六十五 沙奈子編 「信頼」
30分くらい泣いて、沙奈子はようやく落ち着いたみたいだった。
「ごめんなさい…」
僕の肩に顔をうずめたまま、彼女はそう言った。
「ううん。僕の方こそ本当にごめん」
僕がもうちょっと幼かったら、二人で抱き合って泣いてたかも知れない。
「お風呂、入っておいで…」
いっぱい泣いて涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった沙奈子の顔を見て、お風呂でちょっとすっきりしたらいいと思った。すると沙奈子が、僕の手を掴んで少し引っ張るような仕草をした。え…、これってもしかして…。
「…一緒に入りたい?」
そう聞いたら彼女は小さく頷いた。
「分かった。一緒に入ろう」
自分がもう既に入ってたなんて、どうでもよかった。今の沙奈子にそう頼まれたら、一人で入ってこいなんてとても言えなかった。彼女を不安にさせたお詫びとしては軽すぎるくらいだと思った。
いつものように彼女が自分の体を洗ってる間に髪を洗ってあげた。最初に散髪に行ってから一回、散髪に行った。でもまた伸びてきてるその髪を見てそろそろ散髪に行くべきかなと思った。明日にでも行こうか。
シャワーでシャンプーを流して、リンスをする。それをきれいに流したら、一緒に湯船に浸かった。その時の沙奈子は、いつも以上に甘えてきてる気がした。僕に体を預けてじっとしていた。
風呂から上がっても、彼女は甘えん坊だった。僕がどこにも行かないと言ったのを確かめようとでもしてるのか、僕が拭いてあげるまで体も拭こうとしなかった。僕は、沙奈子のことを相談してた時に塚崎さんに言われたことを思い出していた。
『多くのストレスを抱えたお子さんは、大人を試そうとする言動が見られる傾向にあります。実際にどういうことをするかはそれぞれ違いますが、赤ちゃん返りのように甘えてくるものや、逆に悪戯や大人を困らせるようなことをしてどういう反応をするのかを見ようとするものが代表的なものだと思います。でもそれは、あくまで一時的なものです。そうやって大人を試して、それでもこの大人は自分を受け止めてくれると実感できればそういう言動は収まってきます』
そうか、これもそういうのの一種かも知れないと、僕は今の沙奈子の様子を見て思った。さらに塚崎さんはこうも言っていた。
『子供がそういう言動をしてきた時こそが、大人としての器が試されてるのだと考えてください。子供よりずっと長く生きてきてたくさんの経験を積んだことを活かして、自分が信頼できる存在なのだというのを示してあげてください。子供は確かにワガママな部分もありますが、信頼してる大人に対しては聞き分けが良くなるのも事実なんですよ』
思えば、自分からは積極的に何かをしようとしない沙奈子の大人しすぎる様子も、実は性格というよりは、塚崎さんの言うような大人を試そうとする言動の一種なのかもしれない。大人に良く思われようとするのなら、逆に大人が望んでることを積極的に自分からやろうとしてもおかしくないと思う。そうやって<大人にとっての良い子>を演じることが一番、大人にとって都合の良い子供でいられるもんな。
でも沙奈子みたいに自分からは何もしようとしない、自分の気持ちを積極的に表そうとしないのって、考えてみたら面倒臭いって思われる可能性の方が高い気がする。僕はたまたまそこまで思わないし積極的すぎない彼女みたいな子の方が合ってたから良かったというのはあっても、確かに僕だって大人しすぎる彼女に戸惑ってたのも事実だ。だからそれこそ、沙奈子が僕を試そうとしていたということなのかもしれない。
そして今も、これまでとはちょっと違う感じだけど、『どこにも行かない。沙奈子とずっと一緒にいる』と言った僕を試そうとしてるのかもしれないと思った。
それを単なるワガママだと切り捨てる人もいるだろう。それを許してたら子供が調子に乗ると思う人もいるだろう。だけど僕にはそうは思えなかった。これまで散々、大人の感情に振り回されてきた彼女にとってそういうことをするのは、一種の賭けなんじゃないかな。そうやって僕の機嫌を損ねたら結局また辛い思いをするのは沙奈子自身なんだ。彼女にだってそれくらい分かる筈なんだ。
なのに敢えてそういうことをするのは、彼女がそれだけ僕を信頼してくれてるからだと思う。そのくらいなら大丈夫かも知れないって感じてくれてるんだと思う。
もしそれが間違ってたら…?。
その時は、彼女自身が辛い思いをするだけだ。僕の機嫌を損ねて苦しい思いをするだけだ。そんなリスクを冒すメリットが彼女にあるとは思えない。だから僕は、今は沙奈子の甘えを受け止めようって決めた。もしそれで今後、彼女が調子に乗ってると感じたら、その時はちょっぴり釘を刺させてもらうことになるかもしれないけど。
だけど何となく、根拠はないけどその心配はあまりないような気もしてた。もしそんな風に調子に乗るような子だったら、もう今まででもっと調子に乗ってていいはずだもんな。
体を拭いてあげたら今度は服を着ようとしないので僕が着せてあげた。まるで赤ちゃんみたいだと思った。ああそうか、これって一種の赤ちゃん返りってやつなのかな。
それからいつものように沙奈子を膝に座らせて寛いだ。彼女は人形にもジグソーパズルにも手を出さずに、僕に体を預けて目をつぶってる感じだった。僕がそこにいることをしっかり確かめようとするみたいに、黙って体を預けてた。
そうだよな。信頼もしてない大人に彼女みたいな非力な子供がここまで無防備になることないよな。信頼してる、信頼したいと思ってるからこそこんなことができるんだよな。でないと、それこそ何をされるか分からないってのは、彼女が一番知ってるはずだから。僕は、その彼女の信頼に応えられる大人でありたいと改めて思った。
僕がそっと抱き締めると、沙奈子は一層、僕に体を預けてきた。彼女の体温と鼓動が伝わってくる。今、彼女がすごく落ち着いてるのが分かる。それはこうしてるのが僕だからなんだと思う。それを感じると、僕自身もすごく気分が落ち着いてくるのが分かった。
すやすやと眠る赤ちゃんを抱いている時のお母さんの気持ちが分かる気がした。沙奈子は今、赤ちゃんになってるのかもしれない。赤ちゃんから自分をやり直そうとしてるのかもしれない。そんな気さえした。
彼女の頭を柔らかく撫でながら、僕は今日起こったことを思い返していた。
本当に驚いた。もちろんこういうこともあるって予測はしてたつもりだけど、でも所詮は頭で考えてるだけのものでしかないっていうのを改めて思い知らされた感じだ。
これからも彼女がヤキモチを焼いて拗ねたりすることはあるんだろうな。だけど今回の経験から学べてたら、今度そういうことがあってもこんなに慌てることもない気はする。
僕が沙奈子の感情とか気持ちとかを受け止めてあげられたら、彼女自身も自分の感情や気持ちと余裕をもって向き合えるんじゃないかな。そうすることで、自分の感情や気持ちがどんなことを起こすのかを学べるのかもしれないと、僕は思ったのだった。




