三十九 沙奈子編 「収束」
「実は水谷先生から息子さんのことでお話を伺ったんですが、もしかしたらうちの沙奈子のせいでご迷惑をおかけしてしまったんじゃないかと思って、それでお電話させていただいたんです」
僕はついつい電話口で頭を下げながら、そう切り出していた。だけど山仁さんは、
「はいはい、先ほど水谷先生が来て事情を説明してくれました。その件でしたら、うちは全然大丈夫ですよ。あくまであの子自身の問題ですから」
と、これまでと変わらない穏やかな口調で返してくれたのだった。でも僕は余計に恐縮してしまって、
「そう言っていただけると気が楽になります。でもやっぱり、もしかして沙奈子を庇ってくださったのが原因じゃないかと思うと…。しかも教室を飛び出すくらいショックを受けられたとなると、申し訳なくて」
と言いながらまた頭を下げてしまった。けれどそんな僕に山仁さんが言う。
「いえいえ、どうぞお気になさらないでください。それにショックを受けたというより、それはたぶん、頭に血が上りそうになったのを冷ますために一人になりたかっただけですから」
その言葉に、僕はむしろ戸惑った。
「そうなんですか…?」
意味がよく分からなくてそう聞き返してしまう。
「ええ、あの子はそういう子なんですよ。その女の子がやったことはすごく頭に来てたけど、叩いたりはできない、だから一人になって怒りが収まるのを待ってたんだと思います。私がそうするように普段から言ってるのを守ってくれたんですよ」
「……」
やっぱり意味がよく分からなくて、僕は言葉が出せないでいた。
「私は、腹が立ったから、許せないからという理由で人を殴ったりすることを固く禁じてます。私自身にも、そして子供たちにも。自分の感情で殴って良い悪いを決めるのは、とても危険なことですから」
山仁さんが、諭すように続ける。
「一方で、息子は男の子ですから、悪ふざけで私にパンチを繰り出したりすることはあります。しかしそれは、私自身がその行為を息子なりのコミュニケーションとして受け入れているから許しているだけです。ですが、息子がそのことを他人にまで一方的に求めるのは許しません。ノリとか悪ふざけとか遊んでただけとかプロレスごっとだからとかを言い訳に他人を殴る者がいます。私は、息子にそのような人間になってもらいたくありませんから」
そこまで言われて、ようやく何となく分かりかけてきた気がした。
「例外的に殴っていいのは、相手もそれを覚悟し、利害関係のない第三者がそれを合意の上での行為と判断できる場合に限ってます。要するに、競技として格闘技をする場合ということですね。あと、格闘技家のファンとかが、ご褒美として自分から殴られに行ったりする場合ですか」
ああ、なるほど。山仁さんは、息子さんが暴力で問題を解決しようとするような人になって欲しくないから、暴力を振るうことを厳しく制限してるっていうことなんだ。息子さんはその言いつけを守って石生蔵さんを叩いたりしないようにする為にその場を離れたってことだったんだ。
「とにかく私は、憂さ晴らしとか自分の感情をぶつける為に人を叩いたりすることを許しません。息子はそれを守ってくれてるんでしょう」
その言葉で、僕ははっきりと意味が呑み込めた。
普通は誰でも、相手が悪かったら殴っても仕方ないって考える。だけどその『仕方ない』って実はほとんどの場合、自分勝手な思い込みでしかないんだよな。そしてそれが往々にして事件になる。山仁さんはそうならないように強く戒めてるんだって思った。
僕も、簡単に人を殴ったりする人が強い人だとか思わない。相手を殴りたくなる自分を抑えて問題を解決する為の方法を探れる人が本当に強い人なんだって思う。息子さんにはそういう人になって欲しいと山仁さんは願ってるんじゃないかなと僕は感じたのだった。
その後、細かなことをいくつか話し合ってから、もしまた子供たちのことで何かあったらお互いに連絡を取り合いましょうと約束して、僕は電話を切った。
自分の感情に任せて相手を殴ったりしないというのは、口で言うのは簡単だけどすごく難しいことだと僕も思う。だけどその難しいことに敢えて挑むからこそ、暴力という誘惑に抗えるんだとも思う。人間っていうのはそこまで感情を制御できる生き物じゃないからついっていうこともあると思うけど、その『つい』を言い訳にはしたくない。
そうだ。僕自身が何か罪を犯して沙奈子を犯罪者の家族にしてしまわないためにも、僕はそういう意味で強い人間にならなくちゃいけない。その場の感情に呑まれて誰かを傷付けて逮捕されるようなことがあっちゃいけない。
…うん、そうなんだ。山仁さんが言ってたことは、僕自身が心掛けなきゃいけないことだと自分でも思ってたことだよな。それを改めて言ってもらっただけなんだ。
僕が考えてることと同じことを考えてる人が他にもいる。これはすごく心強いことだった。沙奈子のために僕は強くならなきゃ。そのための後押しをもらった気分だった。
…って、沙奈子が迷惑かけたんだったらお詫びしなきゃって思ってたのが、何で僕が励まされてるんだ?。
はあ…。僕は本当にまだまだだなあ……。
と落ち込んでいたその時、沙奈子が僕の服を引っ張って言った。
「おなかすいた…」
あ、そう言えば夕食まだだった!。ごめん、沙奈子!。
見ればもう8時回ってる。そして僕は慌てて、彼女と一緒に夕食の用意を始めたのだった。
と、そんなことがあって以降、沙奈子と山仁さんの息子さんと石生蔵さんの間のトラブルは、急速に収束していったらしかった。
残業を断る理由がなくなったことで平日に先生と会えなくなった僕は、報告を電話でしてもらうことにしてたんだけど、そこで、山仁さんの息子さんに嫌われたと思った石生蔵さんが泣いて謝って、それを息子さんが許したことで落ち着いたらしいってことを聞かされた。
なるほど。もとはと言えば石生蔵さんの恋心が引き起こしたというのが今回の一件だとしたら、自分の行為が好きな人を怒らせるということに気付かされたことで冷静になれたっていうことなのかな?
なんか、それだけ聞いたら子供同士で勝手に解決したみたいに思えるけど、これは大人が、先生がちゃんと見守って悪い方向へ転がらないように気を付けてたから、収まるところに収まったんだと思う。本当に解決したかどうかはこれからも注意深く見ていかなきゃいけないかも知れないけど、ある意味では決着がついたんだろうな。
だけど今回の件でも結局分からなかったことで、僕が気になってることが一つある。それは、沙奈子が山仁さんの息子さんのことを男の子として意識してるのかどうかってことだ。少なくとも大切な友達とは思ってるみたいだけど、それが恋心を含んだものなのかどうか、沙奈子の様子を見ててもよく分からなかった。
まあ、僕と一緒にお風呂に入りたがったりしてるところを見ると、そういう部分がまだまだ未成熟なのかも知れないとも思う。もしかしたら、恋心ってものを意識し始めた時に、僕と一緒にお風呂に入ってくれなくなるのかなと、改めて思ったりもしたのだった。




