六十七 沙奈子編 「小遣」
昨日から今朝にかけての様子にすごく心配してた僕だったけど、起きてからの沙奈子は意外なほどいつも通りだった。ただ、いつも以上に僕のことを見てくる気はする。それ自体は気のせいだとしても、彼女が普通っぽくしてることで安心はできないと僕は思った。
沙奈子はとても我慢強い子だ。だから少々辛いことがあっても我慢してしまう。昨日の彼女の様子だって、僕が気付かなかったらそのままだった可能性もある。変に触れずにやり過ごすという方法もあったのかもしれない。だけど僕にはそれが正解だとは思えなかった。そうやって彼女の気持ちに気付かずに見過ごして、気付いても気付かないふりをして、それで本当に大丈夫と言えるのだろうか。
とてもそんな感じはしない。それは問題の種を溜め込ませるだけとしか思えない。それに、沙奈子には自分の気持ちを正直に表に出すということを出来るようになってもらう必要もあると思う。辛いこと、苦しいことを溜め込むだけ溜め込んでそして爆発ってことになる方がきっと大変だと思う。
誰彼構わず正直な気持ちをぶつけるのが正しいとは言えなくても、少なくとも僕相手には、それを吐き出していい相手には素直に吐き出せるようになった方がいいんじゃないかな。
そのために、僕は、正直な気持ちを吐き出しても大丈夫な相手だと沙奈子に思ってもらう必要がある気がしてた。これまででだいぶんそう思えてもらってた気がするけど、まだまだ足りなかったのかもしれない。他人の信頼を得るっていうのは簡単じゃないなって改めて感じた。
とは言え、掃除も洗濯もいつも通りに終わらせて、いつも通り勉強もやって、いつも通りに2人で寛いでっていう様子の中では、今朝までのことがまるで嘘みたいに普通だった。
このままいつも通りにするべきなのか、それとも僕の方から今の素直な気持ちを聞き出すべきなのか…。分からない。どうすればいいんだろう。判断がつかないまま、時間だけが過ぎていく。でも、昨日だって沙奈子の様子がおかしいことに僕は気付いたんだから、そういうのを見逃さないようにすればいいのかもしれないとも思った。今はそうするしかない感じかな。
僕は彼女の微妙な変化も見逃すまいと、注意していた。でも昼前になっても、特に気になる様子は無かったと思う。その時僕はふとあることを思い付いた。変化が無いのなら、ちょっとした変化をこっちから与えてみるのはどうだろうか。少しだけいつもと違う状況を作ってみることで、どう反応するのか見るっていうのは、ありなんじゃないか。
そう思って僕は、昼食の用意を始めようと立ち上がったついでに言った。
「沙奈子、今月からお小遣いを渡そうと思う。はい、まずは500円」
ポケットに入れてた小銭入れから500円玉を出して、彼女に渡す。すると沙奈子は、それを受け取りながらも呆然とした顔で僕を見詰めた。意味が分からないという感じの表情だった。
「それは沙奈子が自由に使っていいお金だよ。おもちゃでもお菓子でも。好きに使っていい。でも渡すのは一ヶ月に一回だから、ちゃんと自分で考えて大事に使ってね」
僕がそう言うと、彼女は500円玉を握り締め、その上で大事そうに胸に抱き締めた。自分の手の中の500円玉を見詰めるような沙奈子の表情は、どういう意味のものなんだろう。正直、判別できなかった。だけどその後で彼女は、受け取った500円玉を持ってクローゼットの前に座って、自分の服が入ってる引き出しを開けて、そこに500円玉をそっと仕舞ったのだった。
…あ…。
その様子を見て僕は思い出した。沙奈子用の財布がまだなかったんだ。何やってんだ僕は。
けど、同時に別のことも考えてた。受け取った500円玉を簡単に服のポケットに突っ込んだりせずに引き出しに仕舞うとか、そこにも彼女の性格が表れてる気がした。もしかしたら、いや、この反応からしたらもしかしなくてもお小遣いをもらったのは初めてで、だからその初めてもらったお小遣いを大事にしたいっていう気持ちがあるのかもしれない。そうだ。この様子、僕が初めて沙奈子に服を買ってあげた時の様子に似てる。あの時も彼女は、大事そうにあの引き出しに服を仕舞ったんだ。
財布も買ってあげなきゃと思いつつ、僕はそういう風にできる彼女を改めてすごいと思った。自分が大事だと感じたものをちゃんと大事そうにできるのは、簡単そうでつい忘れがちになるもののような気がする。しかもその様子を見る限り、彼女の精神状態みたいなものは、今のところはそんなに深刻じゃない気がした。ショックだったのはもちろんそうだとしても、とりあえず彼女が普通にしようとしてる限りは普通にしてていいんだって感じた。
そう思うと僕も何だか気が楽になった感じだった。そこで改めて昼食の用意を始めた。もちろん沙奈子にも手伝ってもらって。
今日の昼食は、またスクランブルエッグにしようと思った。これを何度か沙奈子にやってもらって、それから今度は卵焼きに挑戦してもらう予定だった。今日はまだ、卵焼き用のフライパンが無いし。つい、買うのを忘れるんだよな。だから今日こそ買わなくちゃと思って、沙奈子に卵を溶いてもらってる間に今日買い物する予定のものをメモを書いてポケットに入れた。もちろん沙奈子用の財布も忘れずにメモしてね。
すると彼女は卵を溶き終わって、フライパンを温め始めようとフライパンを用意してるところだった。今はまだ僕の許可が無いとコンロのスイッチを触ってはいけないことにしてるから、僕の許可をもらおうと視線を向けてきた。
「いいよ。火を点けて」
僕がそう言うと、慣れた手つきで火を点ける。
その後は前回と同じようにしてあっさりとスクランブルエッグは完成した。それを慎重に皿に盛って、コショウを振りかける。そこにやっぱりプチトマトと煮干しを添えて、テーブルまで運んだ。そこまで全部、沙奈子が自分でやった。ただのスクランブルエッグだけど、料理と言うのもはばかられるような簡単なものだけど、彼女が自分でやったことなんだ。それは立派なことだと僕は思った。
「よくできたね」
僕が言うと、沙奈子はちょっと自慢気に「うん」と頷いた。
ご飯も用意して、2人で一緒に昼食にする。その時の様子を見ていても、特に変わったところは見られない。いつも通りで落ち着いてるように見えた。昼食を終えて2人で後片付けをした後しばらく寛ぐ。今日の沙奈子は久しぶりに本を読んでいた。あの着せ替え人形を前においてだけど。それからまた勉強をした。割り算だった。まだ決して早いとは言えなくても、僕が教えなくても自分でできるようにはなっている。充分進歩してると思う。
勉強が終わると、今度は買い物だ。そのついでにまた図書館に行って本を返して別のを借りてこよう。外出用の服に着替えて、普段用の僕のリュックに図書館の本を詰めて、さて出発だ。でも沙奈子はせっかくもらったお小遣いを引き出しに入れたままにしてる。
「お小遣い、持って行かなくていいの?」
僕が尋ねると、沙奈子は当たり前のように頷いた。初めてのお小遣いだからもったいなくて手を付けられないのかもしれないと、僕は思ったのだった。




