二百九十四 千早編 「誕生日前日」
木曜日。僕と沙奈子はいつも通りの朝を迎えてた。玲那の判決が完全に確定したり、沙奈子がネット上の悪意に触れてショックを受けて笑顔を失くしてってしたりと僕たちにとって大きなことがあって三週間ほどが過ぎて、ようやく少し落ち着いてきた気がした。
ここまでの間、生活自体は平穏そのものだったと思う。何か問題が起こるわけでもなかったし。まあ、ゴールデンウイークもそれどころじゃなくて何もなく過ぎたけど、それは別にいいかな。
沙奈子や玲那の様子も安定してると思う。特に、自分の所為で沙奈子を苦しめてしまったと思った玲那の落ち込みようは見てるだけでも辛いものだったのが、今では以前の彼女に戻りつつあった。沙奈子も、ひどく取り乱したのはあの一日だけで、後はまあいつも通りだったのかもしれない。まったく笑顔がないことを除いては。
ただそれも、それ以前からほとんど笑わなかったから、そんなに大きな変化でもなかった気はする。この後、中学高校と、笑顔どころか表情らしい表情も見せないことから『クールビューティー』とか『氷姫』とか一部では呼ばれることになったらしいのは、いずれまた触れることになるかな。
僕はもう、沙奈子に無理に笑顔を取り戻させることはしないように心に決めていた。笑うことができないのは、この子自身の問題だから、この子が成長して自分でいろいろなことを受けとめられるようになったら、また笑うことができる気がするし。それまでは落ち着いていられればそれでいいと思う。
なんにしても、明日は沙奈子の誕生日。明後日の土曜日に四人で集まって簡単なパーティーをすることになってる。それ以前にも明日、山仁さんのところでも祝ってくれるって話だった。千早ちゃんと大希くん主催で。
沙奈子が笑顔を失くしても、千早ちゃんと大希くんは何一つ変わることなく友達でいてくれてた。特に千早ちゃんなんて、『沙奈ちゃん、沙奈ちゃん』ってまるで本当の姉妹のように大事にしてくれてる気がする。千早ちゃんにとっては可愛い妹って感じなのかも知れない。誕生日は沙奈子の方が先だけどね。千早ちゃんは確か6月だったかな。
いつも通りにテレビに映し出されたビデオ通話の画面越しに四人で一緒に朝食を済ませて、用意をして、『行ってきます』『行ってらっしゃい』と挨拶とキスを交わして僕は仕事に向かった。
沙奈子がネット上の玲那に対する罵詈雑言に触れてしまったあの日、彼女を一人にしてしまったことを僕も悔やんだけれど、考えてみれば毎朝こうやって僕が先に仕事に行ってたわけだから、沙奈子が一人になる時間というのはずっと前からあったことなんだよな。だから本当に間が悪かったと言うか、不運な出来事だったってだけかも知れない。いずれは彼女も自分でネットをするようになって、そういう闇の部分に触れるようになってたんだと思う。あの子の性格からして、やっぱり笑わなくなってたかも知れないし。
だからあまり考え過ぎて自分を責めすぎるのはやめようと思った。そうなってしまったことを後からあれこれ言っても所詮は『たられば』だからね。だったらこれからどうするかを考えるべきだと改めて思う。
会社の方も相変わらず残業させてくれないから、心を閉ざした状態で仕事をこなした。よくまあこんなことを続けられるものだと、帰りのバスの中で考えたりもした。会社もそうだけど、僕自身についてもね。
山仁さんのところに沙奈子を迎えに行くと、大希くんと千早ちゃんにも「おかえりなさい」とニコニコしながら言ってもらえた。二人が、沙奈子が笑うことができない分も頑張って笑顔を向けてくれてる気がして、ちょっと込み上げてきてしまった。
沙奈子にはもう少し二人と一緒に待っててもらって、僕は二階へと上がった。そこにもいつもの顔触れが揃ってた。その光景を見ると、何だか安心した。僕の家じゃないけど、何て言うか、実家に顔を出してホッとする感じってこういうのかなとか思ったりした。
ビデオ通話で絵里奈と玲那も参加して、お互いに今日あったこととかを話した。と言っても、さすがに毎日のことだから僕たちの方からは『今日も無事に過ごせました』程度のことしか言えないけどさ。
ただ、波多野さんの方ではこれまでの間にもいろいろ動きがあったらしい。お兄さんの事件は、結局、家裁での審判ではなく、大人と同じように正式に裁かれることが確定したってことだった。星谷さんが言うには、『これで厳しい判断が下されることはほぼ間違いなくなったと見ていいでしょう』だって。
あと、お兄さんは星谷さんが手配してくれた弁護士を解雇して、改めて国選弁護人を付けたっていう話だった。星谷さんが手配してくれた弁護士は無罪主張する気がないからってことらしい。確かに認められた権利なのかも知れないけど、どこまでも往生際が悪いと言うか、ますます心証が悪くなるだけなのになって思ってしまった。玲那のことを間近で見てきたから余計にそう感じるのかも知れない。
さすがの星谷さんも渋い顔で、
『刑を終えた後の社会復帰と再犯防止については、カナの為にも協力はしますけどね。でないとまたカナに迷惑が掛かりますから』
と不満げに漏らしてた。波多野さんは、
『ほんっとうにごめん!、あの下衆野郎のせいでピカにまで迷惑かけ通しで、こういうのを針の筵って言うんだと思い知ったよ』
だって。お兄さんは、自分の妹がこんなに苦しんでることを本当に何とも思ってないんだろうか…。僕はそれが悲しくなった。
でもとにかく、これで裁判が本格的に始まることになるそうだ。どういう結果が出るにせよ、ここまで揉めに揉めたんだから早く決着してほしいと思わずにはいられなかった。
そんなこんなもありつつ、でもまあ改めて何か問題が生じたっていうのもないのが確認できて、なんだかみんな、今の状況に慣れてきてしまってる感じもあった。波多野さんも、お兄さんに対しては怒りつつも、雑談とかになったら普通に笑ってたりするし。これが日常になるっていうのも困りものだけどね。
それでも、波多野さんが明るい顔も見せてくれるのは救いだった気もする。彼女もしっかり今の状況に立ち向かうことができてるんだなって感じられた。これなら、お兄さんにどんな判決が下ってもそれを受け止めることができそうだ。ただ、波多野さん自身は厳しい判決が下ってくれることを望んでるのは間違いないらしい。被害者の一人としてね。それも当然のことなのか。
話が一段落して僕と沙奈子が家に帰ることになった時、見送りに出てきてくれた千早ちゃんと大希くんが、
「明日はパーティーだね」
と笑い掛けてくれたのが、なによりホッとできたのだった。




