四十一 沙奈子編 「起点」
ゴールデンウイークも終わりの土曜日、突然、何年も音信不通だった兄が、自分の子供を連れて僕のアパートに現れて、
「悪い、こいつをしばらく預かってくれ」
と言って子供を置いていった。その子は小学校4年生の女の子で、その子がまだ赤ん坊の頃に一度会ったきりだったから、お互い殆ど初対面みたいなものだった。
嫌も応もなく兄がその子を置いてまた連絡を絶ってから約一カ月。僕は本当に途方に暮れていた。
幸いその子はすごく大人しくて、しかも自分のことはほとんど自分でできる子だったから、コンビニ弁当とかの食事とお風呂だけ用意しておけば後は自分で勝手にやってくれていた。
だけど僕だってそんなに生活に余裕がある訳じゃない。この子の生活費とか兄は一切払ってない。しかも、小学生だから学校にも通わせないといけないのに、僕はこの子が以前どこに住んでいてどこの小学校に通っていたのかも知らない。どうやって学校に通わせたらいいのかも分からない。
一緒にいるとそういうことをいろいろ考えてしまって息が詰まるから、何だか家に帰るのが億劫になって、あの子が寝た頃を見計らって家に帰るのが最近の日課になっていた。
これまではネットカフェで時間を潰してたけど金もかかるし、ここ数日はもっぱら近所の公園でスマホをいじって時間を潰すようになっていた。勝手にはしゃいで勝手に騒いで勝手に盛り上がってるだけの大して面白くもない動画を視たり、くだらない言い合いばかりしてるコメント欄を見たり、何が面白いのかよく分からないゲームアプリでとにかく時間を浪費した。
時間を浪費するのは苦にならなかった。どうせ僕にはやりたいことも好きなこともない。本を読むのは嫌いじゃないけど、それも別に夢中になれるほどの事じゃなかった。何を見ても何を読んでも僕にとっては単なる絵空事でしかない。僕はただ、誰とも関わらず、誰とも諍いを起こさず、誰とも親しくもならず静かに生きていたいだけだった。
夢なんか要らない。愛も要らない。楽しいことなんて面倒臭い。とにかく死んでないから生きている。僕はそれで十分なんだ、なのに、どうしてこんなことになったんだ…?。
「はあ……」
深い溜息を吐きながら何気なく時計を見たら夜の11時前。そろそろあの子も寝た頃かと思って帰ろうとした時、僕はそれに気付いた。
それは、子供だった。子供が一人で街灯の下に立っていた。今日は平日で、しかも明日も学校がある日のはずだった。こんな時間にこんなところで子供が一人でいるなんて、明らかにおかしい。
しかも、おかしいのはそれだけじゃなかった。
見ればその子は、すごく痩せてて、本当に腕とか脚とか骨と皮だけって感じの子だった。顔まで骨が浮き出てて、頭はボサボサで、服も汚れてて、見るからにまともじゃなかった。
その子を見た時、僕は、会社の同僚たちが話してる噂が勝手に耳に入ってきた時のことを思い出していた。その噂は、この公園に子供の幽霊が出るという、すごくありがちでつまらないものだった。それを聞いた時には、くだらないことを話してないで仕事しろよと思ったりもしたけど、そこで聞いた幽霊の特徴に、その子はすごく当てはまっていたんだ。
まさかと思った。だって僕は、幽霊なんてこれまで見たことも感じたこともなかった。霊感なんてものも全く信じてなかった。だから思った。どう見てもこれって人間だよな。こんなにはっきり見えてるしって。
そうか…これが虐待ってやつか……。
僕はそう思った。ネグレクトってやつかな?。ご飯もロクに食べさせてもらえずに痩せ細って、脳も委縮して、自分が何をしてるのかも分からずに徘徊してるって感じかな…。
でも、そう思った瞬間、僕の背筋をものすごい勢いで奔り抜けたものがあった。それは冷たくて、重くて、硬くて、喉だか胸だか分からないけど詰まる感じで締め付けて、息が苦しくなる感じまでした。それは、その子の姿が、今、僕の部屋にいるあの子の姿に重なって見えた気がしたからかも知れない。
だから僕は思わず目を逸らしていた。前屈みになって胸を押さえて、何とか普通に息をしようとした。もう視線を上げることもできなかった。
と、その時、不意に声を掛けられた。
「こんばんわ」
驚いて振り返ったらそこにいたのは、優しそうな感じの中年のおばさんと、僕と同じくらいか少し下って感じの若いスーツ姿の男の二人連れだった。そのおばさんが僕に向かって話しかけてくる。
「実は私、この近くの児童相談所の相談員なんですが、最近この公園で目撃されているある子供のことでパトロールをしていまして、ちょっとお話をお聞きしたいんですが」
と言われて、僕はピンときた。恐る恐るさっきの子のところを見たらもういなかった。でも、逆にそのおかげで落ち着けて、そこで僕は丁度その子を見たところですって正直に話した。大体のところは説明したけれど、僕も少し見かけただけなので結局大したことは言えなかった。
「ありがとうざいます。お手数をおかけしました」
そう言っておばさんが歩き出そうとして、その背中を何となく見送っていた僕は、思わず、
「すいません」
と呼び止めていた。
振り返ったそのおばさんが児童相談所の相談員だっていうから、せっかくだから思い切って僕の今の事情を話してみた。そうしたら、あれよあれよという間に、警察と役所に連絡をして、僕が預かってる姪っ子が住民登録してる住所が分かった。だけどそこにいたのは二年前までで、それから姪っ子は学校にさえ行かずに転々としてたらしいことが分かった。
警察に、姪っ子を届出人として行方不明者の捜索をお願いしてみたけど、それはあまり本腰を入れてもらえてない感じだった。いっそ、保護責任者遺棄事件として訴え出てもらえればもっと捜査ができると言われたけど、さすがに事件にするのはためらわれた。
一方で、児童相談所の人が付き添ってくれて、住民票の移動や、こっちの小学校への転入手続き、児童手当の申請、収入が十分でないということで就学支援の申請、父母に代わって子供を養育する者として児童扶養手当の申請と、僕が今まで全く知らなかった制度まで丁寧に手続きを手伝ってくれた。
さらに、扶養家族ができたことで住民税の請求額が変わるとかということも教えてくれた。おかげで、金銭的な面ではどうにかなりそうな目処が立った。
あとは、あの子とどう付き合うかだけど、大人しくて聞き分けが良い子だから、何とか煩いことは言わないでも済みそうな気がする。それに、困ったことがあったら何でも相談してくださいと、あの児童相談所の人からも言ってもらえてる。
突然こんなことになったけど、案外何とかなりそうだ。
型落ちので悪いけどネットで安く買った新品のランドセルを背負って、仕事を休めない僕の代わりに児童相談所のおばさんに付き添われて、あの子は今日から小学校に通うことになった。
「行ってきます」
小さな声でそう言ったあの子に向かって、僕も「行ってらっしゃい」と声を掛けて、仕事へと向かったのだった。
 




