二百九十九 千早編 「意地悪」
「幸い、その件についてはカナの勇気ある行動により未然に防ぐことができ、イチコのフォローによりその後急速に鎮静化しました。カナもイチコも、私にとっては恩人なのです。ですから私は、カナのために自分にできることをしたいと思っているのです」
そうなんだ…。星谷さんも辛いことを抱えてたんだ……。
家庭そのものは恵まれていたらしい。優しくて仕事も出来る立派なご両親の下で経済的にも環境的にも何不自由ない不安のない生活をしてきたけど、それでも幼い頃には、仕事で忙しくてなかなか会えないご両親との間にすごく距離を感じて『自分はこの家には要らない存在なのかもしれない』と思った時期もあったそうだった。それが、自分のことをご両親に認めさせたいという強い想いになって少し行きすぎてしまって、独善的に振る舞うようになってしまったんだって話だった。
星谷さんみたいな人でもそういうことがあったりするんだなと思うと、僕はなんだか少し気が軽くなるような感じもした。僕がこうやってあれこれ右往左往してる程度のことなんて当たり前だとさえ感じたりもした。しかも、星谷さんが波多野さんのためにあんなに頑張ってる理由もこれで分かった気もした。
星谷さん自身、そうすることが必要だったんだ。千早ちゃんのこともきっとそういうことなんだって気がした。
僕と星谷さんがこうやって話をしている間も、千早ちゃんは夢中でホットケーキを焼いていた。すっかり慣れても美味しそうに焼けていくホットケーキを見るのはすごく楽しいらしい。
「とりゃーっ!」
と掛け声を上げながらホットケーキをひっくり返す姿も、楽しくて仕方ないっていう感じだった。
そうだ、家でもこの感じでホットケーキを焼いてるとしたら、その姿を見てるだけでも何となくほっこりしたものを感じるんじゃないかな。そういうのがお姉さんたちにも伝わってるんじゃないかな。その上で美味しいものを食べたら、イライラした気持ちも少しはマシになるのかも知れない。
ギスギスと重苦しいだけだった家の中にこういうあったかくてほんわかしたものがあるだけでも随分と違う気もする。それを千早ちゃんがもたらしたものだとしたら、本当にすごいことだと思う。
話を聞いてるだけでも、千早ちゃんの家の中には笑顔がなかったんだろうなって感じた。その中に千早ちゃんが笑顔を持ち込んだってことになるんだろうな。しかもそれをやってるのが沙奈子と同じ年の子だって言うんだから。
「できたよ~!」
そう声を上げる千早ちゃんを先頭に、焼きたてのホットケーキを運んでくる子供たちを見てるだけでも心が柔らかくなるのを感じる。そうだよ。こういうのを見ててもイライラしてるとかもったいなさ過ぎる。
「いただきま~す!」
千早ちゃんが音頭を取ってお昼にする。子供たちはホットケーキ。僕と星谷さんは冷凍パスタだけどね。話に夢中になってしまって今日は自分たちのホットケーキを作るどころじゃなかった。
もちろん、大人組の話には玲那も加わってた。彼女はカップラーメンだった。面倒臭いからこれでいいって。絵里奈は今は仕事中だ。
お昼を食べながらも、千早ちゃんはにこにこ笑いながら家でホットケーキを作った時のこととか話してた。
「私が最初にホットケーキ作るって言った時、千晶の奴、『お前にできるわけねーだろ』とか言ってたんだよ。でも私がちゃんと作って見せたら黙っちゃって。だけどそれから私のホットケーキ食べて『おいしい』って言ってくれたんだ!!」
と、これまでにも何回も聞いた話をまたしてくれた。よっぽど嬉しかったんだろうな。自分一人でホットケーキが上手に作れたことも、できるわけないと言われたのをやってみせたことも、そう言ってたお姉さんに『おいしい』って言ってもらえたことも。
千早ちゃんのお姉さんは、今、高校1年生の千歳さんと、中学2年生の千晶さんの二人がいるそうだった。だけどその二人ともすごく乱暴ですぐ大きな声で怒鳴ったり叩いたりしてきてたらしい。それが最近はなくなってきたって。そうだよな。こんな風ににこにこしながら美味しいホットケーキを作ってくれる子をどうして怒鳴ったり叩いたりする必要があるんだ。もしそんなことができる人がいたら、それは尋常じゃなく心を病んでると思う。そこまでいったら自分じゃどうすることもできないじゃないかな。専門的な治療が必要だっていう気さえする。
そういう意味では、千早ちゃんのお姉さんたちはまだそこまで行ってなかったのかな。間に合ったのかな。間に合っててほしい。千早ちゃんは沙奈子に意地悪した子だったけど、本当はこんなに優しくて朗らかでいい子だった。だとしたら、千早ちゃんのお姉さんたちだってそうかも知れない。千早ちゃんに意地悪するというだけで『とんでもない悪人だ』と決めつけるのは早いのかも。
千早ちゃんだって、沙奈子に意地悪する理由がなくなったらそんなことしなくなったんだ。お姉さんたちだってその可能性はあるかもって思うんだ。実際に怒鳴ったり叩いたりがなくなってるっていうなら、その可能性も高いよね。
「うお~っ、われながらやっぱり美味~い!」
自分で作ったホットケーキを頬張りながら、千早ちゃんは嬉しそうにそう言った。大希くんも「良かったね」と応えて、沙奈子も穏やかな表情で頷いてた。この三人の姿を見てるだけでも癒される。これも幸せの形の一つなんだってすごく思える。その中に沙奈子がいるのが僕も嬉しい。
だけど千早ちゃんは、沙奈子を手本にしてるって星谷さんは言った。こんないい子が沙奈子を手本にしてくれてるっていうのもなんだかちょっと誇らしい気もした。
その一方で、沙奈子も千早ちゃんに支えられてるはずなんだ。千早ちゃんがいてくれるから、沙奈子のことを受けとめてくれてるから、安定してられるはずなんだ。お互いがお互いを支え合ってるんだと思うと、いい関係だなって思える。
お昼が終わって帰る時になってまた、千早ちゃんは沙奈子のことをぎゅーってしてた。
「沙奈ちゃん、だ~い好き」
だって。それが子供っぽいただのじゃれ合いだとしても構わない。そう言ってくれる人がいるっていうのが大事って思うから。沙奈子も嬉しそうにしてるから。
「じゃ、また明日ね~」
最後までにこにこしながら、千早ちゃんは大希くんや星谷さんと一緒に帰っていった。
『みんなを明るくしてくれる子だね』
静かになった部屋で、沙奈子を膝にホッと一息ついた僕に、玲那がそうメッセージを送ってきた。テレビに映し出されたビデオ通話画面越しに玲那を見た時、僕の頭にふと思い浮かぶものがあった。
「そうか、千早ちゃんって玲那に似てるんだ」
思わずそう声してしまうと、沙奈子も玲那もきょとんとした顔になった。でもその後で玲那が、
『え~?。それって私が子供みたいだってこと~?』
とメッセージを送ってきたのだった。




