四十八 沙奈子編 「気性」
『今日は、お父さんと一緒に掃除をしました。それから勉強したりしました。何もないいい日でした』
それが、沙奈子の日記の内容の定番だった。彼女の学校では、土日の宿題として日記が出されていた。でも最近の沙奈子の日記の内容は大体いつもそれで、本当に何もないから仕方ないのかもしれないけど、『何もないいい日でした』で締めくくるのが恒例になってる感じだった。
それに対して、以前、担任の水谷先生が、『特別なことが何もなくても幸せな日ってありますよね』と返事を書いてくれたことがあって、それでますます沙奈子にとっては<何もない日=幸せな日>という認識になったようにも見受けられた。
僕もそう思う。何か特別なイベントがないと幸せだと感じられないというのは、逆に不幸なんじゃないかとさえ思う。特別じゃないけど悪いことも起こらなかった。そういうのを幸せだと感じられれば、こんなに幸せなことはないって思う。
とか言いつつも、以前の僕は、何もないことを強く願っていながら、それを幸せだとも不幸だとも考えないようにしてきたんだけどね。それは決して幸せとは言えなかったと思う。沙奈子が来たことで、沙奈子に何も悪いことが起こらないのを願うようになったことで、何も起こらないことが幸せなんだって思えるようになったんだ。
だけどその一方で、本当に何もないとブログに書くことがなくってしまうっていうのも事実だった。幸せだとブログとか書けないっていうのは、ちょっと面白いと思った。
僕は他人のSNSとか見ないからよく知らないけど、ずっと愚痴とか不満とかを書き綴ってる人もいるらしい。それがSNSを続けるモチベーションになってる人って、愚痴とか不満とか書く必要がなくなってしまったら、どうするんだろう?。ネタの為に愚痴とか不満とか無理やりにでもひねり出すのかな?。愚痴とか不満とかを書くことでストレス解消のつもりなんだったら、書くためにストレスを探したりってことになったらそれこそ本末転倒じゃないかな。
まあ、他人が勝手にやってることを気にしても仕方ないけど、SNSにアップするネタのために犯罪までする人がいるっていうのも、怖い世の中だと思った。そういうのに巻き込まれないように気を付けなくちゃ。そして何より、自分がそんなことしたりしないようにね。だから余計にネットには入れ込まないようにしようと思ってる。
そういう意味でも、今後、沙奈子がネットとかするようになった時にどうすればいいのかっていうことも少し気になってる。やってほしくはないけど、僕もニュースを見たり情報を集めたりする程度には利用してるわけだから、一切するなとも言えないし。僕と同じで、今の幸せを壊したくないから入り込まないようにしようって思ってもらえるのが一番かなあ。
僕の膝で本を読んでる彼女の重さと温かさを感じながら、僕はそんなことをぼんやりと考えてた。ブログを書くために用意したパソコンは、ほとんど何もしないままスリープ状態になってた。そう言えば、スマホも昨日から確認してない。一応チェックしてみたけど、一件も着信とかなかった。いつものことだった。着信履歴もここしばらくはずっと水谷先生からので埋まってる。
午前11時。昼食にするにもまだ早いか。
本当にすることがなくて、僕はこのまま寝てみようと思った。沙奈子が膝に座ってる状態にもたいがい慣れた。厳密に言ったら膝じゃなくて、ゆるく胡坐をかいてるその中に彼女が座ってるわけだから、実際には僕を背もたれ代わりにして座椅子に座ってる感じなんだけどね。だから僕が感じてる彼女の重さも、もたれかかってる重さだったりする。
最初は本当に膝に座ってもらってたりもしたけど、やっぱり長時間は辛いし、何より彼女も収まりが悪くて座りにくそうにしてたから、あれこれ試した結果、今の形に落ち着いたんだよな。これなら、二時間くらい余裕だった。だから、目をつぶってボーっとしてたら、本当にいつの間にか眠ってしまってたのだった。
…オバサンとオジサンを怒らせようとするのには、もう飽きた。ぜんぜん怒鳴ったりとかしてこないあんなヘタレ相手にするのもメンドくさい。その代わり俺は、二人を徹底的に無視することにした。バカな大人から掠め取るために、もらえるものはもらう。だからご飯はもらう。こいつらと一緒にいなくて済むんなら、学校にだって行ってやる。
学校では、誰も俺に近付いてこないし話しかけたりもしない。ちょうどよかった。俺だってお前らの相手なんかする気ねーからよ。勝手に近付いてくるんだったら噛みついてやるよ。でも、誰も何も言ってこなくて、ムカつくことも言われなくて、クラスの様子も静かで、俺もあんまりイライラしたりとかしなかった。こんなこと、今までなかった。いっつも誰かがムカつくこと言ってきたりやってきたりするから俺も言い返したしやり返したし、ずっとイライラしてた。でもこのクラスのやつらは、俺のことなんか別に興味もないって感じだった。
この前、突き飛ばしてケガさせたやつも、どんくさくて俺の前でモタモタしてたから早くしろよって思って押しただけで、別にケンカとかする感じじゃなかった。オバサンとオジサンがそいつの親にすごくペコペコしてて、それで終わったみたいだった。ケガもそんな大したことなかったし。いちいち大げさなんだよ。俺がやられたことに比べたら、ハナクソ付けられたくらいのもんだろ。ヤワすぎ。
俺の父親とか言われてた奴なんて、俺の腕へし折ったんだぜ?。タバコの吸い殻が畳の上に落ちて焦げてたから『火事になんだろ!』って言ったら『親に向かってなんだその口の利き方ぁ!!』とかブチ切れて思いっ切り蹴りやがったんだ。そしたら腕が変な方に曲がってよ。俺はそんなに痛くなかったんだけど、母親とか言われてた奴が悲鳴あげやがって救急車呼んだんだ。それで病院に行ったら体中調べられて警察が来て、父親とか言われてた奴は逮捕だってよ。ホント笑ったよ。バカじゃねーの!?ってな。
それから俺は、そいつらとは会ってない。二度と顔も見たくなかったからちょうどよかったけどよ。養護施設ってところでずっといてた。そこへオバサンとオジサンが来たんだよ。
…って、またあの夢か…?。
そんなことをぼんやりと思ってた時、ふと何かの気配にハッとなると、沙奈子が振り向いて僕を見てた。ちょっと心配そうにしてる感じだった。
「ああ、ごめん。なんか気持ちよくて寝ちゃってた」
そう言ったら安心したみたいに微笑んだ。
しかし、まさか夢の続編を見るとか思わなかった。あんまりそんな経験もこれまでなかった気がする。よっぽど気にかかってたのかな。それか、もしかするとあの結人っていう子、僕が無意識に抱いてきた親や大人への憤りが具現化したものとか?。ありえない…こともないかもしれない。
もしそうだとすると、僕の中にもああいう激しい気性が眠ってるっていうことになるのか?。それは怖いな。認めたくないけど、親が相次いで病気で亡くなってもこれっぽっちも悲しくなかったことを思ったら、少なくともそういう冷酷な部分が僕にはあるっていうことだと思う。それに、沙奈子の傷痕に気付いた時の感情を考えても、その程度の激しさも持ってるんだって分かる。
これはやっぱり気を付けないといけないなと、改めて思ったのだった。




