三十五 沙奈子編 「推移」
歯医者での治療を終えて、水谷先生が来るらしいというので今日はなしになるかと思っていたラーメン屋での夕食も済ませ、大型スーパーでの買い物をして、僕たちは部屋に戻って来ていた。とりあえず、せっかくだから一緒に風呂に入ることにする。
二人でゆっくりとお風呂に浸かりながら、僕は沙奈子に聞いた。
「どう?。まだ学校に行きたくない?」
この質問には、首を横に振る。
「そうか…学校には行きたいって思ってくれてるんだな。それならいい。先生も頑張ってくれるって。沙奈子も頑張れたらいいな」
すると彼女は、黙って頷いた。沙奈子自身も、頑張りたいって思ってくれてるんだと感じた。
風呂から上がって涼みながら、水谷先生が届けてくれた宿題をする。漢字の書き取りと、算数プリントと、土日は日記といういつもの内容だった。漢字はすぐに終わったし、算数プリントも、今までよりちょっと早く終わった気がした。勉強の成果が出てきてるのかと思った。
宿題が終わってから、また掛け算のドリルをやってもらう。やっぱり確実に早くなってると思う。こういう風に目に見えて成果が上がると、張り合いが出るな。
勉強も終わって沙奈子を膝に座らせてぼんやりテレビを眺めて寛いで、二人で一緒に寝た。
土曜日も日曜日も、夏休みのパターンを使って、午前一時間午後一時間の勉強をする。午前は漢字。午後は掛け算という形だったけど。それから、貝殻の家を直した。完全には直らなくても、何とか形にはなったと思う。
そして月曜日の朝、沙奈子に聞いてみた。
「どう?。学校行けそう?」
少し不安そうな顔をしてる気もしたけど、彼女は黙って頷いた。声を出さないあたりが、ためらいを表してる気もした。だけど彼女も頑張って学校に行こうとしてくれてる。僕はそれを信じたい。それでもやっぱり…。
「無理はしなくていいからね。どうしても行きたくないって思ったら、また言ってくれたらいい」
そう言った僕に、今度は「うん」と応えてくれた。
「沙奈子は偉いな」
僕は思わず笑顔になって、彼女の頭を撫でていた。
沙奈子に見送られながら家を出て、仕事に向かう。彼女も頑張ってるんだから、僕も頑張らなきゃと改めて身が引き締まる気がした。
その日は無難に仕事も終えられ、いつもより少し早く家に帰れた。
「ただいま」って言ったら「おかえりなさい」って沙奈子が迎えてくれた。いつもの感じだった。それを見て、大丈夫だったんだなって思った。これからもこの調子でいけたらいいけど。
翌日も学校がある日は寝るのが遅くなるのはマズいから先にお風呂には入ってもらうことにしてて、今日は僕も一人で入る。何となく寂しい気がすることに、一人で思わず苦笑いしてしまう。
宿題ももう終わらせてたから、ちょっとだけドリルもやった。すると、それが終わった時に沙奈子が不意に、
「いそくらさんが、ごめんなさいって言ってくれたの…」
って言った。でも、
「そうか、よかったな。どう?。仲良くなれそう?」
って聞いた僕の言葉には、ちょっと困ったような顔をして、首をかしげたのだった。そうか、そうだよな。いくら謝ってもらえたって、そう簡単には割り切れないよな。
「いいよいいよ。仲良くできない人と無理に仲良くする必要はないと思う。ただ、わざと意地悪なことはしないようにすればいいだけだよ。沙奈子はそういうことはしない子だから、僕は心配してない」
そう言って頭を撫でた。
でも、本当にこれで解決したんだろうか?。その石生蔵さんって子がどうして沙奈子にきつく当たるのか、原因は分かってるんだろうか?。その辺りのことは、水谷先生も言ってなかった。ただ、沙奈子の方から石生蔵さんに対して何かしてるわけじゃないとは言ってくれてたから、やっぱりキビキビ動けないことに対して苛立ったりしたってことなのかな?。それともまだ他に何か原因があるのかな?。だとしたら、その原因を何とかしないと、また同じことになるだけじゃないかな。
そういう事がまだ心配だったけど、順次報告してくれるそうだから、今はそれを待つ感じでいいのかな。何にしても、こういうトラブルを見て見ぬ振りするような学校じゃなくて本当に良かった。そう言えば、山仁さんもそんな感じのことを言ってた気がする。
たぶんこういうのも、ごめんなさいでハイ解決、とはいかないんだと思う。
火曜日。仕事から帰ってきたら、沙奈子がまた落ち込んだ様子だった。「学校行ける?」って聞いたら頷いたけど、やっぱりすぐには何事もないって感じにはならないんだと思った。当たり前か。人間の感情って、そんな簡単に切り替えられるものじゃないもんな。
ここまでくると、その石生蔵さんっていう子がどういう事情を抱えてるのかが気になってきた。先生が見てるのにそういう態度を取るっていうのは、何か相当な問題を抱えてるのかも知れない。
水曜日の朝。改めて学校に行けるかどうか聞いてみると、笑顔はないけど頷いてくれた。「無理しなくていいからね」と念を押して僕は仕事に行く。そして夜に帰ってきたら、この日は落ち着いた感じだった。
だけど木曜日はまた、沈んだ表情をしてた。う~ん。状況は一進一退って感じなのかな。ただ、学校に行きたくないとはここまで言い出してないから、低め安定ってところだろうか。
そして金曜日。先週に水谷先生が来た時に、「金曜日はだいたい歯医者の予約が入ってますから夜は家にいます」って言っておいたこともあってか、仕事帰りでバスを待っている間に電話がかかってきた。「経過報告をさせてください」ということだった。今日はバスで帰ることにしたから、出発前には余裕はない。だから7時以降にお願いしますって言っておいた。今日はラーメン屋には寄れなくなるけど、まあ仕方ないか。
歯医者の後、戻ってきたら水谷先生が部屋の前で待っていた。これって、時間外労働ってことになるのかなとか、ちゃんと残業代付くのかなとか、同じ勤め人としてちょっと気になった。だから報告は手短にしてもらうことにした。
「結論から申し上げまして、石生蔵さんに謝ってはもらえたんですが、まだ彼女の方も気持ちの整理がつかないようで、やはり言動にトゲがあるように見受けられました。他の児童も間には入ってくれるんですが、なかなか」
そう言った時の先生の少し困ったような表情から、気苦労が偲ばれた。でもあまり時間をかけてられないので、続けて話してもらう。すると先生が、僕の上に顔を寄せる感じで近付いてきて、声を潜めて言った。
「ところで、その…沙奈子さんと石生蔵さんの間に入ってくれる児童の中に山仁大希さんという男子児童がいて、以前にもお話した通り、彼が一番、沙奈子さんと仲良くしてくださっているんですが…実は、これは私の個人的な印象なんですが…石生蔵さんは山仁大希さんのことが好きなんじゃないかって思うんです。それで、山仁大希さんが沙奈子さんと仲良くしてることにヤキモチを焼いて、結果的にキツイ態度になってしまうんじゃないかと」
…ああ、なるほど。
その話を聞いて、僕は何だかすごく納得できた気がした。そう考えたら、実に分かりやすい構図だ。それと同時に、すごく厄介で、対応を誤るとひどく拗れるやつだと思った。
そして僕は、これは解決には時間が掛かりそうだと直感したのだった。




