三 沙奈子編 「経過」
沙奈子を歯医者に連れて行った次の日、僕は会社で、しばらくの間、いや、本数が多いからもしかしたら数カ月の間、週に一回くらい残業ができないことを上司に申し出た。沙奈子を歯医者に連れて行かないといけないからだ。
単に治療するだけなら一人でも行かせられないこともないと思ったけど、これは医者からも言われたことだった。虫歯が5本。辛うじて虫歯ではないがなりかけている歯が6本。正直言って状態が悪すぎるので、口腔ケアについて一緒に学んでくださいと念を押されたのだった。
上司はいい顔をしなかったけど、本当に仕方なくという感じで了承はしてくれた。今までは全く関係なかったから気付きもしなかったけど、子供の用事で残業を断るだけでもこんな雰囲気になるんだと思った。沙奈子の面倒を見るようになった大まかな経緯を話しても、
「どうして君が面倒みなければならないのかね?。施設とかに預けるんじゃ駄目なのか?」
とかかなり嫌味っぽいことを言われた。それは僕も考えたけど、こうやって他人に言われるといい気はしないということが分かった。一方で、有給の方は取らなくてもどうせ年度末近くに調整の為に取らされる感じだから、それほどでもなかったけど。だから余計に、とにかく会社の都合が最優先でそこで働いてるのは人間なんだということを考慮してないということも、改めて思い知らされた気がした。
ところで、当の沙奈子の方と言えば、歯医者に行って取り敢えず痛い部分だけでも処置してもらえたことでよほど楽になったのか、朝からトーストを2枚もしっかり食べるようになっていた。それまで1枚をやっと食べる感じだったのは、歯が痛かったせいもあるんだと感じた。
しかも、痛みがなくなったからか表情も少し柔らかくなった気がする。と言うか間違いなく穏やかになったと思った。
そこで今度は僕は、伸び放題でまともに手入れもしてない髪の毛を何とかしてやろうとも思った。そして土曜日、彼女を連れて、格安理容室にやって来ていた。
「散髪行くか?」と念のため聞いたけど、彼女も別に好きで伸ばしてるわけじゃなくて本当はうっとうしかったみたいで、ためらいもなく頷いた。年頃の女の子だったら美容室の方がいいかも知れないけど、沙奈子くらいの子なら格安理容室でもまだ大丈夫だよな。
「どのくらい切りますか」と聞かれたので、とりあえず前髪は眉にかかる程度。後ろは肩にかかる程度で後は適当にと頼んだ。さすがに回転率で利益を出さなきゃいけない格安理容室だけあって、20分ほどで終わった。でも、ちゃんと散髪するだけであの見るからにうっとうしい感じだった見た目が、驚くぐらい普通の女の子になった。
おかしなもので、こうやって変化を実感させられるともっとこうしてやろうとか欲が出てくるのも人間なんだと思った。今度は近所の大型スーパーで、もうちょっと可愛い感じの服を買ってあげようという気になった。これまでは兄が彼女と一緒に置いていったリュックに詰められた着替えで何とかやりくりしていたけど、さすがにそれだとローテーションが厳しかったし、何より結構よれたりくたびれた感じになってて正直みすぼらしくもあった。
だからそのまま大型スーパーに寄った。けど、もうお昼も近かったし、まずはスーパーの中の喫茶店で、軽くお昼を摂ることにした。メニューを広げながら何がいいかと尋ねてみる。
あれこれ見ていた沙奈子だったけど、オムライスの写真を見付けてそれに目が留まったのを、僕は見逃さなかった。
「オムライスがいいのかな?」
僕がそう聞くと、彼女は今までで一番大きく頷いた。散髪したての髪の毛が、サラッと揺れる。それを見てつくづく散髪に行って正解だと思った。
沙奈子にはオムライス、僕はサンドイッチを頼み、待った。
でも、見た目こそ少し明るくて身軽な感じになった彼女だったけど、さすがに性格まではそんなに急に変わる訳じゃないから、待ってる間の気まずい沈黙はまだそのままだった。
かなり長く感じた時間の後で先に僕のサンドイッチが来た。先に食べるのも何となく気が引けたから「食べる?」って聞いてみたけど遠慮してるのか何なのか彼女は首を横に振った。仕方ないから食べ始めて気が付いた。そう言えば喫茶店とかのサンドイッチってからしマヨネーズとか使ってるんだった。それで嫌だったのかもしれない。
そうこうしてる間にオムライスも来た。思った以上に大きなオムライスだった。彼女一人で食べきれるかなと思ったけど、それを見た沙奈子の目が嬉しそうに見えたのは、僕の思い過ごしだろうか?。
と思ったけど、どうやら思い過ごしじゃなかった。今までのことを思えば大きすぎるようにも思えたオムライスだったけど、彼女はこれまでとは全然違う勢いでみるみると食べ尽していった。
そう言えば彼女は虫歯が痛かったんだ。だから早く食べられなかったし量も食べられなかったんだと気付かされた。大人しいのは大人しいけど、普通の健康な子供なんだと改めて感じた。
その後、きれいにオムライスを食べきった沙奈子を連れて子供服売り場にやってきた。スーパーだから元々そんなに高い服は売ってないから、彼女が目を留めた服を取り敢えず次々手にとって、一週間ほどはローテーションを組める程度の服を買い込んだ。
彼女が目を留めた服の多くが基本的に水色で、そこに可愛らしいキャラクターが描かれたものが多かった。水色が好きで、意外とキャラクターものも好きなのかもしれない。
ついでに下着や靴下も買う。一人じゃ女の子の下着を買う勇気はなかったけど、彼女を連れてたらいかにも若い父親と娘って感じに見える気がして堂々とできた。
会計を済ますと、なるべくセール品が並んでるところで選んでもらったからか、これだけ買い込んでも全部で1万ちょっとで済んだ。助かった。
せっかくなので早速試着室で着替えさせてもらった。そうしたら、真新しい水色のワンピースを身に着けた沙奈子が、少し照れくさそうにしながら試着室から出てきた。うつむき気味で顔を見せないようにしてる感じだったけど、本人もまんざらでもなさそうに見えた。
そして僕と沙奈子は、二人並んで歩いて家へと帰った。それはきっと、知らない人から見たら父娘に見える気がしたのだった。




