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僕に突然扶養家族ができた訳  作者: 太凡洋人
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七十四 沙奈子編 「忌引」

今日からまた、一週間が始まる。心配して安心してっていう毎日が始まるんだと思うと、不思議な感じがする。だけどこれが大事なんだって僕は自分に言い聞かせてた。


向かい合った沙奈子の表情を見ると、すごく穏やかで柔らかい印象を受けた。良かった。落ち着いてるんだって思う。学校が始まるまでにこの状態に戻れたのは本当に助かった。でないと心配で心配で仕事に集中できなかったかも知れないし。


いつもの通りにトーストを2枚食べたのを見届けて、食欲も問題ないなって確認する。歯磨きも済ませて、僕が仕事に出るまでに彼女は学校に行く用意を全部済ませた。後は時間が来たら集団登校の集合場所に行くだけだ。その決められたパターンを今日も守ってくれた。これで心配事が少しだけ減って、僕は無理なく家を出ることができた。


バスの中で、ふと、今月最終の土曜日に運動会があることを思い出した。その前には参観日もある。今度の参観日には出たいと思って有給も取った。だけどその参観日は少し面白い感じだった。一日のどの授業の時に見に行ってもよくて、しかも最終が5時間目でそれは避難訓練になってて、さらに災害時に保護者が学校に子供を迎えに来て引継ぎをするっていう体裁で、保護者と一緒に帰るっていう形になってた。


有休を取ってるからいつでも行けるけど、いつ行こうか。いっそずっといてもいいかなと思ったり。でもそれだとさすがに邪魔になるかなと思ったり。だから2時間目くらいに行って、それから5時間目にまた行く感じになるのかな。


個人懇談には行ったことあっても、参観日に行くのは初めてだ。学校での沙奈子の様子を垣間見るいい機会だと思う。でも、そういうのって、子供の方にとってはしょっちゅうあることじゃないから、実際にはいつも通りの態度じゃないかもって思ったりもする。


沙奈子もそうなのかな。普段どおりの学校での様子を見せてくれるのかな。見せてくれたらいいなと思いつつ、やっぱり意識しちゃうだろうからそうじゃなくても仕方ないか。


あと気になるのは、石生蔵いそくらさんのことだ。どんな子か、少しだけでも見ることができるかな。沙奈子の説明だけだと、どうしてもイメージが湧きにくいし。


ただ、石生蔵さんの保護者の人と顔を合わせることになるかも知れないと思うと、ちょっと気まずいかなって感じもしてしまう。とは言え、まだ二週間以上先の話だから今からあんまり気にしてても意味ないか。


そんなことを考えてるうちに会社近くのバス停に着き、僕はバスを降りた。


いつも通りにオフィスに入ったのに、なぜか中の雰囲気がいつもと違うことに僕は気が付いた。何かあったんだろうかと思ってると、同僚の会話が耳に入ってきた。その瞬間、僕は言いようのない気分に陥っていた。体が、ずん、と重くなって硬くなる感覚だった。その話の内容を信じたくなくて現実感さえ無くなっていく。


それは、僕の隣の席の、確か英田あいださんっていう人のお子さんが交通事故で亡くなったらしいという話だった。それで英田さんは忌引きを取って今週ずっと休みになるということだった。だけど同僚たちが気にしてるのは、英田さんのお子さんが亡くなったということよりも、英田さんが休むのが迷惑だということのようだった。


僕にはそれが信じられなかった。人が亡くなってる。それも、子供が亡くなってるっていうのに、それで会社を休むのが迷惑って、何を言ってるんだと思った。お前らには人の心ってものがないのかって、怒りさえ込み上げてきた。


だけど…うん、そう、だけど、思わず食って掛かりそうになったのと同時に、僕は気付いてしまった。それはちょっと前までの僕も同じだったはずだ。誰が亡くなっても、それがたとえ小さな子供でも、僕にとってはただの他人事で、どうでもいいと思ってたはずだ。今、こんな気持ちになってるのは、英田さんと自分とを重ね合わせて見てるからに違いなかった。亡くなったお子さんと沙奈子を無意識に重ね合わせてるから、こんな気持ちになってるだけのはずだった。


そうだ。僕も、自分の立場が変わったから英田さんの気持ちが分かるような気になって、それで感情的になってるだけのはずなんだ。ほんの何ヶ月か前なら、僕もこの同僚たちと同じように思っていたかも知れない。そんな僕がなんで同僚たちを責められるって言うんだ…。


僕は自分の席に着き、いつものように仕事の用意を始めた。でも、いつものようにはできなかった。隣の席とはいえ、僕は英田さんとは仕事のこと以外でほとんど会話も交わしたことが無かった。英田さんも、仕事のこと以外で僕に話しかけてくることはなかった。ほんの数十センチの距離に何年か一緒にいたのに、僕は英田さんの名前すら曖昧にしか覚えてなかった。でもそれは英田さんも同じかもしれない。なのに、今まで気にもしてなかったのに、つい視線が英田さんの席に向いてしまう。英田さんが今、どんな気持ちでいるのかというのが勝手に頭の中によぎって、胸が苦しくなる。


ほんと、僕ってなんていい加減で身勝手な奴なんだろうな。先週金曜日の退社時までは気にもしてなかった人のことを、今頃になってこんなに意識してる。しかもそれが、子供が亡くなったなんて辛すぎることをきっかけにしてようやくだなんて…。


英田さんは僕より後で中途採用で入社した人だけど、年齢は僕より少し上だった気がする。30代前半くらいだったかな。だとしたらお子さんはまだ小さいはずだ。せいぜい沙奈子と同じくらいじゃないかな。お互い、プライベートの話なんか一切しなかったから、そのお子さんが男の子か女の子かさえ僕は知らない。それどころかお子さんがいたことすら知らなかった。


そうだよな。僕のぜんぜん知らない人でも、家族がいて、人生があって、生きてるんだよな。隣の席の人のことをここまで知らないっていうのはさすがに変だとしても、たまたま道を歩いててすれ違った人だってそうなんだ。ドラマやアニメに出てくる、名前すらないモブじゃないんだ。


子供が亡くなったっていう話を他人事の様に考えてるこの同僚たちにだって家族がいて人生があって、生きてるんだ。常に自分の家族でもない人の気持ちを感じ取って同じように苦しんでたら、きっと人間は正気ではいられない。人の死や不幸や苦しみはいつでもどこでもこの瞬間だってどこかに存在してる。それら全部に共感してたら、安らかな気持ちになれる時なんて無くなってしまう。ある部分から先は<他人事>として自分には関係ないこととして切り離せるから、幸せを感じることだってできるんだ。それは紛れもない事実だ。


ただ、名前も顔も知っていて、ほとんど毎日のように同じ場所にいる人に対してまったく共感できないっていうのもどうなんだろうとは思うけどさ。以前の僕も、その一人だったんだけどね。


それにしても、不幸ってやつは、こんなに突然に前触れなくやってくることもあるんだっていうのを改めて思い知らされてしまった気がする。僕は、毎日毎日、沙奈子が事故に遭わないかってことを心配し続けている。だから突然ってことにはならなくても、実際に起きてしまったら、僕は自分が正気でいられる自信がない。


今回、事故に遭ったのは沙奈子じゃなかった。だけどそれはたまたまに過ぎないっていうことを、僕は再認識させられてしまったのだった。


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