで終わらなかった。言葉は少し途切れても、何かを言おうとしてるのはすごく伝わってきた
「…だけどある時、突然、彼女は亡くなってしまったんです…」
絞り出すようにして伊藤さんがそう言った時、山田さんの体がはっきり震えだすのが分かった。間違いなく泣いていた。
「周りの人はみんな自殺だと言いました。確かに手首を切った時の出血が原因だから事情を知らない人はそう思うでしょう。でも私たちは違うと思ってます。だって彼女がリストカットするのは、自分が生きてることを確かめるためだったから…。自分がまだ死んでない、自分はまだ生きたいと思ってるっていうのを確認するために自分を傷付けてたんです。だからあの時も、いつも通り自分が生きてることを確かめるためにそうしたんだと思います」
伊藤さんの目からも、涙がこぼれてた。それでも彼女は続けた。
「だけどその日、彼女はいつもよりちょっとだけ深く切ってしまったのかも知れません。お酒を呑んでたから、手加減を間違ってしまったんだと思います。その上で寝込んでしまって、結果的にそうなってしまった…。そうです。彼女が亡くなったのは事故です。自殺じゃありません。他の誰も信じなくても、私たちだけは事故だというのを信じてます」
僕を真っ直ぐに見詰めてそう言った伊藤さんの思いを、僕は受け止めたいと思った。だから目を逸らすことができなかった。すると伊藤さんが、涙をこぼしながらふっと微笑んだように見えた。何かが吹っ切れたようにも僕には見えた。
「そして私たちはお互いに、彼女はまだ生きてるんだって、本当は死んでないんだって言い聞かせるために、彼女に似せてメイクするようになったんです。それがただの気休めだっていうのはもちろん分かってます。でも、私たちは今でも納得できないんです…」
そこでようやく、伊藤さんは言葉を途切れさせた。ハンカチを出し、目頭を押さえる。
…そんなことがあったんだ……。じゃあ、二人が沙奈子のことを気遣ってくれるのは、それが理由なのか…?。
そう思った僕に答えるように、ハンカチで涙をぬぐった伊藤さんが再び口を開いた。
「だから、私たち、沙奈子ちゃんのために何かできたらって思ってしまうんですよね。私たちが山下さんに声を掛けたのは本当に偶然だったんですけど、まさかその山下さんが虐待を受けた子を育ててるなんて、まるで彼女が私たちを山下さんに引き合わせてくれたんじゃないかって気がしてます」
亡くなった人が引き合わせてくれたっていう話はともかくとしても、二人が沙奈子に対してすごく気を遣ってくれる理由が、これでようやく分かった気がする。
社員食堂でこんな話をしてて、しかも女性二人が泣いてるのに、周囲はほとんど僕たちに関心を抱いてないようだった。まるで僕たち三人だけで話をしてる感じだった。でも、無関係な人にとってはそういうものなんだよな。今はむしろその無関心さがありがたかった気がする。そのおかげで、しっかりと伊藤さんの話を聞けたんだから。




