六十九 沙奈子編 「接吻」
気を取り直して、買ってきたものの片付けを始める。タグは全部切り取って、四角いフライパンはキッチンに。鉛筆や消しゴムやのりは机の引き出しに、沙奈子の服は沙奈子が自分でクローゼットの引き出しに、大事そうに仕舞った。
夕食の用意を始めるにはまだ少し時間があるから、彼女を膝にしばらく寛ぐ。借りてきた本を読む沙奈子の様子を見てると、さっきのことはそれほど引きずってないような気がした。こうしていられたら大丈夫なようだ。
それにしても改めて思う。別にわざとストレスを与えなくてもこういう事があるんだから、やっぱりそれを経験としてその度に活かしていけばいいだけだと思った。
あと、沙奈子は痛みには強いけど、暴力的な雰囲気にはすごく弱いのかもしれないと感じた。もしかしたらこれってフラッシュバックってやつなのかなとも思う。あまり頻繁に起こるようだと、病院に行く必要があるかもしれない。注意して見ていかないといけない気がする。
そうやって寛いで完全に落ち着いた頃、二人で夕食の用意を始めた。今日はまた餃子だ。いつか手作りのにも挑戦できたらいいなと思いつつ、たぶんそれは実現しない気もしていた。僕の方にそのモチベーションが無いから。ただ、沙奈子がやりたいって言い出したら、もしかしたらということもあるかも知れない。
二人でフライパンを見詰めタイミングを計る。ここだ、っていうところでお皿にかえす。よし、今回もいい感じだ。昼に炊いてあったご飯の残りを温めて、夕食にする。
沙奈子の様子はと見ると、まあまあいつも程度には食欲もあったみたいだから、その点でも心配はなさそうだ。でもいつもほど笑顔が無い気もするのは少し心配だった。
夕食の後は一緒に風呂に入った。やっぱり彼女が自分で体を洗ってる間に頭を洗ってあげる。リンスも済まして湯船に浸かり、二人してだらけ切った。こうやってリラックスして何とか早く本来の彼女に戻ってほしいと願った。きっかけは僕自身だったことは反省しつつも。
風呂から上がると今日は自分で体を拭いてくれた。おむつも自分ではいたし部屋着も自分で着てくれた。だから、買い物の帰りにあんなことがあっても昨日よりはマシになってるんだと思った。だからこそ、僕がああいう態度を取ってしまったことが彼女にとってそれだけショックだったんだって思えて胸が苦しくなった。
その一方で、事情を知らない他人がやることまではどうすることもできなくても、僕自身の振る舞いについては僕が何とかすればいい話だと言える気もした。だから、自分でどうにかできそうな部分が沙奈子にとって重要なんだってことは僕の力が及ぶ範囲がそれだけ広いんだと考えて、逆にいいように捉えるべきかもしれないとも考えた。
そうだよな。悪い方にばかり考えてても問題は解決しないよな。沙奈子だって頑張ってるんだ。僕ももっと頑張らなきゃ。心の中でそう気持ちを入れ替えた。だけどそれですることといったら二人で寛ぐだけなんだけど。
沙奈子はまた僕の膝に座って、宿題の日記を書き始めた。今日はどんなことを書くのかと思ったら、ポシェットと小銭入れと服を買ってもらったことを書いてた。嫌なことは思い出したくないのか書かなかった。思えばこれまでも、沙奈子がネガティブなことを日記に書いてるところを見た気がしない。海に行った時に伊藤さんと山田さんのことに触れなかったのも、それかもしれない。彼女は嫌なことから目を逸らすことで耐えようとする癖がついているのかもしれないと感じた。
そういうのもストレスとかに耐える方法だと思うし、まさに僕がしてきたのと同じことだ。だけどそれは根本的な解決にはならないのを僕は知ってる。それで済むものもあるのは確かでも、全てがそうとは限らない。僕のところに沙奈子がやってきたことなんてまさにそうだ。僕がそれから目を背けて見ないふりをしていたら、今頃どうなっていたか…。
それを考えると、沙奈子の日記もこれからは注意して見ないといけない気がした。
日記を書き終えてそれをランドセルに仕舞い、僕の膝に戻って人形を前に今度は本を読み始めた。ジグソーパズルは机に立てかけて飾ってある。今はとにかく、こうやっていつもの感じを取り戻すのが大事なのかな。
平穏な時ならこうしてると眠くなってきたりもするのに、今日はさすがにそういう気配もない。沙奈子が日記に書いてた、『なにもないいい一日でした』の言葉の重さを実感する。今みたいなのはぜんぜん幸せという感じがしない。何もない平穏な一日だったからこそ幸せだと思えるんだってつくづく気付かされた。しかも間が悪い時ってあるんだっていうのも改めて思い知らされた。
今日はもう、このままゆっくり過ごそうと思う。今日一日の人生のイベントとしてはもう十分。下手なことはしない方がよさそうだ。明日は明日ですることはあるし買い物にも行くつもりだけど、それは明日の話だから。
彼女と一緒に、僕も借りてきた本を読む。歴史小説だった。別に好きだから借りてきたわけじゃない。なんとなく読みごたえがあって時間を潰せそうだと思ったからだ。
ページをめくるのが少し大変だと思いつつ、読み進めていく。ただ、正直言ってあまり頭には入ってこなかった。それよりはどうしても沙奈子の様子が気になってたし。
だけどその後は特に心配になるような点もなく、10時頃には彼女もあくびをし始めたから「寝ようか」って聞いたら「うん」と答えてくれた。
沙奈子がトイレに行ってる間に布団を敷いて、寝る用意をする。トイレから彼女が戻ると入れ替わりに僕もトイレに行った。用を終えて出てくると、今日も人形をタオルの布団に寝かせてる彼女の姿が見えた。昨日はそれどころじゃなかったからか、やらなかったことだ。そういう細かいところに沙奈子の心理状態が出てると思った。
照明を消して布団に横になると、今日もまた僕の腕を枕にしてぴったりと寄り添ってきた。
「おやすみ」
そう言いながら僕は、ほとんど無意識に沙奈子の額にキスをしてた。すると彼女はハッとした表情を見せた後に目を細めて、照れくさそうに少しモジモジしながら微笑んでるように見えた。明るいところで見たら顔が真っ赤だったりしたかもしれない。でも僕は、生まれて初めてそんなことしたのに、しばらく自分でもそのことに気付いていなかった。それくらい自然に出た仕草だった。
珍しくしばらくモゾモゾしてた沙奈子の動きが止まってやがて静かに寝息を立て始めてようやく、僕は自分がしたことに気付いた。今度は僕が照れくさくていたたまれない気分になった。おやすみのキスとか、まるで外国の映画だと思った。だけど彼女が嫌がってるんじゃなかったら別にいいか。
ただその後、毎日おやすみのキスをせがまれることになるとは、この時の僕は全く気付いていなかったのだった。




