四十五 沙奈子編 「調理」
痕が残っているのはこれだけでも、沙奈子がされたことはこれだけじゃないだろうっていう気はする。今後、もしかしたら彼女自身が何をされたか語ってくれることもあるかもしれない。でも僕は、どんなことがあっても受け止めてあげたいと思ってる。もっとも、そう思ってても実際にその時になったらどうなるか分からないのが人間かもしれないけど。
でも、何の覚悟もないよりはマシかもしれないと思いたい。今回の傷痕の件にしたって、こういうことはあったんだろうなって前もって想像してて、それでも、それだからこそ沙奈子のことをって思ってたからまだ冷静でいられた気もするし。
伊藤さんと山田さんとのことでも改めて知った。人は誰でもただ感情に振り回されて生きてるだけじゃないって。感情を出していいところと、抑えるべきところがあるって。沙奈子を守りたいと思えばこそ、それを忘れちゃいけないと思う。
と、こうやって毎日のように僕が自分自身に言い聞かせてる間にも時間は過ぎていくし、沙奈子は成長していく。今日は祭日。昼食として、彼女にスクランブルエッグを作ってもらった。
卵を割るのはもう任せておけるから、もし落としたりしても器が割れないように味噌汁用の椀に卵を割ってもらって、かき混ぜてもらう。さすがにそれはまだぎこちない感じだけど、沙奈子は一生懸命にやってくれた。
それからフライパンを温めていく。
「慣れてきたらフライパンを温めてる間に卵を用意すればいいと思うよ。でも、今はまだ焦ると危ないからね。ゆっくりやろう」
僕がそう言うと、彼女は頷いてくれた。
前にも言ったと思うけど、休日とかで時間が合うときはこうして二人で一緒に食事の用意をするのが日課になっていた。ただし、僕も料理は大してできないから、教えられることなんてほとんどなかったりする。それでも、ご飯が炊けて目玉焼きやスクランブルエッグができて味噌汁が作れたら、あとは本人のやる気とセンスさえあればいろんなことができる。…んじゃないかな。
まあその辺は僕も誰にも教わらずにテレビとか見ただけの知識で大人になってからやれるようになったから、沙奈子もそんな感じで行けるんじゃないかと思ってるのは、無責任かなあ。
そんなことを思ってる間にフライパンの温度も上がったみたいだし、いよいよ卵を投入する。
こういう時の彼女を見てると、大人しくて臆病そうに見える普段の様子とは少し印象が違って、意外と躊躇がないのが分かる。椀の中の卵を一気にフライパンにあけて、ジューッとかいってるのをちゃんと見てる。
「じゃあ、お箸でしっかりかき混ぜようか。ここでかき混ぜずに焼いたら卵焼きができると思う。でも今日はスクランブルエッグっていうのにするから」
スクランブルエッグにしたのは、溶いた卵を焼く火加減みたいなものに慣れてもらうっていうのもあったけど、実は卵焼き用の四角いフライパンがないからっていうのもあった。一人の時はわざわざ作る気になれなかったから買ってなかったんだよね。沙奈子と一緒に用意をするようになってからは買おう買おうと思って忘れてたんだ。でもまあいいかな、慌てなくても。
火加減はあえて弱火にして焦らなくてもいいようにしてある。この辺も、慣れてきてから本人が必要だと思えば挑戦すればいいんじゃないかなって思ってる。
最近、かなり自然に持てるようになってきた感じの箸でぐしぐしと卵をかき混ぜる沙奈子の真剣な様子に、なんだかホワッとした気分になる。
なんてことを思ってると、いい感じに卵がほぐれてきた。と思う。料理が上手な人が見たらいろいろ思うところはあるのかもしれないけど、別にいいよね。自分たちで食べるだけのものなんだし。
「よし、それくらいでいいと思う、お皿に移そうか」
僕に言われて、沙奈子にとってはまだ少し重いフライパンを両手に持って大き目のお皿に慎重にあけていく。無事にそれを終えて、そこにコショウを少しかけて、よし、完成だ。
「上手にできたね」
と言うと、彼女は少し自慢げに「うん」と頷いた。うちの食卓では定番中の定番のプチトマトと煮干しを盛り合わせて、テーブルに置いた。あとは沙奈子が炊いたご飯をよそって、惣菜として買ってきたコールスローサラダとコロッケも出して、今日のお昼の用意の完了だ。
一つの皿に盛ったスクランブルエッグを二人で分けて食べる。以前よりは上手になってきた気もするけど、器用と言うにはまだまだな箸遣いでスクランブルエッグや煮干しを取る彼女の姿を見てても、気持ちが落ち着く。いつまででも見てられる気がする。
「おいしいね」
って声をかけたら、彼女も「おいしい」って大きく頷いた。
昼食の後は、いつものように遅れてる勉強をやった。午前中は漢字をやって、今度は掛け算だ。でももう100ページあったドリルもそろそろ終わりだ。これが終わったら次は割り算かな。
最初のころに比べると明らかに計算が早くなってるのが分かる。進むペースが違ってる。一ケタの掛け算についてはもう十分に追いつけた気がする。九九だって、100均で買ってきた、水で貼り付ける九九のシートを風呂場に壁に貼って二人で声に出してやってたからか、今ではもうちゃんと言える。ついでに買った日本地図のシートと、アルファベットのシートも貼ってあるから、風呂場もすっかり子供のいる家庭のそれって感じがする。でも時々はがしてちゃんと洗わないとカビが生えるんだな、あれ。気を付けなくちゃ。
勉強が終わったら、沙奈子は僕の膝に座って本を読みながら寛ぐのがすっかり習慣になってた。僕にとってもすっかりそれが当たり前のことになってた。むしろ彼女が座ってないと何だか収まりが悪いっていう気すらする。そんな僕たちの様子を客観的に見たら何だか猿の親子が寛いでるみたいに見えるかもしれないとか思ってつい苦笑いしてしまう。それどころか、セットで一つの生き物って感じさえする。
僕の膝に当たり前のように座ってくる沙奈子。彼女はずっとこうしたかったのかなと改めて思う。それとも、以前はそんなことを想像することさえできなくて、僕と一緒に暮らすようになって初めてそうしたいと思ったんだろうか。別にどっちでもいいか。彼女がそれを望んでるんなら。
それとは別に、このころの沙奈子は石生蔵さんの態度にかなり慣れたみたいで家でも割りと落ち着いてたと思う。まさかこの直後に山仁さんの息子さんと石生蔵さんの間であんなことが起こるとか思ってもみなかったけど。
でもそれはそれでそうなるべくしてなったっていう風にも言えるのかもしれないな。だってそれをきっかけにして、沙奈子と山仁さんの息子さんと石生蔵さんとの関係が急速に良くなっていったんだから。石生蔵さんにとっても、自分がやっていたことを自分で理解するいい機会だったのかもしれない。それどころか、必要なことだった気さえする。
もっともそれは、結果としていい形に収まったからこそ、そう思えるんだろうなとは感じるけどね。




