六十四 沙奈子編 「葛藤」
家に帰ってきてもいつもの様子に戻らない沙奈子に、僕も戸惑っていた。最初の頃の、僕に対して警戒心を抱いてる感じの距離感ともまた違う壁が、彼女の周りに張り巡らされてる気がした。この子がこういう態度をとるのは初めてのような気がする。だから僕も、どう対処していいのか分からなかったんだ。
とりあえずは変に取り繕うよりは少し間を置いて、沙奈子が落ち着いた頃を見計らって少しずつ話しかけるようにしようと思った。
だけど、人形にもジグソーパズルにも触れようとせずに、来たばかりの頃と同じように部屋の隅に膝を抱えて座って微妙に僕から視線を逸らして、どこを見てるか分からない目を真っ直ぐ正面に向けていた。
空気が、沈黙が、重くて痛い。
もちろんお互いにおしゃべりな方じゃないから最近だって沈黙は通常なんだけど、その沈黙の質が違うんだ。最近のそれは柔らかくて穏やかで温かい感じなんだけど、今、この部屋に満ちてるそれは、硬くて、トゲトゲしくて、冷たいんだ。
最初の頃はこんな感じだったのかな。いや、やっぱりその頃のとも違う気もする。硬くて冷たい感じはあった気はするけど、少なくともトゲトゲはしてなかったように思う。どうしたらいいんだ、これ…?。
だめだ、分からない。頭が混乱して考えがまとまらない。こういう場合に何をどうすればいいのか、僕は知らない。たぶんヤキモチってやつだと思うんだけど、そのヤキモチっていうものに対してどう接すればいいのかが僕には分からないんだ。
こういう時どうすればいいのか、女性と付き合ってきた経験のある人なら分かるんだろうか。女性と付き合った経験があったら分かるんだろうか。それすらも分からない。
そんな風にうろたえていたからか、自分がまだ夕食を食べてなかったこともすっかり忘れてた。スーパーで弁当でも買おうと思ってたのも忘れてた。仕方なく買い置きが残ってた素麺を茹でることにする。
「沙奈子も、素麺食べる?」
って聞いてみたけど、返事がない。聞こえてるはずだけど、反応自体が無い。
『へんじがない。ただのしかばねのようだ…』
何て頭に思い浮かべてみてネタにしようとしてみたけど、駄目だった。何だこれ。怖い…。
感謝の気持ちを表すことすら許さないなんてなんか違うんじゃないかとか思ったりもしたのも、もうそれどころじゃなかった。沙奈子の体から、負のオーラのようなものが放たれてる気さえする。もしかしてこれが、彼女の中にある暗い感情ってやつなのかな。
…そうだよ。それがもし彼女のそういうものだとしたら、僕はそれを受け止めてあげようって決めてたじゃないか。何度も覚悟を決めてたじゃないか。今こそその決意を態度で示す時なんだ。でも、それって具体的にどうすればいいんだろう。何となく覚悟を決めてたつもりだったのに、具体的にどうするかっていうのを全く考えてなかった。ものすごく抽象的で曖昧に『その時が来たら何とかしよう』って思ってただけだった。
僕は打ちのめされていた。自分の甘い考えに。そのせいで上の空になって素麺が吹きこぼれてしまって慌てたりもした。みっともないと自分でも思う。茹ですぎてふやけた素麺の味も分からなくて気にせず食べられたことだけは良かったけど…。って、そうじゃないだろ。
数ヵ月ぶりかなって感じの味気ない夕食を終えて、僕は風呂に入ることにした。
「一緒に入る?」
そう聞いてもやっぱり返事は無かった。仕方なく僕は一人で風呂に入った。
風呂から上がって、「沙奈子も入ったら?」って言っても彼女は反応しようともしなかった。それで僕は一人で座椅子に座ってノートパソコンを開いた。することが無くてブログの更新でもしようかなと思ったからだった。だけど何も書けなくて、時間だけが過ぎて行った。
