五十二 沙奈子編 「適性」
その日俺は、学校でケンカをした。ケンカで俺が負けるはずない。だって、俺は大人からものすごく殴られてきたんだから、それに比べたら子供のパンチなんか屁でもないからな。
それでオバサンが学校に呼び出された。先公から『よく言い聞かせてあげてくださいね』とか言われてペコペコしながら謝ってた。何でそんなに謝ってるのか俺には分からなかった。そんなに謝らなきゃいけないことかよって思った。
家に帰ってからも、オバサンは俺に怒ったりしなかった。オバサンから話を聞いたオジサンも、怒らなかった。気持ち悪いと思った。これで怒らないとか、ありえないだろって思った。俺だったら絶対殴ってるぞ。だから聞いてやったんだ。
「なんだよ。何で俺を怒らないんだよ。何で殴らないんだよ。殴れよ。大人はこういう時は『お前みたいな奴は殴られなきゃ他人の痛みが分からないんだ』とか言って殴るんだろ?。殴れよ。それが正義なんだろ?」
でもオバサンは、何だか悲しそうな顔をして首を横に振っただけだった。
「どうしてあなたを殴らなきゃいけないの?」
オバサンが逆にそう聞いてきた。
「どうして、って…。だって、それが大人がいつもすることだから…。そういうもんじゃないのかよ…?」
どうしてって聞かれて、僕は頭が混乱した。そういうもんだって思ってたから、理由なんか考えたこともなかった。そしたらオバサンがまた言った。
「あなたはこれまでいっぱい殴られてきたじゃない。普通の人の一生分よりずっと多いくらい殴られてきたって、私は聞いてるわ。じゃあ、もうあなたは殴られる必要ないんじゃない?。あなたは、殴られたら痛いっていうことを誰より知ってるはずなんだから」
オバサンが何を言ってるのか、僕にはよく分からなかった。オバサンもオジサンも、僕が知ってる大人とはぜんぜん違ってた。何だか他の星から来たみたいだって思った。オバサンはまだ話してた。
「それに今度のことは、相手の子の方が悪いはずよ?。先生が言ってくれてたじゃない。相手の子が下級生の子をイジメてたから、それを止めようとしたんだって」
そう言えば、クラスの女子が先公にそんなこと言ってた気がする。さっきの先公の話なんて聞いてなかったからそんなこと言ってたかどうか覚えてないけど。でも、それは違う。僕は下級生を助けようとかそんなこと考えてなかった。そんなんじゃなくて、下級生をイジメてるそいつが僕を殴ってたあいつみたいに思えて、それでキレただけなんだ。それだけなんだよ。
「だけど、どんな理由があっても人を殴るのは良くないことなの。下級生のことイジメてたその子を止める方法なら他にも有ったはずなのに殴ったりしたのは、確かに良くないことだった。だから、あなたの保護者である私が罰を受けなきゃね」
「…え……?」
オバサンはそう言った途端、自分で自分のほっぺたを思いっ切り引っぱたいた。見た奴がドン引きするくらい、思いっ切りだった。そしたらオジサンまで。
「そうだな。小母さんの言う通りだ」
と言って、自分で自分をぶん殴ってた。何だよ?、何してんだよ!?。わけ分かんねーよ!?。
二人のほっぺたがものすごく赤くなってるのを見て、僕は本気でドン引いた。何なんだよこいつら?。
「あなたが誰かを殴ったら、その罰は私達が受けます。あなたのしたことが何を招くのか、よく見ていてほしい。人を殴るというのは、そういうことなの」
こいつら絶対、頭おかしい。イカレてる。僕はちょっとだけこいつらのことが怖いと思った。いやいや、ウソウソ、怖くなんかない。僕は大人なんて怖くないんだ。
だけど、何だか少しだけ、これからは殴ったりするのはやめようかなと思ってしまった。それで何日か後で、また同じ奴が下級生をイジメてるのを見て、今度はただ睨み付けてやったんだ。思いっ切り睨み付けてやった。そしたらそいつがまた殴り掛かってきた。でも今度は殴り返さなかった。すると今度はそいつだけがすごく怒られて、僕は逆に褒められた。
あ、なんだ、これでいいんだ…。
僕はそう思った。そうだよ。大人相手でも手を出させるようにしてたんだから、子供相手でもそれでいいんだ。そしたら怒られるのは相手だけで、自分で殴るよりずっと気持ちがいい。すっきりする。どうせ殴られるのには慣れてるから、平気だし。また他の日にも同じことがあって、そいつだけが怒られて、僕は褒められた。イジメられてた下級生からもお礼を言われた。
それから下級生をイジメてたそいつはすっかり先公に目を着けられて、いっつも見張られるようになった。それからそいつが下級生をイジメることは無くなった。当たり前か。いっつも先公が見てるもんな。いい気味だって思った。
逆に僕は、時々カッコいいとか言われるようになった。殴られてもへっちゃらで立ってるのがすごいって言われたりもした。そんなこと言われるのは何か変な感じだったけど、別に嫌ってこともなかった。
家に帰ったら、オバサンに、
「あなたは本当にすごい子ね」
って頭を撫でられた。気持ち悪いことすんなって思ったけど、言ったりはしなかった。目を逸らしてほっぺたを膨らましてやっただけだった。
…って、またか…。
またあの夢だった。沙奈子の勉強を見た後で、いつものように彼女を膝に座らせてのんびりしてたらいつの間にか眠ってしまってたようだった。
しかし、ここまでくると続きが気になる夢だと思った。50年後の沙奈子がどうやってあの結人を育てていくのか、気になってしまう。
でもそうは言っても、実際には僕の脳が勝手に作り出してる物語なんだから、全部僕の頭の中に入ってるはずなんだけどね。なのに不思議と、自分でも先がどうなるのかが分からない。今のところはすごく順調なようだけど。
順調と言っても、僕が夢の中の沙奈子の立場だったら、たぶん同じことはできないと思う。僕の脳が勝手に作り出してる沙奈子のはずなのに僕には彼女と同じ考え方ができないんだ。もし結人が本当の人間で、僕の前にいたら、彼女と同じことはとても言えない気がする。何だかすごく不思議だ。
僕のやり方や考え方はあくまで沙奈子のためだけのものなのかもって思ったりする。沙奈子以外の子だと上手くいかないかもしれない、っていうより上手くいく気がしない。
僕の膝に座って本を読んでる彼女と夢の中の彼女を重ねてみる。やっぱりすごく不思議な感じだけど、ありないことじゃない気がしてきてる。僕にはできないことで、彼女にはできることもきっとあると思う。だって僕と沙奈子は違う人間なんだから。逆に、沙奈子にはできなくて僕にはできることっていうのもあるかも知れないけどね。
そうだよな。人間ってそういうものだよな。すごいことはできなくても、それぞれできることはちょっとずつ違ってて、他の人じゃダメ、その人でなくちゃっていうことはあるのかも知れない。僕は沙奈子が相手じゃないと上手くできないけど、彼女は自分と同じタイプだと上手くできなかったりとかするかもとか思ってしまったのだった。




