二百九十八 千早編 「星谷さんの失敗」
星谷さんの話を聞いて、僕はいっそう、千早ちゃんのことが気になっていた。自分の家に帰るのに『もう二度と会えないかも』とか思うなんて、そんな想いを沙奈子と同じ年の子がしてただなんて…。
それってつまり、命の危険すら感じてたってことだよね。僕がもし星谷さんの立場だったら、家に帰すこととかできてたんだろうか…。星谷さんは緊急連絡用の携帯電話を持たせるとかして対策してみたいだけど、普通はなかなかそこまでできないと思う。家に帰すのは、それこそ会えなくなることを覚悟してでないとできそうにない。
今はあんなに楽しそうに笑ってる千早ちゃんにも、そんなことがあったんだ……。
こういうのも『類は友を呼ぶ』っていうことなのかな。僕たちの周りには、何故かそういう経験をしてる人が多い気がする。それとも、実はこういうのはそんなに珍しいことじゃなくて、だけどみんな、それを隠して他人に知られないようにしてるんだろうか。もしくは、自分が特別辛いわけじゃないって思い込もうとしてるとか…?。
ネットで正義のふりをした悪意を垂れ流してる人たちも、自分の苦しさを吐き出す為にそういうことをしてるんだろうか。そう考えたら、本当に割とよくある話のような気さえしてきた。でも、だとしたらすごく悲しいことだと思う。苦しいのが普通だなんて、やっぱりおかしいよ。
それに、苦しいのが本当に普通なんだとしたら、そうじゃない人がいることの方がおかしいだろ。そうじゃない人がいるっていうことは、やっぱり苦しいのは普通じゃないはずなんだ。
沙奈子だって決して楽じゃなくても今はすごく落ち着いて穏やかでいられてる。今はもう、命の危険を感じる必要もない。僕も絵里奈も玲那も沙奈子のことを大切に想ってる。そういう家庭にいられてる。イチコさんや大希くんはお母さんを亡くしたのにあんなに朗らかでいられてる。波多野さんだって、本来の家庭は大変なことになってても安らげる場所がある。田上さんもそうだっていう。こんな風に救われる人がいるっていうことは、苦しい状態は普通じゃないっていう証拠だと思う。
じゃあ、どうしたらそういうのから抜け出せるんだろうなっていうのが大事になってくる気がする。
僕たちは血の繋がった家族ではそれを得ることが出来なかった。もちろん僕と沙奈子は叔父と姪だからそういう意味では血の繋がりはあるけど、一般的にはそんなに近い家族ってほどの存在じゃないからむしろ他人に近いとさえ思える。そんな僕たちはこうやって他人同士で家族を作ってその中で満たされる環境を作れた。だったら本来なら、血の繋がった家族でそれができればいいはずなんだよな。
もし今後、僕と絵里奈の間に子供が生まれることがあるなら、僕はその子たちも含めて幸せな家庭を作っていきたい。穏やかで落ち着けて、外でどんなに辛いことがあっても家に帰ればすべて忘れてしまえるような家庭をね。
少なくとも僕は今、自分でそう感じてる。沙奈子がいて、画面越しとはいえ絵里奈も玲那もいて、僕を温かく迎えてくれてるから頑張れてる。何一つ楽しいことのない、心を閉ざしてでしか続けられそうにない仕事でもあえて続けようと思えるのは、この家庭があるからなんだ。これから生まれてくるかもしれない子供たちにとってもそういう家庭でありたい。
『生まれてきて良かった』
子供たちがそう思える家庭でありたいんだ。しかもそれが作れる状態にあるのも感じる。だから僕は頑張れる。
千早ちゃんの家も、そうなれるかな。そこまでじゃなくても、少なくとも『家に帰るのが嫌』とか、『家に帰ってしまったらもう二度と会えなくなるかもしれない』なんて思わずにいられる家庭にはなれるかな。
星谷さんには、そういう風になっていく道順が見えてる気もする。そのために必要なことをしようとしてるんだろうなって。僕も、何か手伝えることがあるなら手伝いたいって気にさせられる。
だから言ったんだ。
「千早ちゃんが幸せになってくれることが、沙奈子にとっても幸せだと思うんです。そのために僕にもできることがあるんなら力になりたいです。それが、沙奈子のことを支えてくれた千早ちゃんに対する恩返しになる気もします」
何ができるのかなんて想像もつかないけど、そうしたいっていうのは本当の気持ちだ。もちろん、沙奈子や玲那のことを最優先に考えた上でだけどね。
そしてもし、千早ちゃんの家族が幸せを取り戻せたのなら、そこから何か学ぶこともあるかも知れない。そのためにも僕も見守っていきたいんだ。すると星谷さんが僕を真っ直ぐに見つめて言った。
「ありがとうございます。山下さんにもそう言ってもらえると心強いです。なぜなら、千早には沙奈子さんが必要だからです。彼女は今、沙奈子さんを手本にしようとしています。その沙奈子さんの親である山下さんの協力が必要なんです」
だって。まさかの意外な言葉に、僕は思わず呆気に取られた。てっきり、社交辞令的に『その気持ちだけでも嬉しいです』程度のことを言われるだけだと思ってたから。本当に僕にできることがあるとか、思ってなかったから。
それにしても、千早ちゃんが沙奈子を手本に?。まるでタイプが違うからあまり手本にできそうな部分があるようには思えないけど、どういう風に手本にしてるんだろう…?。
そんな僕の疑問に答えるみたいにして、星谷さんはさらに言った。
「千早にとって、自分に意地悪をしようとした相手でさえあんな風に受け止めてくれる器を持った人が自分の目の前にいるというのが、とても大きな指標になっているんだと思います。それは、私にとってのイチコと同じです。
イチコと知り合ったばかりの頃の私は、自分で言うのもなんですが独善的で狭量で視野の狭い傲慢な人間でした。自分の考えだけを正しいと思い込み、他人を自分に従わせることが最善の道だと思っていたんです」
…え?。まさか。星谷さんが……?。
信じられなかった。こんなに僕たちのために力を尽くしてくれる人がそんなだったなんて、まるでピンとこなかった。確かに、自分の信念を貫く強さを持ってて、そのために必要なことなら多少強引でもやり遂げるタイプの人だとは思ってたけど、独善的とかまでは感じなかったから。
僕の戸惑いをよそに、星谷さんは続けた。
「ですが私は、イチコと出会い、彼女の器に触れることで自分の小ささを知ることができました。自分が思う正しいことのためなら何をやっても許されると思い込んでいた自分の危険性に気付くことができたんです。もしそれがなければ、私は今頃、取り返しのつかない過ちを犯していたでしょう。
事実、私は、ある同級生を、事件を起こす寸前まで追い詰めてしまったのですから…」
そう言った星谷さんの目に、辛そうな光がよぎったように僕には見えたのだった。