するとだんだん、僕の中で何かが変化していくのを感じた。おろおろしてる自分が情けなくて、何だかだんだん腹が立ってきた。そしてそのイライラは、原因になった沙奈子に対しても感じ始めてた。
そうだよ。何で僕がこんなにうろたえなくちゃいけないんだ。だいたい、お世話になってる人に感謝の気持ちを表すことの何が悪いんだ。それっておかしいだろ。間違ってるのは僕じゃない。沙奈子の方だ。ここは大人としてバシっと言わなくちゃいけないんじゃないか?。
そう思った瞬間、僕は、
「沙奈子!」
って声をあげながら彼女を見た。大人として、彼女を叱る為に。
だけど、その僕の目に映ったのは、ビクッと飛び上がりそうなくらい体を委縮させて、怯えた目で僕を見る沙奈子の姿だった。あの、ラーメン屋で歯を見せてもらおうとした僕に、必死で『ごめんなさい、ごめんなさい』と何度も謝った時のそれと、同じ姿だった。
……あ…。
それを見た僕は、頭が真っ白になるのを感じた。真っ白になりながらも、頭のどこかで、何かが違うって感じてた。そうだよ。違う。これは違う。僕は今、大人として沙奈子を叱ろうとしてるんじゃない。ただ自分が腹が立ったから、その感情を彼女にぶつけようとしただけだ。
そのことに気付いて、僕はまた腹が立ってきた。今度は沙奈子に対してじゃない。さんざん大人の身勝手な感情に振り回されて苦しめられてきた彼女に、そんな身勝手な大人たちと同じことをしようとした僕自身にだった。それで思わず、僕は殴ってしまっていた。他の誰でもない、僕自身を。
ガツンという衝撃で一瞬頭の中がシェイクされて白紙に戻して、改めて考えをまとめ始めた。ふと見ると、沙奈子の目は、さっき見せた怯えたものじゃなくなっていた。不安そうなのはそうだけど、怖がってるとかというより、驚いているというか…ううん、そうだ、これは、僕のことを心配してくれてる目だ。
「あ…、大丈夫。ごめん、びっくりさせて」
今度は沙奈子がおろおろする番だった。何をどう言っていいのか分からなくてパニックになってるのが分かった。その沙奈子の前で正座して、その上で前屈みになって、視線の高さを沙奈子に合わせて、僕は静かに言葉を並べた。
「沙奈子、聞いてほしい。今日、スーパーで見てたのは、お世話になった人に対するお礼の品物なんだ。それだけなんだよ。本当だ」
彼女は何とも言えない表情で僕を見た。僕はさらに続けた。
「沙奈子に、伊藤さんと山田さんのことを好きになってほしいとは言わない。だけど、それと僕があの二人にお世話になってることは別の話なんだ。僕が伊藤さんと山田さんにお礼をしたいという気持ちを変えることはできない。それは分かってほしい」
そう言うと、沙奈子は視線を逸らした。どう表現していいか分からない複雑な表情のままで。
「もしかして、僕をあの二人に取られるとか思ってる?」
「……」
沙奈子は目を逸らし黙ったまま、小さく頷いた。その目が何だか潤んでるように見えて、僕は胸が苦しくなった。
「大丈夫。僕は沙奈子のものだよ。どこにも行ったりしない。沙奈子が僕と一緒にいたいと思ってくれるなら、ずっと沙奈子と一緒にいる。僕は伊藤さんや山田さんとお付き合いしようとか思ってるんじゃないんだ。ホントにお世話になったことのお礼がしたいだけだよ」
沙奈子は目を伏せ、僕は彼女をじっと見詰めた。ただ黙って見詰めた。長いような短いような沈黙が続き、そして不意に沙奈子が動いた。黙ったまま僕の肩に顔をうずめて、動かなくなった。僕はそんな彼女をそっと抱き締めた。そしたら小さな体が微かにふるえて、やがてひくっひくっとしゃくりあげ始めた。
「ごめん。不安にさせちゃったんだね…でも本当に大丈夫だよ。僕はどこにも行かない」
声をあげずに泣く沙奈子の背中を、僕はとんとんと柔らかく叩いていた。




