三十三 沙奈子編 「異変」
「もうすぐ学校が始まるね」
そう聞いた時、僕は沙奈子の表情に違和感を覚えた。
「……うん」
嫌なこと以外なら大体何でも素直に頷く彼女が、すぐに頷かなかったんだ。しかも明らかに嬉しそうじゃなかった。だから聞いてみた。
「もしかして、学校行きたくない?」
だけど沙奈子は、その質問には首を横に振った。学校には行きたい。でも嬉しくないっていうことかな?。何か、かなり複雑な心情が彼女の中にあるのかも知れないと感じた。ただ、夏休みが終わって学校に行くのが億劫に感じるというのは別に珍しいことじゃないとも思う。彼女も今、そういう気分なのかなと、この時の僕はそう思っていた。
それよりもむしろ、そういう気持ちを表に出すようになってくれたことの方が良い傾向だと思ってた。もっともそれは、僕が沙奈子のそういう事に気付くようになっただけかもしれないけど。
その程度のことかなと思ってたのに…。
学校が始まる日の朝。おねしょも、僕になるべく見られないようにとおむつを捨てる様子も、いつもと全然変わらなかったのに、沙奈子の表情はどことなく沈んでる感じに見えた。それでも僕は、夏休みが終わってしまったことが残念なんだっていう程度にしかまだ思ってなかった。
なのにその夜、僕が家に帰ってきて「ただいま」って声を掛けたら、返事がなかった。沙奈子の姿は見えていて、ちらっと僕の方を見たのは分かったけど、『おかえりなさい』と言ってくれなかった。
僕は焦った。どうしたんだろうと思った。
「何か、あったの…?」
僕が問い掛けても、彼女はうつむいて答えなかった。その様子に、たまらない不安感が込み上げる。何かとんでもないことがあったのかと思って、喉が詰まる。
沙奈子の隣に座って顔を覗き込む。顔を背けようとまではしなかったけど、僕と目を合わせようとはしてくれなかった。しかも、目の周りが何だか赤くて腫れぼったい気がする。
泣いてたのか…?。
思わず強い口調で問い詰めそうになるのを必死に抑えて、僕は聞いた。
「何があったのか、話してほしい。お願いだ…」
20歳近く年下の小学生の女の子に向かって、頭を下げてお願いした。すると沙奈子は、机を上を指差した。見るとそこにあったのは、彼女が僕と一緒に作ったあの貝殻の家の…貝殻の家の成れの果てだった。家はひしゃげて潰れ、ボンドで着いていた筈の貝殻はいくつも外れてまとめて置かれていた。
…なんで?。どうしてこんなことに…?。
状況が呑み込めなくて固まっている僕の横で、沙奈子がポロポロと涙をこぼしながら、言ったのだった。
「…学校…行きたくない……」
どうして?、って言いかけて、僕はそれを飲み込んだ。今朝までは学校には行きたいと思ってたらしい彼女がそう言うんだから、学校で何かあったんだっていうことは、一目瞭然だった。だから僕はもう、何も聞かなかった。何も聞かずに、
「そうか…。辛かったんだね…。ごめん、帰るのが遅くなって…」
って沙奈子を抱き締めた。その途端、彼女はひくっひくっとしゃくりあげた。僕はただ何も聞かずただ抱き締めて、そっと頭を撫でたのだった。
昨夜は結局、その後、何も聞き出せないまま、一人で風呂に入って、すぐに沙奈子と一緒に寝た。髪を乾かしてなかったから朝は大変だと思ったけど、仕方なかった。そして案の定、寝癖が酷いことになってて、頭だけまた水を被って直した。
明け方、沙奈子がおむつを捨てて新しいのに穿き替える気配を感じたのに、朝になってまたおむつを捨てていた。二回もおねしょしたんだと思った。分かってたけど、やっぱり相当ショックだったんだな。
トーストを食べ終えて、いつもなら学校に行く用意をするのを見届けるところで、僕は聞いた。
「まだ、学校行きたくない…?」
その問い掛けに彼女は、目を合わせずに頷いた。
「そうか…、じゃあ、今日はお休みしようか。学校に連絡しておくよ」
そう言うと、沙奈子はまた頷いた。すごく気になったけど、僕まで会社を休むわけにはいかない。今日は歯医者に行く日だから、定時で帰れる。それがせめてもだった。
その後、会社に向かう途中、バス停を降りたところで学校に電話を掛けた。
「おはようございます。4年2組山下沙奈子の保護者の者ですが、実は本人が今日、学校に行きたくないと強く言ってまして、それで様子を見るために休ませようと思います」
僕のその言葉に、電話に出てくれた教頭先生が、
「分かりました。昨日のことはこちらも報告を受けています。担任が何度かお宅に伺ったのですが、沙奈子さんはご在宅のようでしたが出ていただけなかったものですから。山下さんの携帯にも何度か掛けさせていただいたのですが、繋がらなかったようです」
って。後で携帯を確認してみたら、着信が何度もあって留守電も入ってた。普段ほとんどかかってこないから、チェックする習慣がなくて気付かなかったんだ。またやらかしてしまった…。まあそれは置いといて、
「本日も夕方以降、詳しい事情の説明を担任からしたいと思いますので、どこかでお時間をいただけないでしょうか?」
と言われたから、ちょうど今日は歯医者の予約もあるし、7時以降ならと伝えておいた。
しかし、もう学校の方でも何があったのか把握してたのか。しかも担任がわざわざ家庭訪問までしてくれてたとか、正直言って驚かされた。学校で何かあっても担任が家庭訪問するなんて、僕の学校では聞いたこともなかったし。それだけよっぽどのことがあったのかとも思ったけど、さっきの教頭先生の口ぶりだと、そこまで大変な事でもなさそうな気もするし、ますます分からなくなった。
そういう諸々が気になって、さすがに仕事に集中できなかった。沙奈子が家でどうしてるかってことも気になって仕方ない。ただ、担任の先生が来てもドアを開けなかったことは、僕がいない時は誰が来ても決してドアを開けないようにと言ってあったことをちゃんと守ってくれたんだと思った。今はそれが一番、彼女が自分で自分の身を守ることになると思うから。
昼休憩の時も、伊藤さんと山田さんの前でも上の空だった。
定時で仕事を切り上げ、バスを待つのもじれったくてタクシーを拾って、僕は家に帰った。
「ただいま」
そう言ってドアを開けると、
「おかえりなさい…」
と、今日は答えてくれたのだった。まだ少し沈んだ表情をしてる気がしたけど、それでも昨日よりは随分とマシだと思った。
その時、僕の携帯に着信があった。担任の水谷先生からだった。今から歯医者だから7時くらいには帰れると言おうと思ったけど、すぐ近くに来ているということで、20分くらいならと伝えた。すると本当にすぐ、チャイムが鳴らされた。
「この度は、私の監督不行き届きで、沙奈子さんに辛いを思いをさせてしまって、大変申し訳ありませんでした」
挨拶もそこそこにいきなりそうやって深々と頭を下げられて、僕は逆に恐縮してしまっていたのだった。




