四十三 沙奈子編 「過去」
沙奈子の痣に気付いた僕は、だけど沙奈子の前では努めてそれまでと同じようにしていた。ここで急に必要以上に腫れ物に触るようなよそよそしい態度になってしまうと、逆に彼女を不安にさせてしまうかも知れないと思ったからだった。でも、同じようにしてるつもりでも何か違ってしまっていたのかも知れない。そのせいかある時、
「だいじょうぶ…?。頭、痛い…?」
夕食の後で一緒に片付けしてた時、沙奈子が僕の顔を見上げてそう聞いてきた。
そうだよな。沙奈子はそうなんだよな。周囲の人間のその場の感情や気分に振り回されてきたから、そういうのに敏感になってるんだろう。
「うん、大丈夫だよ。お仕事のことで考え事してただけだから」
できれば沙奈子には嘘を吐きたくなかった。だけど今はまだ、上手く説明できそうになくてついそう言ってしまった。ごめん。
それにしても、自分も石生蔵さんとのことで大変かもしれない最中なのに、大丈夫って聞いてくれるとか、沙奈子はすごいな。それが彼女なりの処世術だとしても、やっぱりすごいと思う。
ただ、沙奈子みたいな感じのを、暗いとか陰気とか何考えてるか分からないとか言う人もいるんだろうな。実際、僕が中学生とかだった頃を思い出しても、今の彼女みたいな感じの子は、たいてい悪口とからかいの対象だったと思う。<幽霊>とか呼ばれてた子もいた気がする。そういうこと言われてる子がいても何もしてあげられなかったから、悪口言ったりからかったりしてた連中のことを責める資格は僕にはないと思うけど、沙奈子がそういうことを言われたらやっぱり嫌だな。
幸い、今の学校はそういうのを放置しないでいてくれるところみたいだから僕が見たような事にはならないかもしれないけど、中学とか高校とか、それこそ社会人になってからでもそういうことを心配しないといけない世の中って、何だか理不尽だなって思った。
僕はそういうのを一切スルーすることで乗り切ってきたけど、僕のやり方が正しいとは別に思わないし沙奈子に同じことをしてほしいとも思わない。ただ、辛いことがあったらそれを一緒に受け止めてあげることでだんだんと慣らしていければと思ってる今の僕のやり方で本当に大丈夫かなっていう心配も、実はあったりするのだった。
「山下さん。今の山下さんのやり方は、間違ってないと私は思います!」
は…はあ、そうですか…それは、どうも……。
敬老の日を含んだ三連休が明けた昼休み。いつもの様に伊藤さんと山田さんを前にしてた僕は、ふと、沙奈子がもし僕の元を離れて自立しても辛いことに負けないでいられるようにしてあげるには今の僕のやってる感じで大丈夫なのかなみたいなことを漏らした時、山田さんが食い気味にそう言ってきた。
「一緒に海に行った時に、山下さんと沙奈子ちゃんの様子を見て私は確信したんです。これはとっても素敵な親子の姿だって!」
普段は割と伊藤さんの方が前に出て山田さんはそれに続く感じだったのに、今回は彼女の方がすごく前に出てくる感じだった。何のスイッチが入ったんだろうって思った。
「沙奈子ちゃん以外の子だったらまた違うやり方があるのかも知れないですけど、少なくとも沙奈子ちゃんに対しては今の山下さんが合ってると思います!」
そこまで言って、山田さんは急に姿勢を正して、でも少しうつむき加減になって、話を続けた。僕も伊藤さんも、大人しくそれに耳を傾けた。そうしないといけない気がした。
「実は、私の今の母は、本当のお母さんじゃないんです。私が小学6年の時に両親が離婚して、父の再婚相手なんです。今の母とは、すごく仲が良いわけじゃないですけど、それでもそれなりには上手くいってて、その点では私も感謝してます。でも、私の実のお母さんは、一言で言ったらすごく感情的で自分に甘い人でした。ちょっとでも気に入らないことがあればすぐに癇癪を起こして大声で怒鳴って、それで自分の意見を押し通そうとする人でした。私はそんなお母さんが嫌いでした…」
そう話す山田さんは、これまでの印象とはすごく違って見えた。伊藤さんとセットではあるけど積極的で前へ前へとくる感じだったのが全然違ってて、何だか陰があって、そう、少し沙奈子にダブって見えた。
「小学生の頃の私は、学校では他人の言うことを素直に聞かない、すぐに悪い言葉で他人を馬鹿にして食って掛かる、先生とかから見れば、聞き分けのない生意気で扱いにくい子供でした。自分ではそんなつもりはなかったんですけど、今にして思ったらお母さんそっくりだったんですね。そんな感じだから、先生の間では問題児っていう認識だったと思います」
そうなんだ…。今からじゃぜんぜん想像がつかない。
「その頃は父もあんまり家庭を顧みなくて、仕事を理由に家に帰ってこないこともしょっちゅうでした。それで、その時に私のお父さんの代わりをしてくれてたのが、近所に住んでた叔父さんでした。叔父さんは保育士をしてて、子供の扱いに慣れてるっていうこともあって、私も叔父さんにだけは懐いてたんです。だから、山下さんのことがその叔父さんにちょっと被っちゃうんですよね」
そこまで話したところで山田さんはちょっとだけ笑った感じになった。どこか照れくさそうな笑顔だと思った。
「その叔父さんも山下さんと同じで、決して子供に対して怒鳴ったりしない人でした。怒鳴ったりはしないけど、でも、叔父さんの言うことだったら聞いてもいいっていう感じはあったんです。たぶん叔父さんが、私のことを認めてくれてたからだって思います。他の人は私のことをワガママだとか生意気だとか言うけど、叔父さんだけは『今はまだ上手にできないだけだよ。僕は絵里奈を信じてる』って言ってくれてたんです」
そう言った山田さんの目が、少し潤んでるように見えた。
「両親が離婚した時も、再婚した時も、私の話を聞いてくれたのは叔父さんだけでした。両親は私には何の相談もしなくて勝手にそういうこと決めて、私はただその家に飼われてるペットみたいな存在でした。叔父さんがいなかったら私はきっとグレてたと思います。って、高校の頃にはちょっとそんな感じになっちゃってましたけどね。だけどそんな時だって叔父さんだけは私のことを見ててくれて、そのおかげで完全に道を踏み外すことがなかったんだって思います。私にとって叔父さんが<お父さん>って感じですね」
そして、山田さんは今度ははっきりと笑顔になった。すごくいい笑顔だと思った。でもその次の瞬間に、ぐっと顔を僕の方に寄せて、声を潜めた。いつもの山田さんに戻った感じだった。
「その叔父さんが言ってたことですけど、怒鳴ることを正当化する親の子供って、すごく扱いにくいことが多いそうです。怒鳴られ慣れてるからなかなか言うことを聞いてくれないし、怒鳴られないようにするために嘘を吐く子も多いし、悪いことをしても言い訳ばかりして謝らないしって、何だか私のことを言われてるみたいですね。でも、つい怒鳴ってしまっても、それを子供にちゃんと謝れる人の子供は、ごめんなさいが言える子が多いそうですよ。保育士歴25年の叔父さんの印象だそうです」




